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空想上の男

作者: 武井戸次郎

深夜のファミレス。一人の男がテーブルにノートパソコンを広げている。

彼の名前は岸谷伸一。三十二歳独身。小説家志望のフリーター。東京で独り暮らしをしている。彼は大学を卒業後、就職もせずに、子供の頃からの夢であった小説家になることを志していた。日々、生活のためのアルバイトと自身の執筆活動に精を尽くしながら生きてきた。気づいた時には、もうかれこれ十年が過ぎていた。彼はこれまで、たくさんの小説を書いてきた。ジャンルはもっぱらミステリー小説であり、子供の頃からのミステリーファンで、敬愛する作家には江戸川乱歩を挙げている。彼は今まで、数々の公募に挑戦するも、ことごとく落選。そのどれもが日の目を浴びることはなかった。

今年こそは、新人賞を取るために新作の考案中。いつものファミレスの一席を陣取り、創作に耽っていた。今年こそは、必ず結果を残して見せる。だが、意気込みとは裏腹に、良いアイデアは思い浮かばなかった。先ほどまで、ある程度のプロットとストーリーを考えて、なんとなく書き始めてみようと実際に文字に起こしたまでは良かった。しかし、有る程度進んだ段階で、読み直して見たところ、ビックリするぐらい全然面白くないことがわかった。岸谷はそこで執筆を諦め、キーボードのdeleteキーを連打する。今まで書いた文章すべてを消去してしまったのだ。さて、また一からやり直しだ。そう心の中でつぶやき、空席の多い深夜のファミレスの一席で、一人ノートパソコンとにらめっこをすること三時間。考えに考えを巡らせるが、一向に良いアイデアが浮かばなかった。岸谷は埒が明かないと悟り、目の前にあるノートパソコンを閉じ鞄に突っ込んだ。テーブル脇に置かれた伝票を手に取りファミレスを後にしようと、腰を上げたその時だった。彼の席のテーブルのすぐ横に、黒いスーツを着た男が現れた。年齢は三十代くらい。体格はすらっと痩せ型。長髪でモジャモジャと際立つ髪のウェーブが、毛量の多さを物語っている。堀が深く女性ウケの良さそうな顔立ちであった。

「突然だけど、相席いいかな?」

男は相席を求めた。空席ばかりの店の中で、なぜこの席に座ろうとしているのかは謎だった。どちらにせよ岸谷は帰ろうとしていたので、譲るような形で席を後にしようとした。だが、彼は男に引きとめられてしまう。

「あんた小説書いてるんだろ?なあ、ちょっと話していかないか?」

男は岸谷が小説の執筆中であることを知っていた。そして、同席することを求めた。頭を掻き毟りながら喋る仕草。全身黒スーツで纏った風貌には、若干異様な空気を感じる。岸谷は不審に思ったが、この男には何か自分でもわからない独特な空気を感じる。断る理由も見つからなかった岸谷は、結局そのまま同席することにした。

時刻は一時をまわり、店内には、数える程度の客しかいなかった。その中に、私服姿とスーツ姿の不揃いな男が二人、向かい合って座っている。

岸谷はまず、男がどこの誰であるのかを知る必要があった。突然目の前に現れて、話をしようなどと持ちかけてくる理由もわからないが、まずは、相手の素性を聞くことにした。

「あなた、いったい誰ですか?」

男は答える。

「ああ、そうだな。まずは自己紹介が必要だったな。単刀直入に言おう。俺は、あんたの心の中に存在する空想上の人間だ。つまり、実在しない」

「…は?」

岸谷には言ってる意味がわからなかった。空想上?何を言ってるのだ。考える間も与えずに男は続ける。

「俺が突然現れた理由はひとつ。あんたの小説執筆に手を貸すこと。いいか、俺は今から、難航しているお前の小説に、素晴らしいアイデアを与たえてやるって言ってるんだ。それが俺の目的だ」

男の言っている意味が、岸谷には理解できなかった。突然目の前に現れておいて、自分は、お前の心の中に存在する空想上の人間だと?しかも、小説のアイデアを与えにやってきただと?荒唐無稽の発言に、岸谷は動揺する。

「ちょっと待ってください。あなた今、空想上って言いましたけど、どういうことですか?だって、こうして僕の目の前にいるじゃないですか。それに、会話だってしている。これがすべて僕の空想ってことなんですか?」

