転生税理士、明治八年の村を救う ~地租三%と二冊の帳簿~
一 その判は押せません ――残り七日
「この公売予告の下案に、確認の判を押せ」
黒岩直継は、俺の前へ朱肉を滑らせた。
板敷きの広間には、汗と泥と古畳の匂いがこもっている。壁には見慣れぬ絵図が貼られ、袴姿の役人が筆を走らせていた。広間の隅では、継ぎの当たった着物の女が、幼い娘を抱いて震えている。
女の名はお春。前年に夫を亡くし、六反の田と地券を引き継いだばかりの、小さな自作農だった。
「地価二百円。地租は百分の三ゆえ、年六円。納期は七日後。納められぬ場合、田地は公売に付す」
納期を過ぎたその日に予告を出せるよう、黒岩は下案を先に整えていた。
黒岩の指が、地券下調帳の数字を叩く。
俺はもう一度、計算した。
二百円に三%。六円。
何度見ても合っている。
「早くせぬか、算之助」
どうやら、それが今の俺の名前らしい。
「その寡婦が泣こうが喚こうが、数は変わらぬ。県の地租改正掛の書記として、誤りがないと認めよ」
俺の右手には、小さな印判が握られていた。
「計算には、一銭の間違いもありません」
お春の顔から血の気が引いた。
黒岩が満足げに顎を引く。
俺は印判を、朱肉の横へ置いた。
「だからこそ、その判は押せません。間違っているのは計算ではなく、元の数字です」
広間から、筆の音が消えた。
黒岩の眉が、ゆっくりと吊り上がった。
「熱で頭まで煮えたか」
「お春さんの田は、川が曲がる内側の六反歩です。去年は二度水をかぶって、収穫は上田の半分にも届かなかった。それがなぜ、村で一番水のよい田と同じ、上等地の二百円なんです」
自分のものではないはずの記憶が教えてくれた。この帳面に記された字と、村の景色とが噛み合わない。
「地価帳がそうなっておる」
「その地価帳が正しいと、何で確かめましたか」
黒岩は答える代わりに、帳面の頁を一枚めくった。お春の名の脇、書き直された「二百円」の横に、小さな朱の印が押してある。
――算。
「確かめたのは、お前だ」
背中が冷えた。
覚えがない。だが判の形は、たった今、俺が朱肉の横へ置いたものと同じだった。
「官の帳簿を疑うか。己の判まで疑うか」
「はい」
喉が鳴った。怖くないはずがない。黒岩の腰には、まだ刀が差してある。
だが、ここで判を押せば、六円はただの数字ではなくなる。母娘から田を奪う命令になる。
「官の信用とは、疑われないことではありません。疑われても、数字が合うことです。俺の判も同じです」
黒岩はしばらく俺を睨み、それから公売予告の下案を奪い取った。
「七日やる」
「七日?」
「地価帳が誤りだと申すなら、証拠を揃えよ。できねば、お春の田は予定どおり公売。お前は官務を妨げた罪と、虚偽の確認をした罪の二つで縛る」
黒岩は、広間の壁に掛けた日割りへ目をやった。
「七日後の納期に、地租改正事務局の榊原御用掛がこの郡を巡検する。異議があるなら、その席で出せ。去年、隣村の偽りの水害願を信じたせいで、学校普請の金が止まった。涙だけでは一日も待たぬ」
「せめて十日」
「六日だ」
「増やしてくださいよ」
「五日」
この男、税務相談に向いていない。
「分かりました。最初の七日でお願いします」
黒岩は鼻を鳴らした。
広間を出たところで、膝から力が抜けた。
前の人生でも、俺は数字に判を押す仕事をしていた。
成瀬啓介、三十五歳。東京で小さな税理士事務所を営み、法人税、消費税、所得税と、毎月違う締切に追われていた。
最後に担当したのは、従業員十二人の町工場だった。決算は黒字。納税額の計算にも間違いはなかった。だが、売上代金の入金は三か月先で、会社の預金では税金と給料の両方を払えなかった。
社長は、完成した申告書を見て笑った。
