前
1
ぼくが住んでいるアパートは駅から自転車で十分ほどの所にあり、なかなかさびれた古いものだった。二階へ上る階段はかなり錆ついていて、元の色が分からず、一戸一戸の扉は薄い板。
しかし、その隣にとてもきれいな一軒家があった。隣といっても、その家には大きな庭があるため、建物と建物の距離はさほど近くない。それは二階建ての家であり、玄関は二階、庭には様々な花が色合いよく飾られているという、一見も二見もおしゃれなものだった。周りにさびれたアパート以外のものがないので、際立って素敵な空間である。
その素敵な豪邸には、芹沢さんという夫婦が住んでいた。芹沢さんは、僕より一回りほど年上のとても気のいいお兄さんだ。性格は温厚でいつもぼくには親切にしてくれる。そしてなんといっても格好いい。彼はぼくとは十以上年が離れているにも関わらず、ぼくと並んでいても同世代に見られるほどに若く見える。
彼について特筆すべきことを書いておく。それは彼が何でもできるということだ。それは言葉の通りで、本当に何でもできるのだった。何を得意とするかより、何が不得意なのかと聞くほうが話は早いのだ。いや、不得意というのは違う、正確には彼が知らないだけのことだ。その気になれば何でもできる人なのだ。
本当に何でもできるのか、ぼくは以前に一度彼を試そうとしたことがあった。そのときは、ぼくの隣の部屋に住んでいる亜里沙ちゃん小学五年生をつれて、今亜里沙ちゃんが何を考えているか当ててみてくださいとぼくは言った。すると彼は、いとも簡単に当ててしまったのだ。
そのときの様子は、簡単に書くとこうだ。
「芹沢さん、亜里沙ちゃんは今何を考えていますか?」
亜里沙ちゃんは僕の隣に座ってしゅんとしている。
「フン。この子はな、家に帰ったら食べようと思っていたケーキがなくなっていたから落ち込んでるんだよ」
ぼくは亜里沙ちゃんを見る。彼女もまたぼくを見、小さく頷いた。そして芹沢さんの方を向き、言う。
「お兄ちゃん、どうして分かったの? すごい!」
そして芹沢さんはこう答える。
「それは俺が世界一の男だからだな」
「……以上です」
ぼくは原稿用紙を机に置き、芹沢さんの方を見る。彼はえらそうにソファにふんぞり返っていた。その顔は満足げだ。
「読心術か、なかなかいいじゃないか」
それを聞いて、ぼくは彼に聞こえないようにため息をついた。すると直後、彼は続けた。
「とでも言うと思ったか? えぇ? お前それでよく俺の前にやってきたな」
「……最初からいましたけど」
この原稿はここで書かせられたのだ。
「大体な、短いんだよ。俺は十枚書けといったはずだ」
ぼくは机の上の原稿用紙を見る。それは確かに一枚だ。
「いや、これ以上嘘はつけなくて」
はっきり言って、この人は何もできない。
「そうだな、嘘だなこれは」
ぼくははっと顔を上げる。この人も自分の性格の悪さを認識していたのか。それなのにぼくにこんなものを書かせて遊んでいるなんて。そう思いぼくの顔にいらつきが出てきたところで、ぼくは彼の隣に座っている彼の妻である君江さんが、にこやかに顔を横に振っているのに気付いた。
「俺はこんなに口が悪くない。特に小学生と話すときはとても親切だ」
「はぁ……」僕は諦めて頷く。
「まぁ、確かに俺は若く格好いいし、賢いし、歌もうまいし、」
そこまで書いていない。
「なんでもできるけどな」
そこが一番嘘だった。
芹沢さんは僕の書いた原稿用紙を手に取り、にやにやし始めた。
「世界一の男か。恒太郎が俺のことをそんな風に思っていたとはな」
とか何とか言った。
ぼくはただ、はいはいと頷く。
この原稿の内容、真実が一つあるとすれば、芹沢さんが亜里沙ちゃんの考えていることを当てたというくだりだけだった。まぁ、実際は芹沢さん自身がケーキを食べてしまったというのは言うまでもない。
とにかくぼくは作文を書いた。さて、なんでこんなことになったか。いや、別にこれは異例のことではない。僕らはいつもこの調子だった。
罰ゲームだ。テレビゲームをやっていて、芹沢さんが罰ゲームを提示したのだった。
「恒太郎が負けたら、俺の紹介文を正直に書け」
「キミエが負けたら、ジュースを買ってきてくれ」
芹沢さんはそこまで言ってゲームを始めた。つまり、彼には自分が負けるという未来は見えていなかったらしい。なんて自信家なのだと思うのは思うのだが、実際、彼には勝ったことがなかった。大して頭がいいわけでもない彼にどうして勝てないのか、これはとても不思議だった。
ぼくは改めてこの夫婦を見る。変だ。明らかに変だ。一言で言うと、彼らはとても幼稚だった。家の中は遊ぶものや、意味のわからないもので溢れていたし、とてもきれいだとは言えなかった。格好もとても外に出られるようなものではなかった。しかし実際外で見かけるとき、彼らはとても上品な服装を着ている。そんな服をどこで買ったのか。そもそもそのセンスがあるなら家でも同じ服を着ていればいいのにとぼくは思う。そのことを彼らに言ったところで、暖簾に腕押しである。自分の人生だから人には関係ない。これが彼らの中心にある考えらしい。かく言うぼくも格好については人のことは言えないのだが。
そして芹沢さんたちは、働いていない。働いたことがあるのか、これは聞いたことがないのだが、今働いていないことは間違いなかった。というのも、君江さんの実家は金持ち一家なのである。みんながみんな、このダメ夫婦に金を与えているらしいのだからおかしい。ただ、君江さんを見ていると、そんな家族であってもおかしくないように思えてくる。彼女もそうとう変わっているからだ。
「あの、僕そろそろ用事があるので失礼しますね」
僕はそう言って腰を上げる。その動作を芹沢さんは鋭い視線で受け止める。僕はそれに気付かないふりをして立ち去ろうとした。すると彼が一言、
「なにか面白い話があったら、すぐにくるように」
それはいつものせりふだった。もう挨拶のようにもなっていた。
「はいはい」
僕はそう言い残して、その家を去った。
2
恒太郎はノートを閉じた。ノートを閉じるという行為自体は数秒で終わる。しかし自分はその行動を認識し、文章として頭に浮かべる。そんな一瞬が、一日のうちに何度もあった。
やらなくてはいけないことはこれで終わりだったかな。今日は日曜日で、明日の授業は一限と二限と三限。それらに関する宿題はないし、明日締め切りのレポートもない。今日はもうやることがないということだ。