「ああ、そうだ」男は平然と答える。

「いや、待ってください。僕にはあなたの姿が現実としてはっきり見えています。声だってちゃんと聞こえるし、これが空想だなんて、あまりにも馬鹿げてる」

「たしかにそうだな。だが事実だ。今お前が見て、話している俺という存在は空想。現実には存在しない。つまり、ここにはお前一人しかいない。喋っているのも、お前一人だ。言い換えれば、俺とお前は同一人物と言ってもいい」

「そ、そんなこと。あり得るわけないじゃないですか。仮に、もしあなたが空想だとしたら、証拠を見せてくださいよ」

「…証拠か、わかった。いいだろう。ちょっとお前、そこの呼び出しボタン押してみろ」

そう言うと男は、テーブルの隅にある円形の呼び出しボタンを指差した。どういうつもりなのだ?そう思いつつ、岸谷は、訝しげな表情を浮かべながらも言われるままにボタンをそっと押す。店内に呼び鈴が鳴り響き、程なくして店員がやってきた。アルバイトであろう若い大学生のような細身の女性店員であった。

「ご注文でしょうか?」

店員は、岸谷の方を向きながらそう言った。それに応えるように男は言った。

「えーと、シーザーサラダにポテトフライ。それとエビドリアにドリンクバーつけて、食後にチョコレートパフェを頼むよ」そう言った後に、男は店員に向かって笑顔を見せた。

だが、店員は男を無視するかのように、岸谷の方を向いたまま無反応であった。

「お客様、ご注文でしょうか?」店員がもう一度言った。

「だから、エビドリアにドリンクバーだよ、ねえちゃん。なあ、なあ」

男の言葉に店員が反応することはなかった。

その光景を目の当たりにした岸谷は硬直した。店員には、この男が見えていない。なぜだ?なぜ自分にしか見えないのだ?この男は、本当に空想上の人間なのか?疑惑の念を拭えずに、岸谷はその場に硬直したまま男を見つめる。その表情には、不敵な笑みが浮かんでいた。

「あの、お客様…失礼ですが…」もう一度店員が言葉を発した時。岸谷は我に返った。

「あ、はい。えーと。すいません、押し間違えちゃったみたいです。注文はありません。すいませんでした」

「そうですか、かしこまりました。では、失礼いたします」

そう言って店員は、訝しげな表情を浮かべながらも、その場を後にした。席には沈黙だけが残っている。男は言った。

「これで理解したか?俺は、お前以外の人間には見えない」

岸谷は困惑しながらも応える。

「あなたは、本当に、僕の……空想」

「その通り」

自分は今まで、まともな人間だと思っていた。ましてや空想癖など、ないと思っていた。だが今は違った。目の前にいる黒スーツの男は、紛れもなく自分にしか見えない存在だった。幽霊。と考えることもできたが、自分には霊感などない。第一、幽霊がこんなにフランクなキャラクターというのも考え深い。自分は、きっとどうかしてしまったのだ。小説家になることを夢見て、日々の執筆活動に精を尽くすあまり、昼夜問わず寝る間も惜しんで執筆したり、時には勉強のための読書に耽ったりと、寝食を忘れる程、生活の全てを小説の創作活動に費やしてきた結果、慢性的な寝不足になったことも否めない。きっと、それが原因で精神に影響を及ぼしたのだろう。岸谷はそう悟った。

「さて、これでわかってもらえたかな。俺はお前の空想上の産物だ」

岸谷は応える。

「わ、わかりました。あなたが僕の空想上の人間。つまり、僕が創り出した、僕だけにしか見えない存在というのは認めましょう。きっと僕は疲れているんです。日々の執筆活動に精を出しすぎた結果、慢性的な疲労になり、それが原因であなたのような幻影を見るまでに至ってしまった。これは僕の責任だ。ただ釈然としないことがあります。あなたが僕の想像した人間だとしたら、なぜ僕はそれを自分で理解できないのかと言うことです。たとえ、想像だとしても自覚がないというのはどういうことなんでしょう?それに、あなたは先ほど、小説のアイデアを与えると言っていましたが、僕が想像した人間からアイデアを得るということに矛盾を感じるんです。僕の空想ということは、ある意味、僕とあなたは同一人物ということになる。確かに僕は、先ほどまで小説執筆をしていましたが、全くと言っていいほど、アイデアが浮かばなかった。でもそれを、あなたに解決してもらえる術は、僕にはないと思うのですが」

