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妻が近くにいないことを確認して、スマートフォンを手に取った。
SNSのアプリを開く。
やはり、僕が家に帰ったあとも、あの投稿はまだ拡散され続けていた。
今朝、初めて僕がその投稿を目にした時には、まだリツイートの数も10件程度だったが、時間が経つごとに表示数も爆発的に増え、今では引用リツイートも40件を超えていた。
妻に気づかれないように、何があっても、感情を顔に出さないつもりでいたのに、画面を見た途端、思わずため息が漏れてしまった。
「どうしたの?」
気がつくと、心配そうな顔で妻の奈々美が僕を覗き込んでいた。
「ちょっと、仕事のメール見てた」
笑顔を作って、そう取り繕った。
「俺はいいけど、奈々美は大丈夫? 準備も俺がやるから、無理しなくても」
僕がそう続けると、奈々美はほんのわずか、悲しそうな顔を浮かべたあと、すぐに表情を戻した。
「べつに、わたしも大丈夫」
そう言って、「なんのこと?」と、とぼけるように首をかしげ、僕に微笑みかける。
今は何もしなくてもいい、何度も伝えたが、妻は頑なに譲らなかった。
心配して何度も声をかけたが、妻は「それくらい大丈夫だって」と軽く受け流すだけだった。
だが、いつも笑っていた妻が、一度だけ真剣な顔になって、「何もしなくていいって言われるのが、一番きつい」とこぼし、それ以降、僕も何を言えばいいのか、分からなくなっていた。
今の妻を案ずるなら、本当は何か、かけるべき言葉があるのだろうということはわかっていた。
それなのに僕はきっと、大丈夫だという言葉に甘えてしまっていた。妻の体調を気遣う言葉を取り繕っては、ただ口にしただけで、優しい夫になれたのだと、免罪符を得たような気になっている。
「仕事、大変だった?」
食卓に料理を並べながら、奈々美が軽やかな口調で言った。
歌うように弾む、いつもと変わらない明るい声を聞いて、余計に胸が苦しくなった。
テーブルの端に妻のスマートフォンが置いてあるが、さっきから静かなままだ。おそらく、僕が帰宅する前に、通知は切っているのだろう。
今朝、妻のSNSアカウントが、あるニュース記事を引用し、投稿をしていた。
『私は、先生の勇気ある行動を支持します』
ニュースサイトの投稿を引用する形で、妻はこのような投稿をしていた。
引用していた記事の内容は、国内で安楽死の処置を行っていた医師の裁判が始まったというもので、世間の関心も高いものだった。
妻のアカウントは、フォロワー数も、さほど多くはない。過去のほとんどの投稿に対しても、「いいね」を意味するハートマークも、一件程度しか表示されていない。
今回の投稿も、普段なら炎上どころか、誰にも見向きもされない投稿だろう。だが偶然、障害者を支援する福祉団体代表の目に止まり、「優生思想に繋がる」という非難がきっかけで、多くの人の目に晒されてしまっていた。
食卓に二人分のコップを並べながら、妻の質問に答えた。
「仕事自体はぜんぜん、忙しくはなかったんだけど」
ゆっくりと前置きしながら、事前に考えていた嘘を頭の中で整理する。
「この前取材した大学の広報さんに会っててさ」
話をしようとしても、さっきまで見ていたスマートフォンの画面が浮かぶ。
拡散された投稿には、「そんなに死にたいな ら、お前は誰にも迷惑をかけずに死ねよ」と、時間が経つごとに、攻撃的な返信も増えていた。
それらの投稿を前に、妻は上から順番に、「おっしゃる通りです。ご気分を害してしまう投稿をしてしまい、申し訳ありませんでした」と、なぞるように、丁寧に返信を返していた。
真面目すぎて、いつも損ばかりしている。自分が我慢すれば全て解決するなら、痛みを一人で引き受けてしまう。そんな妻の性格を知っているから、律儀過ぎる返信を読んでいると、苦しくなった。
妻が、この文章を読んでいると思うと、仕事中も、心配でたまらなかった。