恒太郎は自分の部屋の中をくるりと見渡し、小さなゲーム機を手にしてベッドに寝転んだ。スイッチを入れる。画面には小さな正方形が並び、それがまた正方形を作り出していた。恒太郎はその四角をどんどん塗りつぶしていく。
ゲームをやっているときは、ゲームに集中できる。これは自分にとっては、理想の状況だった。
今頃芹沢さんは何をしているだろうか。ふと、画面に目をやりつつも違う男のことを考えた。こういうとき想像で出てくる彼の顔はいつも何故か少し格好いい。そして嫌味な笑顔でこちらを向いているのだ。恒太郎はすぐに意識をゲームの画面に戻した。
そしてまた、ゲームに熱中し始めた。
翌朝、起きると枕の上にあった目覚ましは七時を示していた。いいタイムだ。一瞬気持ちのいい感情が芽生えたが、枕の横に開いたままのゲーム機を見て、ため息をつく。またつけたまま寝てしまったのだ。今月はこれで何回目だろうか。部屋の電気ももちろん、点けたままであった。
小さな自己嫌悪にまみれながら、恒太郎は布団からでる。そのまま冷蔵庫まで行き、コップにお茶を汲んで飲む。風呂場の鏡を見ると、そこに映っているのは紛れもない自分であり、わざと笑顔を作ってみるが、新しい発見は何一つなかった。
歯磨きをし、トーストを焼いて食べた。クローゼットから適当に服を取りだし、着る。いつもの代り映えしない服装だ。あいたままのクローゼットを見やるも、そこには想像しているものはない。
少しくつろいでから家を出る。大学までは自転車で五分程だった。十一月になった今は少し肌寒く、自転車に乗って道を走っていくのがなんだか気持ちがよい。
大学の門をくぐり目的の教室につくと、そこには誰もいなかった。恒太郎はいつもの席に腰を下ろした。自分はいつも、一番だった。早く来ることには理由はない。しかし、遅く来る理由もないのだった。
一人、また一人と教室に人が入ってくる。恒太郎はすることもなくぼーっと窓の外を見ていた。三階だった。少し汚れた窓越しに見る景色は、何も真新しくなく、それでも木を見たりして時間を過ごす。
しばらくすると顔見知りの生徒がやってくる。軽く挨拶をしながら、恒太郎はその人が今何を考えていたかを想像した。いつものように隣の席に座った佐々木は、いつものように眠そうな顔をしている。しかし彼の頭の中はこうだ。
『限界とは何だろう。
どんな行為でも、想像の中では実行することが容易い。しかし物事には必ずと言っていいほど限界がある。これはとても不思議だ。食べ物をつかみ口に持っていき、飲み込む。それだけの作業をずっと続けられないのはなぜなのだろう。はっきりと覚醒する。そんなことはとても簡単なことのはずなのに今俺はどうしてこんなにも眠いのだ。今にも眠ってしまいそうだ。起きていることはこんなに簡単そうなのに。』
恒太郎は心の中でにやつきながら佐々木をもう一度見やった。彼は彼で、いつものようにノートを出しているところだった。
教室は人でいっぱいだった。みんなそれぞれ違うことを考えている。全員が違うこと。これがもし全員が同じことを考えていたら……。また恒太郎は想像してみる。しかし、これはさほど面白くなかった。すぐに考えを捨てる。
そして先生が教室にやってきて、授業が始まった。
3
場所は、近所の川沿い。ぼくら三人、芹沢夫妻とぼくは仲良く肩を並べて歩いていた。川べりにはシラサギが一羽、静かに立っていた。この場所ではよくこういう景色を目にすることがあった。
「さっきから思ってたんですけど」
ぼくは左隣りを歩いていた芹沢さんに話しかける。
「なんだ」
彼はいつにも増して堂々としていた。今日は外であるため、服装はばっちりと決めてある。それはまるでドラマの衣装のようだった。もちろん、君江さんもである。彼女の方は、着物を着ている。それも上等なもので、一目見ただけで素人のぼくでもその高価さが伝わってきた。
「いやぁ、その、腕……に書いてある」
ぼくは芹沢さんの左腕の手首あたりを目で示す。すると彼はにしゃっと笑い、嬉しそうに言った。
「気づいたか。ははは。これは腕時計だ」
「何が腕時計なんですか」
ぼくは呆れて言う。それもそのはず、彼の左腕のは腕時計など巻かれてはいない。そこにあるのは、ある……というのかは分からないが、マジックで書かれた簡素な腕時計だったのだ。油性マジックで、何も見ずに適当に書かれたのであろうそれは、得意げに三時を示していた。おやつの時間か……。
芹沢さんならしかねない変な行いだが、どうしてもぼくは指摘せずにはいられなかった。でなきゃそれは当然のものとして、むしろ本物の腕時計として空間に溶け込んでいたかもしれないのだ。
「どうせならもっとうまく書けばよかったのに」
ぼくは思ったままを口に出す。
「分かってないな、恒太郎は」
そんなぼくを芹沢さんはまた馬鹿にしたような目で見、腕をぶんぶん振る。
「これでいいんだよ。これでこそいい味が出るからな」
返す言葉もなかった。しかしぼくはもう一つ気づいてしまう。それは君江さんの、右手だった。そこには、太さは違うものの、デザインは全く同じ、腕時計が書かれていたのだった。
腕時計は腕に描くものではない。巻くものだ。
心の中で指摘するも、この夫婦には何を言っても無駄だということは分かり切っていたし、正直なところぼくも内心どこかでは面白がっていたので、それ以上突っ込まなかった。
呆れた顔で芹沢さんを見ていたら、彼が突然目を剥いた。そして立ち止まった。何かの演出なのか、ぼくは身構える。が、彼は数秒間動かないままであった。
彼の目線の先、そこには橋があった。石橋。そこを通過していく車は上半分だけが見えている。そんな、いつもの橋だった。
「芹沢さん?」
ぼくが彼の顔の前で手をひらひらさせると彼は目をぱちぱちさせてぼくに焦点を合わせた。
「どうかしました?」
「ああ。どうかしたよ。今、ものすごい発見を、したっ!」
子供みたいな声を出してはしゃぐ芹沢さん。そんな芹沢さんを愛おしそうに見つめる君江さん。
「久しぶりに仕事でもするか!」
彼は勢いよくそう言うと、百八十度くるりと方向転換してきた道を戻っていく。ぼくは慌ててその背中を追いかけて聞いた。
「仕事って?」
すると彼は顔だけをこちらに向けてはっきりとこう言ったのだった。
「映画に決まってんだろ!」
4