「問題はそこなんだ」

「ど、どういう意味ですか?」

「いいか、人間の意識っていうのは、大きく分けて二種類の心理構造になっている。人間の心理構造を海等に例えた場合、意識として外部から見える表層部分と、外からは直接見えない深層部分といったふうに思考を重層的にとらえることができるんだ。表層部分の心理を「表層心理」、深層部分の心理を「深層心理」というんだ。表層心理というのは、わかりやすく言うと、自分で自覚することのできる心理のことだ。例えば、お前がホラー映画を見ているとする。映画の中で突然、幽霊が出てきたり怪奇現象が起こると、その時に感じる恐怖は、日常では体験することのない未知の恐怖心を煽られて起こる心理状態だな。つまりそれは、自覚することのできる恐怖という表層心理の表れとなる。一方、深層心理というのは、自分では自覚していないにも関わらず、無意識に表れる感情や思考を司る心理の事だ。この深層心理っていうのが厄介でな、幼少期や過去の経験、劇的な体験なんかが、記憶とともに心理的影響を意識の中に植え付けるんだ。高所恐怖症という症状を知ってるな?これは、幼少の頃に不注意による高所からの転落事故や怪我など、その事故によって生じた心理的外傷が心の中に残っていて、後に自分でも思い出せないような記憶となったとしても、無意識のうちに「高い」という感覚が、恐怖感や嫌悪感を呼び覚ましてしまう現象のことだ。これは深層心理による作用と考えられる」

「表層心理と深層心理…?」岸谷は呟く。

「お前が俺という存在を自らの空想として自覚できない理由は、お前の深層心理が無意識に俺という存在を作り上げたに過ぎない。お前はさっきまで、自分が小説のアイデアを出せないことで苦悶していた。心の何処かで誰か別の人間に手を借して欲しい、助けて欲しいという思いがあり。それが俺という存在を無意識のうちに空想したということだ」

「つまり、あなたは僕の深層心理側から現れたもう一人の僕」

「そういうことだ。ちなみに、今言った心理構造についての内容は、お前も知っている知識だ。過去にその手の文献を読み漁っていた時期があっただろう。無意識に記憶の奥底に沈んじまってる知識でも、心の中にはちゃんと残っているものなんだ」

「なるほど、だがあなたは先ほど、深層心理は過去の経験によって影響されると言っていましたが、僕にはあなたのような人間を想像するに至る過去の経験があるといことでしょうか? 僕にはあなたという人間を見た経験もないしあったこともない。それに、いくら深層心理が無意識下で心に影響を与えると言っても、人の想像力や知識が深層心理によって増大したり、産出できる可能性があるとは思えない。ゆえにアイデアが生まれる道理になるとは考えがたいと思います」

「そうか?そんなこともないぞ。まず、俺の容姿にはお前は見覚えがあるはずだ。いや、正確には過去に何度も俺を空想してきたと言った方が正しいか」

「過去に、あなたを何度も…?」

「そうだ。お前には昔から好きな小説家がいたな」

「……江戸川乱歩」

「そう、その作家が書いた小説の中に、お前の好きだったシリーズがあるな」

男は岸谷の目を見つめたまま、人差し指をピンと立てて見せた。

「……まさか、明智小五郎?」

「ご名答。江戸川乱歩の明智小五郎シリーズは長年に渡って描かれてきた名作だ。作中での明智小五郎の風貌は、作品ごとに何度か変わっているが、今の俺の風貌は、シリーズ中でもお前が一番好きだった作品「一寸法師」。俺の風貌はまさにその時の明智小五郎。たしか、始めて読んだのは小学5年生の時だったな。今となっては遠い記憶だがな」

確かに、男の風貌には少し現代離れしたイメージを感じた。黒いスーツと言っても、生地や造りがどことなく大正時代の外来品のような古めかしいイメージがあったからだ。それに何より、長髪のモジャモジャとした頭を掻き毟る仕草。それは、まさに江戸川乱歩が作中で描く明智小五郎の描写とそっくりであった。岸谷は、無意識にこの明智小五郎に似た人物を空想していたのだ。男を目にした時に、過去に出会ったことのない、身に覚えのない人物、というのはあながち間違いではなかった。なぜなら、男は小説の中の人間。もとから存在しない人間だからである。だが、岸谷の記憶、深層心理には、男の姿形はちゃんと印象付けられていた。全ては、幼少時代から敬愛する江戸川乱歩の小説中での描写によるところに起因するのだった。