――先生。数字が正しいのは分かりました。で、税金と従業員の給料、どちらを先に払えばいいんですか。
俺が資金繰りに気づいたときには遅かった。工場は機械を売り、社長は皆に頭を下げ、十二人分の仕事場が消えた。
それでも申告書だけは、どこまでも正しかった。
あの夜、駅の階段で視界が白くなった後のことは覚えていない。たぶん、あそこで死んだのだろう。
次に目を開けたとき、俺は二十三歳の青年、桐生算之助になっていた。
ここは明治八年――ただし、人名も県境も俺の知る歴史と少しずつ違う、もう一つの日本だ。地租は年に一度まとめて金で納め、滞納すれば県が田を公売にかけられる。俺の知る明治より、取り立ての手順がいくらか気が早い。
熱で三日寝込んだ算之助の身体へ、前世の俺が転がり込んだらしい。元の算之助の記憶も、霧の向こうの景色のように残っている。彼は葦ヶ浦村戸長・桐生清左衛門の息子で、算盤の腕を買われ、県の地租改正掛を手伝っていた。
父、という言葉が、胸の中で妙な形に収まった。前世の俺は、父の顔を知らずに育った。物心つく前に家を出た男のことを、母は最後まで話さなかった。だから俺は、足し引きの合うものだけを信じて大人になった。合わないものは、信じても戻ってこない。
その俺が今、借り物の記憶の中に、大きな背中を一つ持っている。算盤の珠を太い指で一つずつ上げてくれた手。洪水の夜、幼い算之助を肩に乗せ、腰まで水に浸かって堤を走った背中。それが桐生清左衛門の――つまり今の俺の父の、記憶だった。
そして帳面には、元の算之助が押した「算」の判が残っている。
なぜ押した。何を見て押した。霧の向こうの算之助は、答えてくれない。
こうして明治八年、まだ税理士という職業のない国で、俺の最初の税務代理は、自分の判を疑うところから始まった。
二 葦は水を飲まない ――残り六日
「熱で人柄が変わることはあると聞きますが、時代まで変わったような顔をしていますね」
早瀬志乃は、俺の頼んだ帳面を机に放った。
十九歳。葦ヶ浦村の米商・犬飼屋で帳場を預かる女だ。髪をきりりと結い、目つきは研いだ小刀のように鋭い。女が帳場の表へ出ることを快く思わない者も多い時代だが、彼女より速く算盤を弾ける男は村にいなかった。
三年前、母を亡くしたばかりの志乃を帳場に座らせたのは、犬飼宗兵衛だった。女に帳面を任せる店は村にも隣町にもなく、宗兵衛は志乃に算盤を弾かせて半刻黙り、それから「明日から来い」とだけ言ったという。
「頼んだのは、過去五年分の米の買入帳と、水利費の割付と、洪水の記録だ」
「買入帳は駄目です。今朝、主人が鍵をかけました」
「なぜ」
「役人の倅が病み上がりに帳面遊びをするなら、犬飼屋の帳面は貸さぬ、と。私にも、手伝うなら帳場の鍵を置いていけ、と」
志乃は、机の上の帳面を顎で示した。
「持ってこられたのは、水利費の割付と、寺に残っていた洪水の記録です。割付は井組の水番の爺さまが持っていますから、犬飼屋の鍵は届きません」
「七日しかないんだ」
「昨日のうちに聞きました。十日を五日まで値切られ、結局七日で手を打ったとか」
「もう村中に?」
「戸が六十余りしかない村ですよ。秘密は江戸へ行くより先に一周します」
志乃は座ると、算盤を俺の前へ置いた。
「それで、何を数えるのです」
俺は大判の紙へ線を引いた。
地券番号。名義人。実際の耕作者。反別。地位等級。五年の収穫。洪水回数。米の売値。地価。地租。
さらに、入ったものと出たものを左右へ分ける「本式の帳合」を教えた。借方と貸方という名には志乃も首を傾げたが、仕組みは半刻で覚え、翌日には俺の記入間違いまで直すようになった。
本当なら表計算ソフトが欲しい。せめて電卓。だが、目の前にあるのは筆と墨と算盤だけだ。