昼食時、大学構内のコンビニでサンドウィッチを買い、教室でそれを食べる。コンビニにはその狭い範囲に入りきれない人数の生徒が集まっており、たかがサンドウィッチ一つを買うのに十分かかった。それは、十二時に授業が終わり、皆が一斉に昼食を買いに来るからであった。
「お前またそんなけぽっち?」学食で売っている弁当を買って食べている佐々木は恒太郎に言った。「足りんの?」
「足りない。でもこれ以上は食べられない」
実際、恒太郎はすぐにお腹が減る。しかし、一回に食べる量は少ないのだった。これを恒太郎は「ねこたべ」と呼んでいた。
場所は次の授業の教室だった。周りには同じクラスの生徒らしき人たちがちらほら席について昼食をとっていた。とても騒がしく、しかしそれが自然であるために誰も騒がしいことに気づかない。
一時になる。恒太郎は腕時計の針を眺めていた。先生は一時二分にやってきた。彼の研究室はここからそう遠くはない。きっと一時に部屋を出ているのだろう。
先生が黒板に字を書く。恒太郎は彼の声を耳に入れ、内容を理解しようと、毎分ごとくらいに決意しなおす。集中という字を頭に描く。本当に面白い授業はこんなことをしなくても時間を忘れてしまうのだが、今日は多少の眠気も手伝ってか、なかなか授業に集中できなかった。
先生の腕を見る。正確には指を。チョークを持つ指先。動かした後にはチョークの白い粉で書かれた字が現れる。恒太郎は想像する。その線が、まっすぐに伸びるところ。そしてそれは長方形を描く、その中には人の顔と吹き出し。人物の顔はとても丁寧で表情豊かで、漫画家であるかのように上手い。それが黒板いっぱいに広がる。
耳から目から受け入れられる現実と、その想像のミスマッチさに内心にやりとしながらも、虚しく先生の厳しい顔を見る。吹き出しの中のセリフは何がいいだろうか。
「テトラヒドロフラン」
先生の声。
恒太郎はノートにそのカタカナを書いてみる。それはTHFと略される物質だった。しかしカタカナを見ると、途中までは何かの生き物の名前みたいだ。平仮名にすると、てとらひどろふらん、どうもつかみどころがない。
HとOHをノートに書く。それらは物質から水として出てくるらしい。恒太郎はHの上に小さく橋本と書き、OHの上には大水と書いた。ハシモトとオーミズ。その二人は分子から出てくる。そして二人で、水になるのだった。オーミズは最初から水なのに。恒太郎はまた、心の中でにやりとする。そしてまた虚しくなった。
5
晴れた日。気温もそう低くはなかった。少しだけ暑さを感じていたが、ぼくは仕方なく買い物に出かけていた。アパートからは自転車で十五分程の、大きなショッピングセンターだった。駐車場にはたくさんの車が止められており、どれもみな似たような形だった。色は、白か黒あるいはシルバー、時々ピンク。お、青もあるな。
ぼくは今晩のメニューを考えながら自転車を駐輪場に止め、店の中に入る。それはとても大きな店だったが、ぼくが用事のあるのは食料品売り場だけだ。だのにぼくは敷地に入って一番近い駐輪場に止めたため、食料品売り場までは少しだけ歩かなくてはいけなかった。
男、男、女、子供。たくさんの人がいる。数えていたらすぐに百人を超すんだろうな。でも、百人を超してもとくに何もないのだから、意味はないな。ぼくはまたそんなことを考えながら食料品売り場に向かっていた。
カゴをとり、その中に品物を入れていく。芋、キャベツ、ニラ、たら、ナス、サケ。サケは、鮭ではなく、酒。ぼくはなんの考えもなしにほしいものをどんどんカゴの中に入れていった。そしてすぐにレジに向かった。悩むと長いのは分かっていたので、適当で大丈夫だと思い込むことにした。
レジがすみ、商品を袋に入れ終え、また少し歩いて元の出口から出た時だった。一人の男がぼくの方に歩いてきていた。見るからに軽そうなその男は、似合いもしない柄のストールを首に巻き、いやな笑いを顔に浮かべていた。
目があった。しかしぼくはそのまま自転車の方に歩いていく。
「ねぇ君」
声は明らかにぼくに向いていた。仕方なしにぼくは男の方を向いた。男の目は、細く、口角はいやらしく上がっている。
ぼくが何も言わすにいると、男はさらに近づいてくる。やがてぼくとのわずかに一メートルほどになってしまう。
「一人で買い物きたの? 疲れてない? コーヒーでもおごるけど」
力ではかなわないか。ぼくは相手のがっしりとした体格を残念そうに見やる。仕方ない、丁寧に断るか。
そのときだった。
「ユカ!」
一人の女子がぼくらの方に駆けてきた。ぼくとそう変わらない年齢の、髪の長い、目はきれいに開いていて、唇の薄い、きれいかかわいいかで言ったら、きれいな方の女の人がぼくらを見て、いや、明らかにぼくの方を見て、「ユカ、待った?」と言った。
ぼくはどうもユカらしい。
見ると彼女はきれいな瞳に笑顔をのせてぼくを見ている。しかしその目には、ぼくに話しかけていた男への嫌悪もうかがえる。
「ううん。あ、いや、遅かったから先に買い物しちゃった」
ぼくはせいぜいかわいく聞こえる声で言って、彼女に笑顔を返す。笑顔には自信があった。
ぼくらのやりとりを、男はさらににやにやした顔で見ている。しかし彼女の方はというと、「じゃあいこっか」と言って、その場にはぼくと彼女しかいないのようにふるまってぼくを出口へと誘導した。その、あまりにも自然な動きと、有無を言わさない流れにぼくはただ従い、男は何が起きているのか分からないようにしてその場に立ったままだったが、「あ、おいちょっと!」と言う声を背中に受けた。
けれども彼女はぐんぐん進んだ。
やがて二人は出口に到達する。すると彼女はこちらを見て、先ほどの笑顔はどこに行ったのだろうかという顔でぼくに言った。
「礼」
「レイ?」聞き返すぼく。
「礼の一つでも言いましょうよ」
きれいな睫毛を何度か上下させて彼女は話す。
「あ、ああ。ありがとう」
ぼくは思わず地声でそう言った。すると彼女は一瞬不可解な顔をしたが、そのまま踵を返して店の方へいってしまった。
ぼくはユカじゃなくなった。
6
耳からイヤホンをはずす。玄関の鍵はいつもリュックの前のポケットに入れてあった。それを探り探りしてついにつかみ、恒太郎はドアを開ける。ドアを開ける前にイヤホンを外すのは、なんとなくの習慣だった。