「言われてみれば、確かにあなたは僕が子供の頃に描いていた明智小五郎のイメージだ。明智小五郎シリーズは何度かテレビドラマ化されているが、小説内に出てくる明智小五郎と一致するような人物描写をしているものは数少ない。小説を原作とした映画やドラマにはよくあることだけど。あなたは、僕が小説で読んだ人物描写のイメージを具現化したオリジナルの明智小五郎像ということですか?」

「その通り、だいぶ容姿端麗にしてもらえて嬉しいよ。ま、お前が憧れる存在だから当然といえば当然だな」

「わかりました。あなたが僕の深層心理から生まれた。僕の憧れの存在だった明智小五郎というのも理解しました。だが肝心の、小説のアイデアに対する解答をまだ得ていません」

男は頭を掻き毟る。先ほどよりまして明智小五郎らしさいと岸谷は思った。

「そう、そもそもはそれが俺の役目。お前に手助けをすること、アイデアを与えることだ。さっきも言ったように、深層心理は過去の経験によって影響される。無意識のうちに心の中、記憶の中に潜在的な心理的影響を与える。お前の場合は、これまで小説にかけた人生の全てが、今の自分自身に心理的影響を与えてきた。お前のこれまでの小説にかける思いは人一倍であった。大学を卒業してからの十年間、まともな職につかず、アルバイトをいくつも掛け持ちしながら生活を食いつなぎ、寝食を忘れるほど日々の執筆活動、読書活動に精をつくしてきた。子供の頃からの夢であった小説家を目指すその志の高さは、俺がよく知っている。だが、これまで数々の小説を書いては公募に挑戦するも、ことごとく落選するばかり。賞という賞は一度も得ることはなかった。人生を掛けた小説に対する想いも虚しく、お前はこれまで辛酸を舐め続けてきた。だが、その全てが無為に終わったわけではない。これまでのお前の経験は無駄ではなかった。十年間、お前はいろんな小説を読んできた。ミステリーから始まり、純文学、恋愛、SF、歴史、エッセイ、勉強のための哲学書や経済書、そして…心理学。お前の頭の中には、これまで読んできた読書の量の膨大な知識が内包されている。それに加えてお前はたくさんの小説を書いてきた。そのほとんどがミステリーだが、十年間書き続けたお前の文才は素人の書く小説とは比べ物にならないほど長けているはずだ。お前の小説家としての能力は申し分のない程度に上達しプロとしてやっていけるだけの器量と技能を持っている。ただ、お前はそんな自分の才能を十分に発揮できていない。お前がこれまで書いてきた小説のほとんどは、どこかで読んだことあるようなありきたりなもの、基本的な文章や構成が出来上がっているものの、肝心な独創性にかける。オリジナリティのないもの。何処かで読んだことあるようなストーリーや構成をマネしているにすぎない。だからつまらないんだ。それに加えて、お前は今までミステリーというジャンルにこだわり続けたことも一つの要因だ。ミステリーには小説を書く上での制約が多すぎる。セオリーに縛られながら書くことに独創性を追求することは難儀だ。それはお前自身がよくわかってることだ。違うか?」

岸谷は男の視線を感じながら、動揺する。

「そんなこと言われなくてもわかってるよ。僕はいつも独創性という部分で悩んできた。その度に、新しい小説を読んだり、有名小説家の講演会に出席したり、他ジャンルである映画や音楽など、自身の創造力を刺激するさまざまなものに触れてきた。でも、それは単に新しいものを読んだ、聴いた、見た、ということでしか満たされなかった。そこには僕の独創性を覚醒させることよりも、真似をしたい。自分もこういうものを作ってみたくなった。という作品に対する嫉妬感しか生まれなかった。深層心理じゃなくても、ずっと自覚してきた自分自身の欠点だ」

岸谷は苦悶の表情を浮かべる。自身の小説の欠点を批判されたことに対してもそうだが、何より空想である目の前の男の言葉が自分自身の深層心理によるものなのだという感覚がいまだに実感できないほど威圧的に感じられ、同時にこの場から逃げたい衝動に駆られたのも事実であった。男は、そんな岸谷の心情を無視するように話を続けた。

「俺がお前に与えるアイデアは、新しい小説の内容ではない。お前が今まで読んできた本や映画から得たアイデアからは、面白いものは生まれない。お前が小説家として書かなければならないのは、お前自身の人生、過去だ」

「なんだって?」

「岸谷伸一。三十二歳独身。小説家志望のフリーター。大学進学と同時に東京へ上京し、四年間の学生生活を経てもなお、自身の野望のために、就職はせず日々執筆活動に励みながら生活している。それも十年間。お前が小説家を目指すきっかけは何だ?」

