アルフォンスの憂鬱な日々②
少年にイタズラする表現があります。苦手な方は注意してください。
王太子妃となった数ヶ月後、リリアは無事に男児を出産する。
生まれた王子はヘンリーと名付けられ、ヘリオットとリリアはヘンリーの世話にかかりっきりとなり、アルフォンスは束の間の平穏な日々を過ごすことが出来た。
しかし、夜泣きで体調を崩したと訴え、二ヶ月後には乳母にヘンリーの世話を丸投げするようになってしまう。
いずれ息子夫婦は育児を放棄するだろうと、想定していた国王と王妃は信頼のおける乳母を用意していたのだが、首の座らぬ乳児期での放棄には「薄情で無責任だ」と怒り心頭といった様子だった。
「婚約者、ですか?」
王妃の部屋を訪れたアルフォンスは、手渡された令嬢の姿絵と向かいに座る母親を交互に見る。
「わたくしは貴方が心配なのです。リリアがヘンリーを放置して貴方に夢中になっていることは、良くないことだと分かりますね」
「母上、僕は」
「まだ貴方は幼く、リリアに対して恋慕う気持ちなどは無いのでしょう。それでも、女性はいくらでも男性を騙せる。リリアは男性を操る術に長けています。王命によりアルフォンスに婚約者が出来れば、リリアは王太子妃として節度ある対応をしなければならない」
アルフォンスの将来に危機感を抱いている王妃は、有無を言わせない強い口調で「王命」だと告げる。
トレンカ公爵派の侯爵令嬢との婚約は、揺らぎかけている王家への信頼と忠誠心を取り戻すためだと考えると、アルフォンスは頷くしか出来なかった。
二日後、婚約を結ぶ前に顔合わせをした侯爵令嬢は、栗色の髪と橙色の瞳をした控え目だが穏やかな性格をしていて、彼女とならば良い関係を築けるのではないかと思えた。
社交界デビュー前に婚約した二人は手紙のやり取りを始め、徐々にアルフォンスは婚約者に惹かれていくのを感じていた。
だが、婚約者との手紙のやり取りはある日突然終わりを迎える。
ガシャンッ!
剣術の鍛練を終え、用意された果実水を飲んだアルフォンスは体の異変を感じグラスを落としてしまった。
「はぁ、なん、だ?」
果実水を飲み込んだ喉が、腹部が熱を持ち痺れ始めたのだ。
痺れは体の中心部からどんどん広がり、体中が痺れとむず痒い感覚に支配される。
体に力が入らず、アルフォンスは転げるように椅子から落ちた。
「くぅ、体が、誰か、」
壁際に控えていたはずの使用人は誰一人姿は見えない。
床に四つん這いとなったアルフォンスは、力が入らない四肢を動かし立ち上がろうとするもそれは叶わなかった。
額から汗を流し歯を食いしばり、床へ爪を立てながら両腕に力を込めて上半身を起こした。
キィ……
上半身を起こしたのと同時に、閉められていた扉が開く。
扉の方を向いたアルフォンスは開きかけた口と目を大きく見開いた。
「な、ぜ?」
現れたのは使用人ではなく、胸元が広く開いた扇情的なドレスを纏ったリリアだった。
苦し気な呼吸を繰り返すアルフォンスを見下ろしたリリアは、紅い口紅で彩られた唇の端を吊り上げる。
肉食獣じみたリリアの瞳に見詰められ、嫌な予感にアルフォンスの頬を汗が伝い落ちた。
「アルフォンス、大丈夫?」
身を屈めたリリアは、アルフォンスの上気した赤い顔の前へ見せつけるように、大きく開くドレスから零れ落ちそうな胸を突き出す。
「苦しいでしょう? すぐ楽にしてあげるね。じっとしていれば、その苦しいのも気持ちよくなるわ」
耳元で囁いたリリアの指先が頬と首筋を撫で下ろし、アルフォンスはビクリと体を揺らした。
「女の体を教えてあげる」
クスクスと笑うリリアの体から香る、噎せるような薔薇の香りとねっとりと絡み付く視線と指先。
首筋から鎖骨を撫でられ、アルフォンスの内から嘔吐感と嫌悪感が沸き上がってくる。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!!)