電気を点け、着替える。簡単に夕飯を作り、食べた。うどん。うどんを半人前食べた。どうせすぐに腹が減るだろう。そのときは買っておいたパンでも食べよう。
机の上にレポートを広げる。今日出た宿題だった。期限は一週間。まだ大分余裕がある。いつやろうか。恒太郎は問題を見、レポート用紙を閉じた。
テレビを点ける。しかし画面は真っ暗だ。最後に見たのもDVDなのだろう。恒太郎は今さっき購入したばかりのDVDをデッキに入れ、再生を押す。そして画面が真っ黒から変わった瞬間に一時停止ボタンを押した。
静かに息を吐く。一人暮らしなので、その音はわずかに響く。
勢いよく立ちあがるか。ゆっくりと寝転ぶか。頭も右に九十度、左に九十度ゆっくりと振りながら考える。そしてちょっとだけ寝転んでみる。しかしすぐに立ち上がって、風呂の準備をする。準備といっても、毎日来ている服を、毎日放置する場所からとってくるだけだ。恒太郎はそのまま、好きではない風呂に入った。
風呂から出ると、冷蔵庫からひとかけら氷を取り出して口に含む。水の味がする。
テレビを点ける。そしてそのままリモコンの再生ボタンを押す。少しの機械音の後に画面が動き出す。恒太郎は布団の近くの座イスに腰掛け、テレビに見入る。それはある劇団の演劇のDVDだった。
二時間、恒太郎は集中してそれを見る。それが恒太郎の唯一の自分らしいと感じられる時間だった。そこには才能が映っている。それを見るのはわくわくするが、同時にとても虚しくもあった。
その劇団は、役者が十人ほどで構成されている。それぞれが素晴らしい才能の持ち主である。この劇団のどの作品においても役者は魅力的だった。彼らには他の人間にはないものが備わっている。恒太郎は彼らの動作を見るたびに、声を聞くたびに思った。自分とは、違う種類の人間なのだと。
自分にはなにもない。それを恥じて何かをする力もない。ただ毎日ゆっくりと、とてもゆっくりと時間を過ごしているだけだ。
虚しい。
しかし恒太郎はDVDを見るのをやめない。それは、それを見ることが自分らしさの形成になるからだ。彼らに惹かれている、自分。やがてそれらの声は、なくてはならないものから、聞きたくないものになるかもしれない。しかし、そうなるまでは毎日でもこうしていたいと思う。
自分も何かをしなくては。そう何度も思ったことがある。しかし、それもまた虚しさにつながる。何かで木を紛らわせなくてはいけなくなる。結果、分からないことが増えるだけで、日常に変化は一つもなかった。
画面を見ている。
恒太郎はただ、画面の中のストーリーに夢中になるように心掛けた。
7
ぼくは異様なものを見た。
自分を映画監督だと言い張った芹沢さんに呼ばれ、ぼくは彼の家を訪れていた。庭に入ると、相変わらず意味のわからないものが落ちている。いや、きっと落ちているのではなく置いてあるのだろうけど。手作りの地蔵。手作りの招き猫。しかも一目見ただけで気がめいるような作品なのだった。
玄関のドアに手をかける。しかしそれは動かなかった。いつもは鍵などかけたことがないのに、今日はどうしたのだろう。しかも、人を呼んでおいて……。
怪しみながらもぼくはチャイムを押す。するとどうだろう、二秒もしないうちに扉は開かれた。まるでチャイムがなるのをすぐそばで待っていたかのようなスピードだった。
「せり……」
名前を呼び掛けたぼくは固まった。そこにいたのは確かに芹沢さんなのだが、様子がいつもと違っていた。完璧に無表情の彼が、顔から下を手に持った布で隠した姿。その布は壁の色と同じだった。
「何の真似ですか?」
顔だけの芹沢さんにぼくはとりあえず聞いた。また何か新しい遊びなのだろうなと思いながらも。
「そう言えばこの間何か発見をしたって言ってましたもんね。それですか」
ぼくはちゃんとした返事を期待せずに言った。芹沢さんはというと、やはり返事はせずに道をあける。ぼくは中に入った。
いつものリビングはしかし、これまた一面壁と同じ色の布で覆われていた。見るもの見るものにそれをかぶせているので、壁の色、少し濁った白色以外の色は、ぼく以外には芹沢さんの顔くらいだった。
芹沢さんは無表情ながらも、顔というか頭をアピールしている。
「それって、顔を浮かせているつもりですか?」
とは流石に聞かなかった。彼は楽しんでいるのだ。顔は無表情だけど、長い付き合いの僕には分かりすぎるほど分かった。
芹沢さんはぼくをソファに座らせた。そして自分も隣に座り、正面の壁を指した。そこはそこで、変なつくりになっていた。
これまた壁の色と同色の細い板が、斜めに固定されていた。二十×二メートルくらいかな。それも五本はある。それらはこちらに向けて固定されている。縦に平行していて、それぞれの隙間は三十センチほどだった。ぼくはまだ意味が分からず、芹沢さんを見るが、彼は何も言わない。ただ、無表情が疲れたのかわくわくを隠しきれないのか、表情には多少の変化はうかがえた。
静かに音がして、正面右にあるドアが開いた。そこには芹沢さんのように顔から下を布で隠した君江さんがいた。彼女も一応、顔だけが浮いている仕様になっているのだ。ぼくはだんだん主旨がつかめてきた。
要するに芹沢さんは、この間の川沿いの橋で、橋の側面から人の顔だけが出ている景色を想像しのだろう。自転車であれば、それはすごいスピードである。顔だけがすごいスピードで移動していく。それは確かに面白かった。しかしぼくは内心だけでにやりとし、品定めするように君江さんを見た。
君江さんはまず、五本の板の一番上のさらに上に移動し、まるで顔がその板に乗っているかのようにした。そして、その移動が終わると、ぼくの横に座っている芹沢さんが指を鳴らした。すると、君江さんの顔はそこからどんどん下っていく。斜めに固定された板の上を顔だけが滑って行くように。それはよくある、階段を下りるのにエスカレーターに乗っていると見せかけるという動作に似ていた。
一本目の板の端まで来ると、彼女はまた下にある板の端に顔を移動させる。その際、きりりとした表情のまま顔を左向きから右向きへ変えた。
これはなかなかに面白かった。ぼくはひそかに感心しながらも、何もしないでそれを見る。布にしろ、板にしろ、全体を一つの色に見せようという技術はそう高くはない。しかし、彼と彼女の演出と技術力はなかなか目を見張るものがあった。
くだらないけど、面白い。
やがて君江さんは腰をかがめながら最後の板の端までたどり着いた。最後には床に落ちるおまけまでつけていた。ぼくは拍手する。