「そ、そんなことを、確認することに何の意味があるんですか?僕の過去が小説のアイデアだなんて。あなたは一体何を考えてるんだ」

「いいから答えろ!」

男の口調が一変する。岸谷は硬直する。と同時に、これは自分自身の空想なのに、なぜ自分は己の分身に問い詰められなければならないのか、と自己疑心の念にとらわれる。

「僕が、小説家を目指すきっかけは、子供の頃、忘れもしない小学五年生の夏、初めて図書館で借りて読んだ江戸川乱歩の小説に憧れを持ったから……」

岸谷は正直に答えた。と同時にそれを聞いて何になるのだという疑念は拭えなかった。

「確かにそうだな。お前の小説人生はそこから始まった。それが自身の野望だと悟った。だが、それと同時にお前の『償い』が始まったのも同時期だな」

「……つ、償い?」

その言葉を聞いた瞬間、岸谷の意識の中にひとつの違和感が生まれた。この男、何を言ってるんだ?

「償いが始まったって言うのはどういう意味ですか?あなたいったい何を考えてるんだ?」

岸谷は激しく動揺する。

「どうした?何を動揺してる?お前も自分自身でわかってるはずだ」

「な、何を!」

「まぁ落ち着け、そういえばお前の両親は、どうしてる?」

「そんなこと聞いてどうなる」

両親。その言葉を聞いた瞬間、岸谷は激しく激昂する。男が次々と聞いてくる自分自身についての情報。男の魂胆が岸谷には理解できない。だが冷静になれ、こいつは自分自身であり、深層心理が引き起こした現象だ。だとしたら男に従うことによって自分を見つめ直すことができるのかもしれない。頭の中を鈍痛が行き来する感覚にとらわれながらも答える。

「りょ、両親は、子供の頃に亡くなった。たしか小学4年生の頃だ」

「お前は幼くして両親をなくした。当時一人っ子だったお前は、その後、叔父夫婦に引き取られ養子という扱いとして育てられた。両親が亡くなった理由は覚えているか?」

「……確か、小学四年生の頃。一緒にドライブへ出掛けた先で交通事故にあったんだ。家族でハイキングへ出かける途中、山道を車で走行中、運転していた父がハンドル操作を見誤って山道脇の崖から落ちてしまったんだ。車は大きく転倒し、崖下を転がり落ちた。幸いそれほどまでの高さではなかったので、車が大破することはなかった。でも、落ちた先に大きな倒木があり、車のフロントガラスを突き破り前席に座っていた両親の頭部をうち貫いていた。二人とも即死だった。奇跡的に僕だけが生き残り、たまたま近くにいた観光客に救助され一命をとりとめた」

「なぜ、父親はハンドル操作を見誤ったんだ?」

「それは……」

岸谷は言葉を詰まらせる。彼には思い出したくない過去の出来事だった。もう二十年以上も前の出来事であり、目の前で肉親を亡くした経験が、現在に至るまで彼の脳裏に色濃く根付いていることは当然であったが、彼にはもう一つ別の要因としての記憶として焼き付いていた。

「あの時、僕は車の中で両親と喧嘩をしていた。厳密には父さんとだったけど。ドライブへ出かける前の日の金曜日に、学校で授業参観があったんだ。その時にクラス全員が作文を読むことになっていた。テーマは確か『将来の夢』だった。それぞれ生徒たちは自分の将来になりたい職業なんかを夢として書き綴って参観日当日に発表するという授業内容だった。当時、僕には夢なんてなかった。だから僕は作文を書かなかったんだ。将来の夢がないのに、なんでこんな事しなきゃいけないんだって。周りのみんなが当たり前のように夢を語ることが僕には不思議でならなかった。当日になって先生が僕の名前を呼び、僕が作文を書いてないことを伝えると、教室中で笑いものにされた。当然、参観として来ていた両親は赤っ恥をかいた。翌日のドライブ中にその話になり両親に車の中で説教をされた。どうして作文を書かなかったんだ?ってね。決まりごとを守れないような子に育てた覚えはないぞ、とまで言われた。だけど、僕は反抗した。将来の夢なんてない、僕はまだ子供だし世の中のことがわからない。みんなが当たり前のように夢を書き綴ることはできないし、そもそも僕は文章を書くのが苦手だ。下手な文章を書いて恥をかく方がよっぽど嫌だって言ったんだ。すると運転席に座っていた父さんがいきなり怒鳴り出したんだ。お前は作文の一つもかけないのか、いつからそんな体たらくな人間になったんだ。ダメな息子だ。ってね。そう言われた僕も気が立っていたこともあり、つい『うるさい』と言って後部座席から、父さんの座っている運転席の頭の部分を足で蹴りつけたんだ。きっと僕はどうかしていたんだ。自分でもさじ加減のわからないまま、力いっぱい後ろから父さんの頭めがけて蹴りつけた。その時に……」岸谷は言葉に詰まる。黙って聞いていた男が付け加えた。

