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第17話
死臭は、道路にまで届いていた。
遺体は既に運び出されてはいるが、それでも頭を揺らすような強烈な悪臭が届く。
取材に同行したディレクターの遠藤さんも、いくつもの事件現場や事故現場に入ってきただろうが、ここまで酷い現場は初めてだったようだ。
家の前に着いた途端、「マジか」とつぶやくように言って、目を強く閉じて黙ってしまった。
僕たちは、都内の遺品整理業者の取材に訪れていた。安楽死をテーマにしたドキュメンタリー番組とは別に、並行して孤独死の現状を取り扱う番組を企画していた。
いくつかの業者に取材申請をしたが、特殊清掃の仕事は常にある訳ではない。仲介者から、今すぐ取材可能ならば清掃現場への立ち入りができると、急遽、今朝連絡が入っていた。
新しく建てられた家々が並ぶ住宅街の中、ポツンと時代に取り残されたような古い木造の民家に来ていた。
二階建ての一軒家、すべての雨戸が閉められ、外からはまるで様子が分からない。だが、死後一ヶ月以上経っていた家主の遺体が発見されたと聞かされていた。
「そう言えば」
遠藤さんは、家を見上げたまま、思い出したように、唐突に話し始めた。
「安楽死回の放送内容なんだけど、このままの方向性だと、マズそうなんだよな」
頭をかきながら、困ったように大袈裟に首を回す。彼の長年の癖だ。
「何があったんですか?」
含みのある遠藤さんの言い方に、もどかしさを感じながらも、聞き返した。
「それがさ」
遠藤さんが口にしかけた時、一人の小柄な女性がこちらに走ってくるのが見えた。
「すみません、お待たせしちゃって」
作業着の上から、青色の雨ガッパを羽織りながら、小走りでやって来る。まだ20代半ばに見える若い女性だ。
彼女は家の前に到着するなり、雨ガッパのフードをかぶり、派手な金色のショートヘアを全て覆い隠した。
メールでは、担当者の名前が「島本」だと伝えられていた。仲介者には、「ベテランなので安心」と書かれていたが、ワンサイズ大きな雨ガッパを羽織る姿は、小さな子どもにすら見えてしまう。
遠藤さんも、僕に目配せしながら「大丈夫か?」というような顔を浮かべた。
「ちょっと臭いがだいぶきついですけど、無理そうなら、避難してください」
そう言いながらも、島本さんは、顔色ひとつ変えない。
亡くなったのは、50代の男性。5年前まで母親と二人暮らしだったそうだが、母親が死んでから、ずっと一人で暮らしていたという。
「ご遺体が運び出されても、臭いって残るんです。この仕事を始める前は、人って死んだらミイラ化するって思ってたんですけど、高温多湿の日本ではかなりのレアケースなんですよ」
彼女、島本さんは、斜めに流した長い前髪を人差し指で整えながら、淡々と早口で説明を始めた。
遺体は長く放置されると液状化する。溜まったガスが破裂し、腹部が裂け、溶けた内蔵が溢れ出す。生きている内は胃液は食べ物しか溶かさないが、死んでしまうと自分を溶かし始める。
色褪せたすりガラスの引き戸を開ける。
暗く静まり返った廊下が続いていた。
家の中から、外よりも冷たい、ひんやりとした空気が流れ出す。
酷い口臭のような、腐った魚のような、放置した生ごみのような、これまでに体験したいくつもの臭いが重ね合わさったような、強烈な臭気の風がまとわりつく。
僕と遠藤さんが家に入るのを躊躇していると、島本さんは手を合わせ、目を閉じた。
その瞬間、島本さんの口元が動いて、何かを言っているように見えた。
何か言い終えたように、唇を硬く閉じると、業務用の防塵マスクを装着し、深々とお辞儀をした。
事前に用意していたマスクを着けながら、僕らも島本さんの後に続く。
懐中電灯で照らしながら、廊下を進む。
「ご遺体があったのはこの部屋ですけど。これだけを見たら、ぜったい殺人事件だって思いますよね」
島本さんは部屋の明かりを点けながら、平然とした声で言う。
廊下から、息を止めて部屋の中を見渡すと、部屋中に血しぶきが広がっていた。
「警察からは、自殺としか聞かされてないですけど、たぶん、手首を切っちゃったんだと思います」
先に部屋の中に進みながら、島本さんは手首にナイフを当てるような仕草をしながら言う。
島本さんは説明を続けた。
手首を切っても、それだけでそう簡単に死ねるものではない。思い切って動脈を切り裂いたものの、意識を失うには至らない。
天井近くまで吹き上がる血しぶきを浴びながら、部屋中を這いずり回ることになる。
だから、手首を切って自殺を図った現場では、床や壁、天井まで血の跡が広がることも多い、そうだ。
島本さんはそれ以上話さなかったが、きっと最期には激痛にもがき苦しみながら、声を押し殺して、一人でじっと死を待つ、そんな光景が頭に浮かんだ。
「さっき家に入る時」
ゆっくりとリビングに入りながら、気になっていたことを聞いた。
「口元が動いてましたけど、何を言ってたんですか?」
「別に大したことじゃないですけど」
僕の指摘に照れたように、島本さんは笑った。
「なんか、人の家に無言で入るのも変じゃないですか、だからなんとなく」
島本さんは少し照れたように、そう答えると、リビングの隅にある電話台の方へと目を移した。
「だから、思いついた言葉があればそれが正解なんじゃないですか。お二人なら、なんて言います?」
唐突な質問に、僕が答えあぐねていると、島本さんは部屋の奥を指差した。
「あっ、あそこ、ですね」
島本さんが示した先、フローリングには、黒い人型の影が、はっきりと残っていた。
息を止めて、その陰から目が離せなかった。遠藤さんも、絶句したように黙る。僕も、何か感想を口にしてしまうと、言葉が軽はずみなものになってしまう気がして、ただ黙って見ていることしかできなかった。
「今の道具だと、やっぱり頼りないんで、車から脱臭機を取ってくるので、ここで待っててもらえます?」
「え? 一度、戻るんですか?」
部屋を出ようとする島本さんだが、遠藤さんは心細いのか、引き留めるような視線を送る。
「すぐ戻るんで」
そんな遠藤さんの不安を見透かしたように、島本さんは笑って言い残した。
取り残された僕らは、どちらともなく、呆然と部屋の中を見回した。
「さっき、安楽死回がマズイことになるかもって言ってましたけど、何があったんですか?」
黙っていることに耐えられず、頭の中の一番上にあった疑問を口にした。
遠藤さんは、ほんの一瞬、今ここでする話かどうか迷ったようにためらったが、まあいいかと、口に溜めた息を吐いて答えた。
「同期に社会部のやつがいて、そいつの部下が察回りで仕入れたらしいんだけど」
遠藤さんは、少し周囲を気にする様子を見せながら、言葉の最後は少し声をひそめながら先を続けた。
「国内で安楽死の処置をしてる医者が、近々逮捕されるらしい」