「一筆ずつ、別々に確かめる。地引絵図と、地価帳と、実際の田。それから、犬飼屋の外にある帳面を突き合わせる」
「帳面同士が同じなら?」
「同じ人間が同じ嘘を書けば、帳面は仲よく一致する。だから、違う人間が違う目的で書いた帳面がいる」
志乃の目が、わずかに笑った。
その晩、県の取扱規則を端から読み直すと、末尾に小さな但し書きが二つあった。
――水旱ニ因リ地況ノ変ジタル土地ハ、実地ヲ検シ地位ヲ改ムルコトヲ得。
――水旱ニ因リ金納シ難ク、収穫後ノ納付確実ト認ムルトキハ、県令ノ裁可ヲ以テ期ヲ猶予スルコトヲ得。
救いがないのではない。使うための証拠を、誰も揃えていないだけだ。
俺たちは、それから四日間、夜明けから日暮れまで村を歩いた。
田の四隅へ竹を立て、間縄を張る。俺が一度目の測量で足をぬかるみに取られて転び、二度目で縄の読み方を間違え、三度目で志乃に仕事を奪われた。
「算之助さんは、算用に明るいのでは?」
「数字には明るい。泥には暗い」
「田を測るのに致命的です」
税理士の資格証は、田んぼでは何の足しにもならなかった。
お春の田は、帳面よりさらにひどかった。川が曲がる内側にあり、膝まで沈む箇所がある。地引絵図では用水が一本通ることになっているが、その水路は三年前の洪水で埋まったままだった。
「夫が生きていた頃は、直す話もあったんです」
お春は泥のついた手で、娘の小梅の髪を撫でた。
「でも、うちだけではどうにも。去年取れた米は九俵。種籾と刈り入れの人足賃を引いて、売れたのは二俵きりでした」
その田が、村で最も水のよい上田と同じ等級だった。
一方、犬飼屋の裏手に広がる新田は、水路に近く、稲が青々と揃っていた。地価帳では、その半分近くが「葦原」とされ、残りも下田の扱いだ。
「葦が一本もありませんね」
俺が言うと、志乃は答えなかった。
代わりに答えたのは、畦に腰を下ろしていた老爺だった。井組の水番を四十年務めている。煙管を咥えたまま、こともなげに言う。
「葦は水を飲まんぞ」
「は?」
「水利費の割付は、水を引いた反別で割る。葦原に水は引かん。銭も取らん。ところが、あの新田はな」
老爺は割付帳の一枚を、節くれ立った指で押さえた。
犬飼屋の新田。地価帳が葦原と呼ぶ土地も含めて、反別のすべてに水利費が割り付けられ、五年分、一度も欠かさず払われている。
「葦原に五年も水を飲ませる物好きは、この村におらん」
葦原は、水利費を払わない。
払っているなら、それは田だ。
「反面調査だ」
思わず、前世の言葉が口をついた。
「はんめん?」
「……裏から見る、という意味だ」
志乃はその言葉を、珠を弾くように一度だけ繰り返して、それ以上は訊かなかった。
地価帳を書いた者と、割付帳を書いた者は、別の人間だった。爺さまは字も遅く、算盤も使わない。だが、水を引いた田からきちんと銭を集めるために、四十年、同じ帳面をつけてきた。目的の違う帳面は、簡単には嘘を合わせられない。
「買入帳がなくても、いけるかもしれない」
「どうやって」
「通い帳だ」
村の家々は、犬飼屋へ米を売るたび、手持ちの通い帳へ書き入れてもらう。書くのは犬飼屋の番頭、押すのは犬飼屋の印。買入帳の控えが、三十一軒の台所に散らばっているのと同じだ。
相手の帳面より、相手が他人に渡した紙のほうが嘘をつきにくい。前世で税務署の調査官から教わった、腹立たしいほど正しい知恵だった。
お春の通い帳は、茶筒の底から出てきた。五年分、一枚も欠けていない。
「貧しい家ほど、紙切れを捨てられません」
志乃が小さく言った。
残りの日は、三十一軒の台所を回った。
通い帳を借りるとき、志乃は必ず一つ、余計なことを訊いた。この田には、誰が出ていますか。答えを聞くと、俺が引いた表の「実際の耕作者」の欄の脇へ、小さく名を書き足す。嫁の名。娘の名。腰の曲がった婆の名。地券にも通い帳にも載らない名前が、四日で三十ほど溜まった。