「父親はハンドルを見誤り、車が道路から脱輪」

「……そのまま崖下に落ちた」

岸谷の手には汗が溜まっていた。声は震え、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。それを見ていた男が話の続きを喋り出す。

「あの事故は、お前が招いたことだった」

「ぼ、僕はあの時、どうかしていたんだ」

「ああ、今までにないくらいの説教だったからな、仕方ないさ。お前が反抗心をむき出しにするのも無理はない。思春期にはよくあることだ。が、取り返しのつかないことをしてしまったのは事実だ。事故の直後、奇跡的に命を取り留めたお前は救助され、警察がやってきて現場を調べ上げたが、事故原因は単なる運転ミスとして処理された。当然だが、お前を疑うものは誰もいなかった。警察に、事故直前の車内の状況を聞かれた時も、お前は喧嘩の話はしなかった。普通に家族で会話をしていたというような答えしかしなかった。お前は自分が事故を招いてしまったことが恐怖で仕方なかった。両親を死なせてしまったのが自分であり、最後に話した内容が喧嘩であったという事実、楽しく過ごすはずだったハイキングは、一瞬にして絶望に変わった。と同時に、お前は事故が起こったという事実を受け入れることができなかった。真実と向き合うにはあまりにも惨い経験。お前の幼心に付いた傷は計り知れないものがあった」

男の話を聞きながら、岸谷は嗚咽を抑えきれず、目からは涙が溢れ出ていた。

「事故の後、孤児となったお前は、父方の叔父夫妻のもとに預けられた。夫妻には子供がいなかったこともあり、お前は快く迎えられた。夫妻がお前に対して憂いを感じていたことは言うまでもないが、養子として、お前は第2の家族の元で暮らすことになった。夫妻とは何度か面識はあり、親しい関係ではあったが、事故の傷も癒えない子供にはすぐに馴染める環境ではなかったのも事実だ。お前は事故後、しばらく心を閉ざしたまま暮らすこととなった。住む場所が変わったこともあり、学校を転校することになったが、新しいクラスにもお前は馴染むことができなかった。ろくに友達も出来なかったお前は、休み時間に一人で過ごすことが当たり前になり、それは事故から一年以上経った後でも変わらなかった。学校でのお前の居場所は、教室でも校庭でもなく、図書館だった。友達のいないお前は昼休みに勉強をする風を装い、毎日図書館に通いつめ読書をする。それがお前の日課であり学校での唯一の楽しみだった。もともと読書が好きではなかったが、何もすることのないお前は図書館の本を読み漁ることに没頭した。はじめは誰でも読める児童向けのものから始まり、徐々に大人向けの本も読むようになった。いろんな本を読み漁ってきたお前は、そこで初めて江戸川乱歩に出会った。その時読んだ『一寸法師』という小説を読んだ時、お前の中に感銘が生まれた。おもしろい。こんな小説があったのか。それはお前が読書をするようになってから初めて感じた憧れであり、お前の人生に大きな影響を与えた最初の作品であった。それからお前は、江戸川乱歩の熱狂的ファンになり、毎日図書館に通いつめては乱歩の小説に読み耽る。明智小五郎シリーズ。怪人二十面相。少年探偵団。どれもが面白く、お前の憧れの気持ちは日に日に増していった。自分もこんな小説家になりたい。ミステリーという小説はこんなにも面白く、最高のエンターテイメントだ。自分の生きる価値は読書であり江戸川乱歩のような最高のミステリー小説を書くことだ。と、そこで始めて自分の将来の夢と向き合うことになったのだ。小説家になること、それがお前が人生で初めて見つけた将来の夢であった。同時に、将来の夢という言葉の裏に、お前は後ろめたい気持ちを覚えた。それは、一年前、当時の学校での授業参観の作文のテーマであり、両親に対して伝えることのできなかったことだったからだ。あの時の自分には夢がなかった。作文として語ることができなかった。そのことで両親に失望させてしまったこと。翌日に喧嘩をしてしまったこと。そして、それがきっかけとなり、両親を死にいたらしめてしまったこと。あの時の自分が今のように夢を持った自分であったのなら、決してあんなことにはならなかった。嘆きの念にとらわれたが、時すでに遅し。夢を語るべき相手である両親はもうこの世に存在しない。悔やんでも悔やみきれない想いがお前の心に突き刺さった」

