胸の奥から沸き上がる感情の名は
ノックの音が執務室へ響き、壁際に控えていたフィーゴが訪問者を確認してから扉を開く。
「失礼します」
恭しく一礼をして入室した老齢の執事が携えた包みから香るのは、甘くこうばしい焼き菓子の香り。
「先ほど焼き上がったクッキーでございます。奥様が使用人達へ労いの言葉と共にくださいました」
離宮の管理を任している老齢の執事は、持参したクッキー入りの袋を執務椅子へ座るアルフォンスへ手渡す。
「ご苦労」
受け取った袋からほのかに温かいチョコチップクッキーを一枚取り出し、かしゅりと噛み砕けばアルフォンスの口腔内に控え目な甘さが口いっぱいに広がる。
数時間ぶりに口にした甘味が体内に広がり、溜まった疲労で重くなっていた身体が少しだけ軽くなった気がした。
「昨日よりも酷い顔色をしていますよ。食事と休憩はしっかりとってください。今、アルフォンス様が倒れてしまわれたら中央は混乱に陥ります。元老院に反乱を起こされたらどうするのです」
「ああ、分かっている」
冷めた珈琲を一口飲んだ後、アルフォンスはプレーンクッキーを口へ放り込んだ。
国王夫婦の隣国訪問、ヘンリーと男爵令嬢の婚約、ようやく鎮火した国境沿いの森林火災への対応と、アルフォンスが処理しなければならない仕事が山積みとなっていた。
一月前に結婚したばかりの新婚だというのに、かれこれ二週間は離宮へ帰っていない。
当然別宅にも一月以上足を運んでおらず、リアムの浪費と男娼漁りが酷くなっていると、請求書と共に暗部からの報告書が届いた。
手紙のやり取りも無く、顔も合わせず放置しているのは新妻のシュラインも同じなのに、こうもリアムは自己中心的で愚かなのかと、彼の処遇を考えていたアルフォンスは頭が痛くなる。
「奥様は女主人として結婚式の返礼をし、宮殿内の家具の配置やカーテンを変えたり、菓子作りをして使用人達へ振る舞ってくださってます」
「そうか」
「使用人達も、奥様がいらしてから宮殿内が華やかになったと、以前より生き生きと仕事に励んでおります」
その言葉通り生き生きと仕事に励んでいるらしい、老齢の執事は穏やかに微笑む。
「家具と内装を一新するつもりならば、シュラインの望む通りにしてやってくれ」
「殿下、奥様は新しい家具の購入は望まれておりません。元々あるカーテンやクッションに刺繍をしロビーに花を飾り、宮殿は以前よりもずっと明るくあたたかな雰囲気となっています。奥様から請求されたのは、裁縫道具と花瓶、製菓用材料くらいです」
アルフォンスは目を見開き、執事と手元のクッキー入りの袋を交互に見た。
「シュラインは……退屈していないなら、いい」
「奥様を気にかけていらっしゃるならば、たまには宮殿へお帰りになってください」
「お前は、ずいぶんとやわらかな表情と物腰になったな」
離宮の使用人達を統括している厳格な執事とは思えない、穏やかな表情とやわらかな物腰の彼を見たのは初めてかもしれない。
離宮の使用人達がシュラインを女主人として受け入れ、堅物の執事をも変えてくれたのは良いことだろう。だが、アルフォンスの胸中では戦々恐々としたものがあった。
「フッ、堅物のお前を一月足らずで変えたシュラインの側に居たら、私は彼女との契約を守れなくなりそうだ」
「アルフォンス様と奥様、お二人が仲睦まじくされるのは私をはじめとした使用人一同、とても喜ばしいことだと思っております。先ずは宮殿へお帰りになり、ゆっくりお休みください」
意味深な笑みを向ける執事が何を言いたいのか分かり、アルフォンスは額に手を当ててしまった。
翌日の昼過ぎ、睡眠不足と疲労で鉛のように重い身体を引きずり離宮へと向かった。
出迎えた使用人が扉を開き、足を踏み入れたアルフォンスはほのかに香る甘い香りに気が付く。
「厨房で菓子でも焼いているのか?」
「あ、その、奥様が、」
一列に並んで出迎えた使用人のうち、近くに立つメイドに問えば彼女は眉尻を下げ口ごもる。
「シュラインがどうした?」
「それは、」
その時、奥からパタパタと軽い足音が聞こえ、メイドは明らかに安堵の表情を浮かべた。