ぶわぁっ、とアルフォンスの全身に鳥肌が立った。
「触るなぁ!!」
鎖骨から胸元をまさぐるリリアの手を振り払ったアルフォンスは、力一杯彼女の肩を両手で押した。
「きゃぁっ?!」
肩を押されたリリアは、床へ思いっきり尻餅をつき悲鳴を上げる。
「リリア様っ?!」
主の悲鳴を聞き付け廊下で待機していた侍女達が入室するが、涙でぐちゃぐちゃになったアルフォンスの顔を見て言葉を失う。
必死の形相で立ち上がり、走り出したアルフォンスを止める者はいなかった。
「待ってよっ! アルフォンス!」
リリアの声が自分を追いかけてくるように聞こえ、恐怖のあまり耳を塞いで走った。
途中、数人の使用人にぶつかったが気にしてなどいられない。アルフォンスは自室へ向かって全力で脚を動かしていった。
バタンッ! ガチャリッ
自室へ駆け込み扉の鍵を閉めた瞬間、力尽きたアルフォンスはドアを背にして崩れ落ちた。
扉の外では様子のおかしいアルフォンスを案ずる声が聞こえる。
しかし、全ての声がリリアのねっとりとした声に聞こえてきて、手を当てて両耳を塞いだ。
「はぁはぁはぁ! 僕は、僕は……ぅう、気持ち悪い」
気持ち悪くて堪らないのに、下半身は異常なほど熱を持っている。
目前に晒されたリリアの胸に、触れたいという気持ちと嫌悪感という相反する感情が沸き上がり、思考がおかしくなっていくのは恐怖だった。
噎せかえるくらい強い薔薇の香りが、まだ自分にまとわりついているようで苦しくなり、右手で首を押さえたアルフォンスの呼吸が速くなっていく。
(誰か、助けてっ! 誰かっ!)
叫びは声にはならず、ひゅーひゅーという喉から空気が漏れる音となる。
息苦しさで薄れゆく意識の中、アルフォンスは天へ向かって必死で手を伸ばした。
***
伸ばした手にあたたかい手が重ねられ指が絡まり、そっと握られる。
手を握る相手から香るのは、気分が悪くなるくらい強い薔薇の香りではなく、美味しそうな甘い焼き菓子の香り。
「……ス、様……アルフォンス様っ」
涼やかな女性の声が聞こえ、眠りの淵に沈んでいたアルフォンスの意識が浮上していく。
「う……」
重い目蓋を開いたアルフォンスの霧がかった視界がとらえたのは、ホワイトブロンドをハーフアップにしたアメジストを彷彿させる紫色の瞳をした佳麗な女性の姿だった。
「アルフォンス様、大丈夫ですか?」
「シュライン……?」
彼女の名を呟いて、此処が王宮ではなく宮殿の居間だということに気が付いた。
数日ぶりに宮殿へ帰り、いつの間にかソファーに横たわって眠っていたらしい。
「嫌な夢でもみたの?」
身を屈めるシュラインの紫色の瞳を見詰め、過去の自分に苦痛を与えたリリアとは真逆な色彩に安堵した。
「私は、眠っていたのか」
シュラインと繋いだままの手と逆の手で顔にかかる髪を掻き上げる。
まだ眠気は残っていたが、宮殿へ帰ってきた時よりは幾分か頭はすっきりしていた。
「嫌な夢か。ああ……そうみたいだな」
幼いアルフォンスが女性に嫌悪感を抱くようになったリリアからの悪虐。あれは悪夢だったとしか思えない。
(シュラインから香るのは、甘い、香り。嫌悪感は全く沸き上がらない。むしろ、美味そうだな)
吊り目で気の強そうな見た目なのに、こんなにも甘くまろやかな香りを纏う二年間だけの妻。
目を細めたアルフォンスはシュラインの手の甲へ口付けを落とす。
「もうっ、お疲れなのでしょう。お時間があるなら、もう少し休んでいかれたらどうですか?」
頬を染めたシュラインはソファーから離れようとするが、アルフォンスは握っていた彼女の指に自分の指を絡めた。
「そうだな。シュライン、私が眠るまで手を握っていてくれないか」
「そ、そういうことは、恋仲の方に頼んでください」
全身を真っ赤に染めたシュラインは、目尻と眉尻を下げて恥ずかしそうに視線をさ迷わせた。
「今はシュラインがいいんだ。……駄目か?」
「うっ、し、仕方無いですね」
甘えた口調で上目遣いで見上げられ、シュラインは言葉に詰まる。
ソファーの横へ移動させた椅子に座ったシュラインは、アルフォンスが眠るまで彼の手を握っていた。
リリアがアレでごめんなさい。
しばらくアルフォンスの回想が続きます。