岸谷は大粒の涙を流していた。当時の心情が泉のごとく沸き起こり、心の中を悲しみで満たしていった。過去の出来事を語る男の話は、まだ続いた。

「お前は、江戸川乱歩の小説に感銘を受け、自信の野望、夢を見出した。と同時に、亡くなった両親に対して、この夢を追い続けることを一つの償いとして、決して諦めずに追い続けることを誓った。それは、お前が無意識にそう心の中で決めた深層心理によるものだ」

ずっと話を聞いていた岸谷は、流れ出る涙を手でぬぐいながら答える。

「僕は、両親に対してずっと後ろめたい気持ちでいた。そう、あなたの言う通り。僕が小説家を今でも諦めずに目指していられるのは、あの事故が原因だったのかもしれない」

自分でも無意識に感じていた償いという想い。岸谷は自分の過去を振り返り、当時の心情を思い起こすことで改めて自分の今を見つめ直したのだった。

「お前はその後。義理の両親となった叔父夫婦のもとで大事に育てられ、次第に心の傷も癒えていった。日々の勉学にも励むようになり、徐々に友達もできていった。お前は、時間が過ぎるとともに一般の子供と変わらない、健全で勤勉な子供へと戻っていった。中学、高校、そして、大学と、名門どころではないにしても、お前は立派な学生として成長していった。大好きとなった読書や執筆活動を本格的に始めるため、大学卒業後は就職をせず。日々のアルバイトに励みながら、夢である小説家を追い求め続けて十年。結果を残せない今でも、お前が決して夢を諦めないのは、両親への償いと誓いを胸に刻んでいるからだ。そして、お前が小説で結果を出せないでいるのも、その夢を追い続けていることでしか意味を見出しているからだ。お前は実のところ、夢を叶えることに本当の意味を見出してはいない」

「そ、それは違う」岸谷は反論する。

「いいや違わない。お前は自分が夢を持ち続けることで両親に対する償いを果たしていると思い込んでいる。あの時語れなかった夢を、自分は今でも持ち続けているんだという姿を天国の両親に見せつけることで、心を浄化しているに過ぎない。それは単なる自己欺瞞であり、自己陶酔だ」

「そんなことない。僕は夢を叶えたいんだ。小説家になって面白い物語を書いて、多くの人に楽しんでもらいたいと思っている。確かに、あなたの言った通り僕は無意識に、両親に対する償いの気持ちを心の何処かで感じながら生きてきたかもしれない。だが、それは夢を追い続けることだけの償いではない。夢を叶えることが僕の本当の目標であり、小説家になることこそ、両親への償いを果たす結果につながると僕は信じている」

「なら、全てを書くんだ」

「え?」

「これまでの話だ。お前が生きてきた人生。小説家を目指す本当の理由。幼い頃、両親を事故でなくしたこと、しかもそれが自分の招いてしまった事故だったこと、夢を追い続けることで、亡くなった両親への償いをし続けてきたこと。そして、今、お前の深層心理である俺が目の前に現れ、真実を暴くまでのこれまでのお前の人生すべてをだ」

「これまでの、僕の人生すべてを?」

「そう、それが俺がお前に与えるべきだった小説のアイデアだ。お前はこれまで、ミステリー小説という分野にこだわり続けた。いわばフィクションだ。それがお前の憧れる小説のスタイルだった。だが、そのことにこだわり続けた結果。自分という人間の現実を見てこなかった。お前は自分がこれまで読んできた小説や映画や音楽、他人の作るものにしか興味を持たなくなった。それは現実から逃れるための虚構という世界へ自分をかくまっていたにすぎず、結果、それがつまらない小説を生む引き金ともなった。お前が、まず初めに書かなければならなかったのは自分自身だったんだ。自分の人生を見つめることで、そこにある経験や過去の想い、感情、思考、すべてを見直すことで初めてお前のオリジナリティ溢れる作品が生まれるんだ。お前は過去の出来事を目を閉じて塞いできた。だが心にはちゃんと残っていて、それが足かせとなって今まで無意識に苦しんでいたんだ。でも今は違う。お前は過去を見直した。あの時、あの事故のこと、両親への想い、自分への想い。お前はすべてをキチンんと振り返り、あの時感じた心情を思い返し反省した。それは心の浄化となり、お前が新たにこれからを生きるための糧ともなる。だから、すべてを書くんだ。それこそが、亡くなった両親への本当の償いとなる」