芹沢さんは、まだまだよ、と言って君江さんもソファに座らせて、自分は何かの準備に取り掛かった。いままで板のあった位置に、布をはり、簡単なスクリーンを用意したのだった。そしていつ買ったのか、後ろに用意していたプロジェクターのスイッチを入れる。そしてまた指を鳴らすと、今度は映像が流れてくる。これが、映画なのか。ぼくはやっと気付いた。今日は、映画を見るためにぼくは呼ばれたのだ。
題名はない。すぐにそれはスクリーンに映し出された。
顔。
君江さんの顔である。
完璧に顔のみである。さっきまでの君江さんには、髪の毛があった。つまり、頭部だったわけだが、今スクリーンに映っているのは顔のみである。おそらく白い布の一部分を丸くくりぬいたのだろう。そこい顔をはめているのだ。
その顔は、やはり無表情だった。
君江さんの顔は、奥へ進んだり、手前へ来たり、左右に動いたりする。やがて画面の中には木や花が映るようになる。色が増えて画面は一気に見やすくなり、それぞれが映えた。
リズミカルに映像は進んでいく。今度は君江さんの顔は動かずに、周りの景色が動いていく。最初はゆっくりだったが、それは次第に速くなっていく。君江さんの髪が風でそよいでいる。これはきっと扇風機か、それかドライヤーか。
君江さんの表情が崩れたのは始まって五分ほどしたころだった。顔は画面の右により、左を向き、何かを待っている。少し不安そうにも見える。予想通り、右からもう一つの顔が現れた。そう、芹沢さんの顔が。
やっと現れたか。
そして、しゃべる。
「まぁなんてかわいらしいんだ、君は」
「先ほどここに来るまでの道で髪飾りを落としてしまったの。探してくださる?」
話は噛み合っていないが、それぞれが堂々としていて、声は通っていた。
しかし、映像はそこで途切れた。芹沢さんも立ち上がり、スクリーンを元あったところへしまう。
「まだできてないんだよ」ぼくが聞く前に彼は言う。
「そうですか」
「でも、無性に見せたくてね」ふふふふふ、はははははと笑う。もう無表情はどこかへ消えていた。とにかくほめられたくて仕方がない、そんな顔だった。
「面白かったですよ」
ぼくは思った通りのことを言う。
「なかなか斬新で、楽しかったです」
聞くと芹沢さんは嬉しそうに笑う。この人の笑う顔がぼくは好きだった。
「完成したらまた見せてください」
「ああ。もちろん。それまで飽きずに完成させられたらの話だがな」ははははは、と。
なるほど。それはそうである。
8
ピクロスの画面から視線をはずす。窓の外を見るともう外は明るかった。今日は、寝たのだろうか。記憶にない。しかし、記憶にないということは寝たのだろうな。恒太郎は仰向けに寝転びなおす。
今日の授業は四限のみ。家を出なくてはいけない時間まではまだ六時間以上あった。何をしようか。ああ、そうか、今日はごみの日だ。ごみを出さなくては……。壁に掛けてある時計を見る。なんとか間に合いそうな時間だった。先週も間に合わなくて出せなかった、今週は出しておかないと。
ぼくは勢いづけて立ち上がり、用意をする。そして服装はそのままで玄関をでた。時刻は八時だった。
少しひんやりとする空気に触れて、気持ちがよくなる。息を意識して、アパートの階段を降りた。ごみをごみ置き場に置くと、すぐそばを人が通った。それはアパートの斜め向かいに住んでいるおばあさんだった。顔はいかにも意地悪そうな、七十くらいの人だ。
恒太郎はこの人が嫌いだった。何を知っているわけでもない、でも何となく、嫌いだった。
すぐに部屋に戻る。そして手を洗って再び布団に寝転んだ。しかしまだ、おばあさんの顔が頭から離れない。あの顔は、何を考えている顔なのだろうか。
『私以外の人間は、きっと何もできない』
違うだろうか。
『井上恒太郎は、何もできないへっぽこ人間だ』
なんだろうそれは。考えながら苦笑する。大体、あの人は恒太郎の名前を知らないだろうに。それに、へっぽこって。
自分が持っている劣等感を意識することはほとんどない。人と関わって気づくくらいだ。現に今も、恒太郎は気付いていないのだった。
「芹沢さんの映画面白かったなぁ」
恒太郎は声に出して言ってみた。しかしその声は自分にしか届かない。
あと、六時間。何をして過ごそうか。
あと、六時間。
考えた挙句、結局またゲーム機に手を伸ばす。そこには、正方形の集まりがたくさんいた。規則正しく、並んでいる。並ぶことが仕事だったりしたらどうだろう。恒太郎はふと考えてみる。
職業、並び屋。
今日は一列に並ぶ。時給六百円。
今日は斜めに並び、真中で交差する。時給六百五十円。
今日は遠くから見てチェック模様になるように並ぶ。時給八百円。
これはいまいちか。恒太郎は、意識をゲームに戻す。
しかし、頭の中はまだ、並び屋の面々が占めていた。
9
ぼくはまたあの女の人にあった。ぼくがユカであるための、あの女の人。
ぼくはまた最初に彼女を見たときと同じショッピングセンターに買い物に来ていた。福引の残念賞でもらったエコバックに買ったものを入れながら、他に何か買う予定のものがなかったかを考えていた。
そうだ、A4のファイルがほしかったんだ。
思い出すとすぐに百円均一の店に向かう。それは二階にあった。目的のものはすぐに見つかり、レジに向かう。代金は百五円だった。レジの人は男の人で、少し無愛想である。
そしてぼくは階段を降り、出口に向かった。そこで彼女を見かけたのだった。出口の近くの店の中で品物を見ていた。手には商品を持っている。それはじょうろだった。
彼女は黒いチェックのワンピースにジーパンをはいている。身長が高いし、とてもスタイルがよかった。ぼくは彼女に気付き、しかしそのまま出口へ行こうとしていると、やがて向こうがこちらに気付いた。
あ、この間の。
声には出していないものの、彼女の表情から読み取ったのはそういうセリフ。ぼくはぼくで、表情で返事をする。
この間はどうもありがとう。
口角をあげて彼女を見る。すると彼女はどうしたことか、実際に声をだしてぼくを呼んだ。
「ユカちゃん、今日もお買いもの?」
ぼくは自分がユカであることをすばやく認識し、
「うん。そう」
と答える。考えすぎた後の答えは、なんともそっけないものになってしまった。
「え」
途端に彼女が不思議さそうな顔をする。
どうした?