先に椅子に座った僕の背中に、奈々美が唐突に顔を埋めてきた。
「どうした?」
椅子が軋む音がわずかに響いて、背中に温かな重みが寄りかかった。
「別になんとなく」
くぐもった声で言って、背中に向かって「今日も、おつかれさま」と続けた。
彼女にとって、苦しい1日であったはずなのに、いつものように、僕を労る言葉をかける。
耳にかかる程度の髪の長さだが、風呂上がりで湿った毛先が、僕の首に触れる。シャンプーの甘い香りが、鼻先に漂う。
その瞬間、どうしようもないほど、胸が掻き乱された。
いつになるのかは、分からない。
だが、僕は近い未来、確実にこの人を失ってしまう。それをどうやっても変えられないという現実を前に、焦燥と虚しさが波として押し寄せる。
食事のあと、仕事のメールを確認するため、一人で書斎に入った。
いくつかのメールに目を通し、今日中に返信すべきものを整理していると、PC画面の左上に、スッと流れ込むように通知が入った。
満開の桜の写真をアイコンにしたアカウントだ。それを目にした瞬間、思わず息が止まってしまった。
妻のアカウントからのDMだった。
何も考えられず、ただ一呼吸置きたくて、飲みかけのまま昨日から放置していたマグカップに手を伸ばしていた。
マグカップの冷たさで、我に帰る。
冷えきったコーヒーから手を離し、妻が近くにいないか、念の為、背後を振り返った。
息を止めて、ドア越しに気配を探る。
リビングからは、誰かが言い争うような、激しい声が漏れ聞こえてきた。妻が楽しみに更新を待っている海外ドラマを見ているのだろう。
大丈夫だと、指差しするように確かめたあと、画面を開いた。
『メッセージをいただき、嬉しかったです』
昼休憩の時に僕が書き込んでいた返信について、お礼を述べるメールだった。
2ヶ月前に、妻のアカウントを発見してから、僕も匿名でアカウントを作り、彼女をフォローしていた。
妻と同じ病気で余命宣告を受け、安楽死を望む一人として、嘘のプロフィールを作った。
それが夫として、記者として、人間として、間違ったことだとは、自分でも分かっていた。だがあの時の僕は、とにかく妻のことを知りたかった。
何度か、お互いの投稿に対して「いいね」を送り合う関係になったあと、相互にフォローし合い、今ではこうしてDMが送られてくることも増えた。
そして昼には、彼女の投稿に対して、「僕は何があっても、あなたを応援しています」と、DMを送っていた。
もう一通、妻からのDMが通知画面に表示される。
『いつも「いいね」ありがとうございます。急なご連絡になりますが』
DMはそこで途切れていた。
死にたいという妻の気持ちを応援するために、「いいね」を送っていた訳ではない。ただ、悲しい独り言ではなく、誰かが気持ちを受け止めているのだと、少しでも感じてほしかっただけだ。
何か返信を送ろうと思ったが、仕事のメールが一件、届いていることに気付いた。
『明日、事前取材が可能とのことです』
長く一緒に仕事をしている、ディレクターからのメールだった。
妻が近くにいないか、ドアの方を振り返ってもう一度確認したあと、ゆっくりとメール画面をスクロールした。
『母親本人からメールで取材の依頼があったんですが、できれば3ヶ月以内には死にたいと、電話では話していました』
そして、『どこまでカメラを回せるかは分かりませんが』と、珍しく弱気な書き方で締めくくっていた。
画面を見つめていると、自分でも無意識のうちに息を止めていたようで、溜め込んだ息が漏れ出た。
メール画面を見ながら、明日の工程をしばらく考えていたが、リビングから聞こえていたテレビの音が消えていることに気付いた。
静まり帰って、足音も聞こえなかった。
息を止めて気配を探る。
PC画面に通知が入った。
妻からのDMを開く。
『やはり私は、安楽死を受けることに決めました』
リビングの方から、床が軋む音が、かすかに響いた。