「僕の人生……すべて……」

岸谷はテーブルを見つめたまま少し考える。男との会話の中で思い出した自分の過去、両親の事故のこと、これまでの人生すべてを振り返り、過去に犯した過ち、間違った野望の持ち方、そのすべてを反省したことで心の何処かで感じていた違和感はいつの間にか無くなっていた。それは、新たにこれからの人生を生きる上での新しい自分が誕生したような気持ちになり、自分は過去をもう一度見直すことによって、心の浄化につながると悟ったのだった。

「わかりました。僕はもう自分自身の過去から逃げません。しっかりと受け止め、改めて文章に起こし、小説として描こうと思います。でも、ひとつ気になることがあるんです。僕が小説家を目指すまでの人生と、今まで生きてきた過去と現在に至るまでの人生を綴り、そして最後にこの場で空想であるあなたが現れ、僕の深層心理を探り、僕が過去を振り返るという筋書き。これを一つの物語として語ることはわかりました。でも、これじゃあ単なる過去と向き合いながら新たな人生に希望をもつ男の心理描写を描くだけの単なる自叙伝に過ぎないんじゃないでしょうか?それに、これはミステリーじゃない。こんな話、他人が読んで面白いと思うんでしょうか?第一あなたはこの後どうなるんですか?」

「ふふ、大丈夫。この話にはちゃんとオチがある」

男は、不敵な笑みを浮かべながら、頭をかきむしる。

「ちょっと、何を言ってるんですか?オチって、どういうことです?」岸谷は問い質す。

「この話の結末。すべては、お前自身が知っている。なぜなら、この物語を作ったのがお前自身だからだ」

「な、何を言ってるんです。僕自身がこれまでの物語を作った?結末ってなんですか?あなたは、いったい……




先ほどまで進んでいたキーボードを打つ手が止まった。深夜のファミレスで小説の執筆活動をしていた岸谷。彼は新しい小説の執筆をしている最中であった。小説家として名を馳せてから、彼は新作を出すたびに世間で話題となり、出版社からは期待と信頼の眼差しを受けていた。そんな新進気鋭の作家、岸谷伸一の心にはプレッシャーという重圧がかかっていたことは言うまでもない。

彼は、三年前に大手出版社の主催する小説新人賞の最優秀新人賞を受賞した。長年思い描いていた夢を果たせることができたのだ。以後、作家としてデビュー、その後、何作かの小説を発表し、そのどれもがベストセラーとなり、岸谷伸一の名は日本中に知れ渡った。

今、彼は執筆活動でよく使っているいつものファミレスの一席を陣取り、愛用のノートパソコンを開き、新作の創作に耽っていた。今年もまた、新たな作品を作らなければならないぞ。多くの読者の期待に答えるべく、今までよりもっと面白い話を作ろう、という意気込みとは裏腹に、良いアイデアは思い浮かばなかった。先ほどまで、ある程度のストーリーを考えて、なんとなく書き始めてみようと実際に文字に起こしたまでは良かった。自分自身を主人公にした新感覚の小説。深層心理をテーマに描いたワンシチュエーションの短編小説。これはいけるかもしれないと思い、細かい設定を後回しにして安易に書き始めてしまったのが仇になったようだ。有る程度進んだ段階で、読み直して見たところ、ビックリするぐらい全然面白くないことがわかった。それに、肝心なところで何も面白いアイデアが浮かばず、内容が支離滅裂だ。これじゃあダメだ。そこで執筆を諦め、キーボードのdeleteキーを連打する。今まで書いた文章すべてを消去してしまったのだ。さて、また一からやり直しだ。そう心の中でつぶやいた。空席の多い深夜のファミレス、時間はもうかれこれ三時間が経過していた。新たに考えを巡らせるが、一向に良いアイデアが浮かばなかった。

埒が明かないと悟り、目の前にあるノートパソコンを閉じ、鞄に突っ込んだ。テーブル脇に置かれた伝票を手に取りファミレスを後にしようと、腰を上げたその時だった。

「突然だけど、相席いいかな?」




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