「え、男?」
それを聞いてぼくは目をぱちぱちさせる。
とりあえず彼女の近くにより、知り合いと話をしているという環境を整えた。
「うん」
ぼくはなるべく男っぽい声で答える。声で気付くなら、なぜこの間は気付かなかったのだろう。いや、気付きかけていたか。
「本当に? そんなかわいい顔して?」
言うと彼女はぼくを足の先から頭の先まで見た。スカートにカーディガン。今日は特に好きな服を着ていた。ぼくは内心、彼女にまた会えたのが今日でよかったと思った。
「そうだよ。恒太郎って言う」
「へぇ。ユカじゃないんだ」
「いいや、ユカでいい」
ぼくはユカという名前が気に入っていたのだった。
「ふーん。まぁ、何でもいいけど。私は千博。女です」
どう見ても女っぽい美しい彼女は、笑みを含みながらそう言った。
ぼくらは何故か自然にお茶を飲むことにした。そこで自分たちのいろいろな話をした。彼女は近くの大学に通っており、ときたまここに買い物にくるらしい。まるでぼくと同じだった。
話していても気付いたのであるが、千博はとても、できた人間だった。初対面のときにぼくを助けた彼女は、きっといつもそうやっていろんな人の助けをしているのだろう。話していて、ぼくはその立派さに若干気負わされていた。と同時に、何でもうまくいくような彼女がうらやましく、魅力的でもあった。
話もとても面白く、退屈することがなかった。ぼくらはいつの間にか二時間ほどしゃべりっぱなしだったのだ。頼んだ飲み物はとっくになくなっており、二杯目を頼むことなく居座っていた。
「ユカは、話がうまいね」
突然千博がそんなことを言い出す。ぼくはそれこそ信じられなくて彼女を見返す。しかし、その顔は冗談を言っている顔ではなかった。
「うっそだー」
「いやいや本当」
千博は真剣な顔を崩さない。ぼくはぼくで、ほめられて悪い気はせず、なんにせよ嬉しかった。ぼくの話を面白いと思ってくれる人がここにいるのだという気持ちが胸一杯に広がり、やがて気分がすごくよくなってきた。
「また、話そうよ」
千博はそう言って、伝票を自分の方へと引き寄せた。
「うん」
ぼくはそれを黙って食い止め、席を立った。
10
浴槽のふたに顎を置いて考え事をしていた。斜め前にある鏡には恒太郎の顔は映っていない。
顎が痛くなってきたので、ふたから話した。触ってみると、痕がついている。ため息。
風呂に入っている。風呂に入っている。そう、頭で繰り返した。テレビの画面の下に流れるテロップのように頭の中にそれを流し、そして映像は、自分がふたに顎を置いているところ。テロップの字は白色だった。音はない。
何時くらいだろうか。少しお腹がすいたな。風呂から出たら何か食べようか。
そして恒太郎は風呂から出た自分がまず氷を口に入れるのだろうと想像し、浴槽から出る。しかし、その予想は外れることになる。的中率百パーセントのはずだったのに。
電話の音がしていたのだ。身体を拭き、服を着ているときに電話が鳴りだした。いや、実際には鳴ったのではない。携帯の振動音だ。机の上に置いてあった携帯電話は、大げさなほどに振動していた。
『おう』
受話ボタンを押すと、恒太郎が言葉を発する間もなく聞き覚えのある声がした。それは兄だった。
「ああ」
『今、大丈夫か?』
「大丈夫」
言いながら恒太郎は冷蔵庫を開け、氷を口に放り込んだ。水の味がする。
『あのなぁ、お前、あの二人組のCD持ってたよな?』
兄、幸仁は明るい声でそんなことを言った。あの二人組、に関して恒太郎の頭には「?」が浮かぶことは一瞬もなく、すぐにそれがどのアーティストであるのか分かった。
「持ってるよ」
『貸してほしいんだけど』
「どれ?」
『どれでもいいんだけど』
「そう、じゃあダビングするよ」
単に、自分のものが部屋から出ていくのが嫌なだけである。しかし幸仁はそんな気持ちにはきっと気付かない。こいつは恒太郎のことをどこまで知っているか。特に期待をしているわけではないが、これが家族かと思うことはある。
『そうか? ありがとう』
案の定兄は感謝の気持ちを述べた。
『ああそうそう。じいちゃんたちがたまには顔出せって言ってたぜ』
「うん。出すよ」
もし何もすることがなかったら、今週帰ってもいい。実家は、ここから電車で二時間ほどの場所で、行こうと思えばいつでも行けるのだった。
兄はそれだけ言うと電話を切った。恒太郎は切れた電話をすぐに閉じ、再び机に乗せた。きっと今日はもう震えることはないだろう。
DVDデッキの電源を入れ、テレビを点けようとリモコンに手を伸ばす。が、その手はリモコンを触る前に握られた。輝く人間を見る気分ではなかった。言葉にするとそうなるが、なんだかそれも的確な表現ではないように思える。恒太郎はただ、何もせずに座っていたいと思っていた。
大声を出してみたい。きっと楽しいだろうな。
大量の髪を切ってみたい。きっと楽しいだろう。
しかし、そんなことは本当はいつでも、どこでもできることで、日常であり、ありふれている。やっていないと思っているだけで、日常とはそれと大して変わらないのだ。
つまり、きっと楽しいというのは間違っているのだろう。実際、やってみればその気持ちはきっと、
「何をいまさら」なのだろう。
近くにあった本を開く。それはレポートを書くために借りてきた本だった。そこには専門知識がひたすら書かれている。書かれているということは、書いた人がいるということだ。印刷した人もいる。自分の前に、この本を読んだ人がいる、つまり触った人がいる。たった一冊の本に、何人の人間がかかわってきたのだろうか。
字を追った。そこには百年も前に現在有名である式を考えた人物の名前が載っていた。そうか、こういう関わり方もあるのだな。この人物は、自分の名前、知識がこの本に載っていることは知らない。そこにもまた、一人の人間のすごさが感じられ、悲しくなった。何かをしなくてはならない。恒太郎はただ焦ったが、それが無駄であることも分かっていた。
本を読み進めた。課題をやろう。何かに集中しよう。そうすればいいのだ。
しかし、結局その本の内容は頭に入らず、恒太郎は本人が言う無駄な時間を過ごすことになってしまったのだった。
11
化粧はしたことがない。だけどぼくはよく女の子に間違えられた。女の格好をしているのは別に自分が女だと思っているわけでも、男が好きなわけでもなかった。ただスカートをはこうとおもっただけで、ただブーツが履きたいだけなのだった。