「お、おかえりなさいっ、アルフォンス様」
小走りで来たシュラインはよほど慌てたのだろう、髪は簡単にハーフアップにして化粧もほとんどしていない。
少し乱れた髪からは甘ずっぱいベリー系の香り、シンプルなワンピースからは焼き菓子の甘い香り。
(これは、まずいな)
睡眠不足と疲労が蓄積し、思考力が低下した脳には耐えきれない。
困ったことに、甘い香りを纏うシュラインが美味しそうに見える。
(毎日、こうしてシュラインが出迎えてくれたら)
アルフォンスの身体の奥が疼き、熱を持っていく。
「アルフォンス様? ひゃあっ」
黙ったままでいるアルフォンスを、シュラインはどうしたのかと見上げる。
口を開いて答えるよりも早く、アルフォンスはシュラインの腰へ腕を回して衝動的に抱き締めていた。
「……ただいま」
耳元へ唇を近付け言うと、シュラインは頬を赤く染めた。
彼女自身から香る、甘い香りが強くなっていく。
(はぁ、これは堪らないな)
抱き締めたシュラインのやわらかい感触と香りに、我慢できなくなったアルフォンスは彼女の頭頂部へ口付けた。
***
王太子の新たな婚約発表を行う、王妃主催の夜会当日。
準備が出来たと侍女から告げられ、室内へ足を踏み入れたアルフォンスは部屋の主、シュラインの姿に息をのみ双眸を細めた。
「綺麗だな」
「あ、ありがとう、ございます?」
戸惑い混じりに視線をさ迷わせるシュラインが着ているドレスは、一見落ち着いた紺色とデザインだが、彼女の纏う色彩と美しさを十分すぎるほど際立たせていた。
背中が開いたデザインのドレスから肌は艶かしいよりも神々しく見え、触れていいのかを迷ってアルフォンスは毛先を巻いて左側に纏めて結った髪へそっと触れる。
「アルフォンス、様?」
目元を赤く染めたシュラインは、恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。
「シュライン、渡したい物がある」
背後へ回ったアルフォンスが目配せすると、従者が小箱の蓋を開けて彼へ手渡す。
何かと振り向こうとするシュラインへ「目を瞑って」と耳元で囁いた。
シュラインが目蓋を閉じたのを確認し、白いうなじを一撫でしてから輝きを抑えた金とエメラルドのネックレスを首にかけ、次いで結った髪にもエメラルドを使用した髪飾りを差し込む。
「思った通り、よく似合う。目を開けてごらん」
唇を耳飾りへ近付け、アルフォンスは甘く低い声で囁いた。
くすぐったそうに肩を揺らし、シュラインは閉じていた目蓋を開いた。
「え、これは」
目を開いたシュラインの前には、アルフォンスの指示で鏡を持った侍女が立つ。
エメラルドの首飾りと髪飾りを付けた自分の姿に、ポカンとシュラインは目と口を見開いた。
「わたくしに? ありがとうございます」
今までアルフォンス自らの手で贈り物を選び手渡したのも、男女共に自身の色を身に付けさせたのも初めてだった。
目の前のシュラインが自分の瞳の色を身に付けている、そう実感すると胸が高鳴っていく。
(たとえ契約でも、シュラインは私の妻だ)
彼女は契約だと割り切っていても、“妻”という証を身に付けさせたという喜びがアルフォンスの内に生じる。
「では、行こうか。お手をどうぞ」
まるで初めて女性をエスコートする思春期の少年のように、早鐘を打つ心臓の鼓動に気付かれないよう普段通りを装い、アルフォンスはシュラインへ右手を差し出した。
アルフォンスにエスコートされて馬車へ乗り込んだシュラインの表情は、王宮へ近付いていくにつれて固くなっていく。
向かい合わせに座っていたアルフォンスは立ち上がり、シュラインの隣へ座った。
驚き目を見開くシュラインは顔を上げ、近すぎる互いの距離に身を縮ませ目蓋を伏せる。
「王妃主催の夜会など楽しめないのは私も同じだ。貴女は何もしなくてもいい。私の側で笑っていればいい」
「……はい」
上擦った声で頷いたシュラインの頬は真っ赤に染まり、彼女が自分を意識してくれていることに満足してアルフォンスは口元を綻ばせた。
甘甘までいかなかった(。´Д⊂)