そんなぼくは今、女子の入るセレクトショップにいる。店内にはいろいろな服が並べられている。どれもセンスが良く、ぼくも購買意欲をそそられていた。
こういう店にくるのはもちろん初めてではない。持っている服はこういう店で買ったのだ。その時は一言も言葉を発さない。ただ黙々とレジを終える。もちろん、一人である。
しかし、今日は違った。それらのことがひとつひとついつもと違うのである。
「これとこれどっちがいいかね」
「ぼくだったら左だね」
一人じゃないうえに、言葉を発している。
「うん。じゃあ、この左の方がいい理由を述べよ」
千博は真剣な顔で服の方を見ながら言った。
ぼくは断然左だった。彼女が持っているのは、チェック柄のキュロットで、左は茶色、右が紫だった。紫が嫌いなわけではない。ただ、横にいるマネキンが茶色の方を着ていて、それがとても似合っているのだった。ぼくはそういうのに流されやすい。
ちらっとマネキンを見る彼女。
「もっている服に合わせやすいんじゃない? 茶色の方が」
「……」
彼女は頭の中で一人会話をしているのだろう。「買う?」「買わない?」という。
「決めた。茶色にする」
そう言うと千博はさっさとレジに向かっていった。ぼくはそれを見送り、自分は店内の他の商品をみることにした。
千博の悩んだ時間はおよそ二分だった。それは、ものすごく短い。一応、悩んでいたにも関わらず、その時間がとても短い。それはそれは気持ちのいいことであるが、ぼくはなんだか物足りなかった。いいものは、悩んだ末に手に入れよう。そう思ったのだ。何かの標語みたいだなと思い、笑う。
「ユカはどう?」
ぼくの笑みを見たか見てないか、彼女はまた、さっさとレジから帰ってきてぼくに尋ねる。
「ないねー」
「そう」
そう言うと千博は店の外に出ていく。しかし、そのスピードは後ろに続くぼくを気遣ったものであり、なんだかとても居心地のよさを感じた。
昼食をとり、映画を観に行った。その間もぼくと千博はたくさん話をする。この間の発言を意識してか、自然にぼくは話に力を入れていたように思う。しかし、彼女はそんなぼくの話をうんうんと聞いてくれていた。笑ってほしいところで、にやりとしてくれるのもうれしかった。
ぼくは少しだけ、自分に自信が持てるようになっていたのだった。そんな時間を与えてくれる彼女には、感謝をした。自然、千博はいい人に見えた。
「もっと面白い映画を知ってる」
エンドロールが流れ終わり、劇場の明かりがついたとき、ぼくは無意識にそう言っていた。
「なんていう映画?」
隣で千博が言ったが、ぼくはただ「うん」と答えただけだった。
12
「トランプやんねぇ?」
教室の隅で昼食を取っていた恒太郎に、佐々木がそう言った。その後ろには二人人がいる。二人とも、同じクラスで、植木と八嶋という。
「やろうか」
そう言って恒太郎は腕をまくる動作をする。にしししし。そういう音が似合うような表情もつくった。
四人が円になるように座ると、佐々木がカードを配り始める。植木も八嶋もしゃべり通しで、場はやたらとうるさく、やたらと明るい空気だった。恒太郎もそこへ混ざり、テンションを高く保っていた。
勝負は何度も続いた。恒太郎は一度勝っただけだった。あとは全部右隣にいる八嶋が勝っている。強い。
「なんだよ~、強いなお前ー」
三人にそう言われ、八嶋はにやにやしている。その姿も可笑しく、恒太郎も声に出して笑った。
音。
振動か。携帯の振動音。場に流れた。見ると、佐々木がそれを持って場から離れて行った。勝負は少しお預けになる。残された三人はたわいもない話をした。次の授業の先生の話。少し離れたところにいる佐々木の声はしかし、こちらにもよく聞こえていた。楽しそうに声を出す佐々木。時には大声で笑っている。
恒太郎は手に持っているカードで作戦をたてかけていたが、時刻が授業開始ぎりぎりであることに気づく。
佐々木はまだ電話をしている。
授業のノートと筆記用具を机に出す。そのとき無意識に日付を確認する。それはいつもの癖だった。
授業開始のチャイムが鳴る。各々トランプを片づけ始めた。
佐々木はまだ電話をしていた。やがて電話を切ったころに、先生が教室に入ってきた。そしてそのまま、授業が始まる。
13
車を止めて山道を五分ほど歩いたころに川の流れる音がした。と、思ったらすぐにそれが姿を現したのだった。
「おお」
木々の間から見えるのは、澄んだ水が流れる川と、向こう側までつながれた吊り橋。きれいなアーチを描く、なんとも絵になる光景だった。吊り橋の向こう側に見える緑を見て、改めて今自分たちが緑の中にいるのだと実感する。ぼくは空気を思いっきり吸った。
「行くぜー」
前を歩く大水が言う。彼もこの景色に一瞬声をなくしていたが、持ち前の明るさとしゃべり通しの性格はすぐに復活し、今度は早く吊り橋を渡ろうとするやんちゃな子供みたいな面を見せる。彼はいつも笑顔だ。今、振り返ってぼくらを誘う顔にも、笑みが浮かんでいる。
そんな大水を見てぼくも気持がよくなって、心の中で笑う。いや、実際の顔もにやけていたかもしれない。大水は昔からこういうやつなのだ。変わらないことに安心感を抱く。
ぼくは大水に続き吊り橋に足をかける。つり橋を渡るなどという経験は今までにしたことがなかったので少しどきどきしたが、そのつくりは結構しっかりとしていて、変な音もしなかったし、揺れも少なかった。
半分くらいまで渡ったころに後ろを振り返ると、橋本はまだ橋に足をかけてすらいなかった。かわりに彼はカメラをこちらにむけていた。その口角があがり、ぼくが何かポーズをとる前にシャッターを切る。
ピピッ
その音は川のせせらぎにかき消され、遠くまでは届かない。ぼくの想像だった。
「おーいー」
遅れているぼくらに気付いた大水が読んでいる。彼は彼で、もう向こう側に到達していた。ぼくもそちらへ向かう。橋本もカメラをしまい、後に続く。
「なぁ、あれだろ? 俺らが泊まる旅館」
大水が指差した先には、自然に囲まれながら一つだけ趣深く立っている建物があった。それは自然と一体化しており、かなり上品な佇まいだった。ぼくは若干気後れする。
「いいところだなぁ」
ぼくの肩に手を乗せて橋本が言う。そのタイミングはまるでぼくの心を読んでいるかのようなものだった。橋本はしかし、ぼくを見ているわけではない。
たまのことだからいい旅館にしようじゃないか、そう提案したのは橋本だった。ぼくら三人は幼馴染で、今は会う機会も減ってしまったのだが、こうしてたまに旅行にきている。それはいつも橋本が仕切ってくれている。そして彼は、人のことを細かくみているし、面倒見がよい。一緒にいて楽な気持ちにもさせてくれる。とてもいい人間だった。
「ここから旅館まで、何歩でしょう」
大水が楽しそうな声で聞く。
「乱歩」ぼくはすかさず答える。
「一番遠い答えのやつが、酒をおごる」
ぼくのセリフなどなかったかのように大水は続ける。いつものことであった。橋本は細い目でぼくを見ている。ぼくもそれを真似し、細い目で見返してやる。すると、数秒でそれは笑いに変わる。
「な、なぁ、答えろよー」
地面の石を蹴りながら大水が言う。
「そうだなぁ」橋本は笑うのをやめて考える。「九百歩」
「ふん。じゃあお前は?」大水がぼくに聞く。
「そうだねぇ、じゃあ……千二百歩」
「ふん。俺は七百だ。よし」
三人は一直線に並び、視線を交わす。
「行くか」
大水のその言葉を合図にぼくらは足を踏み出した。歩幅を合わせて。
14
「君は間違っている」
テレビ画面の中で天使が言う。そのセリフ自体にある意味はしかし、流れに流されて小さなものにすぎなくなっている。
悪魔はしかし、ただ自由に生きているだけだった。朝から歌を歌い、お昼にはピザを食べる。そして夜には酒を倒れるまで飲むのだった。
天使を演じている男も、悪魔を演じている男も、二人ともとても演技がうまい。才能がありすぎる。恒太郎にはそう感じることしかできない。
好き勝手生きる悪魔を天使が理屈でやっつける。天使さえいなければ悪魔はずっとずっと楽しい生活が送れたというのに。しかし天使の理屈は本当に筋の通ったものばかりであった。
物事の本質なんて、決めつけるものではない。恒太郎はそんな天使を見ながら思った。青熊に関してもそうだった。楽だけして生きる、それが人生だ。そう言って生活するのも、疲れるのだ。
何も決めてはいけない。決めない方がいいに決まっている。恒太郎は半ば自分に言い聞かせるように考えた。この天使と悪魔のやり取りはまるで自分の頭の中のようだった。理屈ばかりが溢れる世界。しかしおそらくこの演劇を見たほとんどの人がそう感じるのであろう。不思議だった。
やがて天使と悪魔は突然に声を出さなくなる。
恒太郎がリモコンの音量をゼロにしたのだ。画面には二人の男が会話する様が映されている。
何もかもうまくできている演劇を見て、自分は何を思うのだろう。期待をしているのだろうか、楽しめているのだろうか、ただ評価しているのだろうか。
ブチンッ
テレビを切る音が部屋に響く。他に聞こえるのは、パソコンの音くらいだった。恒太郎はDVDデッキの電源を切り、パソコンを自分の方へ引き寄せる。そして近くにあった本を開く。今の気分ならできるだろう。恒太郎はレポートに取り掛かる。
期限は差し迫っていない。だけど、今やるのがきっと最適で、今やっておけば明日からはやらなくてはいけない思いに駆られることはないのだ。やってしまおう。そういった、いいことなのに何故か言い訳じみた言葉を頭に流して自分は、キーボードをたたく。
頭を回転させる。課題のことで頭をいっぱいにするのだ。
やがて、集中力が高まり、課題に正面から向き合う。恒太郎はただ本の内容を頭に入れ、理解し、それをまとめて考えをキーボードに落とした。パソコンの画面の中の白い紙に、ものすごくゆっくりなスピードではあるが字が埋まっていく。恒太郎はそれを見て、安心する。そして作業に没頭する。
やがて下書きが完成したころには、始めてから二時間がたっていた。用紙に書き写すのは明日にしようか。そう思い布団を見るが、眠くはない。眠くないのに布団に入っても仕方がない。すると今すればいいではないか。そうなのか。
四十分。
そして恒太郎は布団にもぐる。レポートを仕上げた達成感を味わってはいるのだが、どこか府に落ちない点もないわけではない。なんだか、消化不良の頭だった。いつもこう。自分の頭はいつもこう。何もできないし、才能もない。そして自信もない。自信があれば、不安になることなんてないのだろう。いいなぁ、自信人間は。
電気を消すと、真っ暗だった。
いやだ。
恒太郎はただ、そう思った。
15
じゃがいもとチーズ。ナスとベーコン。
ぼくは近くのスーパーに行き材料を買って、それを使って今からピザを作ろうとしている。
何回か作ったことがあるので、レシピを見ずに作れるようになっていた。手際もよく、作業は滞りなく進んだ。やがてオーブンにピザを入れてスイッチを入れると、ぼくはリビングに戻った。
見られてる。
見られてるよ。
そこにはソファの上に座った芹沢さんと君江さんがいる。彼らの今日のビジュアルはこうだ。灰色のつなぎ。そして、手書き眼鏡。どうも彼らは手書きを気に入ったらしい。そして腕時計に続くのは眼鏡らしい。芹沢さんの方はつるの細い、インテリっぽいもので、君江さんの方はふちつきのものだった。きっと二人は二人で書きあったのだろう。
二人はぼくを見ていた。まずぼくの手を見てがっかりし、そうしてからぼくの目を見ている。
「今オーブンに入れましたから、まだですよ」
皿の用意はぼくが家を訪れる前から完璧に整っていた。軽いサラダまで用意してある。
「ピザピザ」
「ピザピザピザ」
芹沢さんはそれしか言わない。
「芹沢さん」ぼくはそんな彼を見て、弱音を吐きたくなる。
「ピザ」
芹沢さんの顔は真剣で、手書きの眼鏡をしているのにもかかわらず、格好よく見えた。そんな彼がぼくに期待をしてソファで待ちくたびれている。それだけでぼくは気持ちが落ち着いた。
「もうすぐです」
そうぼくが言うのが早いか、芹沢さんの鼻が動き出した。活発に動いている。においをかぎ取ったらしい。
ぼくはキッチンに戻り、焼きあがったピザをオーブンからだし、さらに移す。確かに、とてもいいにおいがする。
リビングに戻ると、彼らはもうピザを切るためのナイフを、何故か両手に持ち、ぼくを待ち構えていた。
「危ないなぁ」
机の上にピザを置くと、即座にそれは八等分された。神業だった。まるで漫画のようだった。
音もせずにきれいに八等分されたピザを芹沢さんが三人の皿にそれぞれ一つずつ乗せる。そして、ぼくを見る。ぼくはその視線を受けすぐにソファに腰を下ろす。
「いただきましょう」
ぼくのその言葉を合図にして二人は嬉しそうにピザにかぶりつく。ぼくはそれを見て嬉しくなる。
ピザはおいしかった。そのこともぼくを喜ばせた。
最後のピザを食べ終わると、芹沢さんがぼくを見ていった。ピザ以外の言葉を聞くのは今日初めてだ。
「恒太郎も、眼鏡描いてやろうか?」
ぼくは笑った。