「表には要らない欄だぞ」
「要らないと決めたのは、誰です」
俺は答えられなかった。前世の俺が作ってきたどの帳票にも、そういう欄はなかった。
集めた通い帳を並べると、絵がはっきりした。お春の田から犬飼屋へ渡った米は、五年平均で年十二俵。上田とされた地価の前提は二十俵。種籾、肥代、人足賃を米へ直せば例年七俵分。標準の上田なら差引き十三俵残るが、お春の田は五俵しか残らない。県の等級表に当てると、地価は八十円だった。
そして、葦原を含む新田一帯から犬飼屋の蔵へは、毎年二百四十俵前後の米が入っている。志乃が三年、帳場で見てきた数字だ。
地価帳の数字は、でたらめではなかった。
犬飼屋の新田から消された収穫が、お春をはじめとする弱い家々の田へ、少しずつ載せ替えられていたのだ。
「書き損じ、ではないな」
訂正部分の筆跡は同じだった。地引絵図でも、境の線が後から墨で足されている。
そして、訂正のうち三つには、あの「算」の印があった。
四日目の夕方、志乃が算盤を弾いた。
村全体の地価は一万二千円。地租はその三%、三百六十円。
一筆ずつ、収穫、地形、近隣との釣り合いを確かめて算定し直すと、地価は一万八百円。地租は三百二十四円。
「三十六円の違い、ですか」
「違いはそこじゃない」
俺は表の下段を指した。
発言力の弱い三十一戸の地租は、合わせて百四十四円下がる。犬飼屋を含む五戸は、合わせて百八円上がる。差し引きが三十六円というだけで、動いた金は百四十四円だ。犬飼屋だけで、年の地租は七十二円増える。
お春の地租は、六円から二円四十銭になる。
「これを出せば、宗兵衛は黙っていません」
「帳場を追い出されるか」
「もう決めました」
志乃は帯から小さな鍵を抜き、机に置いた。犬飼屋の帳場の鍵だった。三年、毎朝、彼女が開けてきた戸の鍵だ。
「明日の朝、置いてきます」
「……それでも手伝うのか。帳場をくれたのは、宗兵衛だろう」
志乃は鍵を見たまま、しばらく黙っていた。
「主人は、悪い人ではありません」
そう言ってから、彼女は小さく首を振った。
「いいえ、違いますね。悪いことをしている人です。ただ、私に帳場をくれた人でもある。二つは別のことで、どちらも本当です。一つの帳面に、両方書けます」
志乃は、算盤の珠を一つ弾いた。
「珠は、弾く手が男か女かで数を変えません。主人は、それを知っていた人です。だから私は最後まで、主人の情けではなく、主人の算盤を信じます」
彼女は、暮れていく田を見たまま続けた。
「私の母も、父と同じだけ田へ出ていました。でも帳面には父の名しかない。母が死んだとき、母が働いた証拠は一行も残りませんでした。数字を読める私まで黙れば、いなかったことにされた人は、ずっと戻れません」
それから、彼女はふと俺を見た。
「算之助さんは、熱の前と違います。言葉も、算盤の持ち方も。判の置き方も」
喉が詰まった。
「……訊きませんよ。書かれていない帳面を勝手に読むのは、嫌いです」
俺は出来上がった再計算表を眺め、初めて勝てると思った。
地価の誤りを示す証拠はある。税は三十六円下がる。お春の負担は六円から二円四十銭まで減る。これなら村を救える。
「駄目です」
志乃が、俺の期待を一言で切った。
「何が」
「三百二十四円でも、今の村には払えません」
三 正しい税額では、田は守れない ――残り三日
志乃は別の帳面を開いた。各家が犬飼屋へ預けている金と、手持ちを聞き取った記録だった。四日間、通い帳と一緒に集めて回ったものだ。
期限どおり納められる二十九戸の地租は、合わせて百四十四円。これはいい。
問題は、残る三十一戸だった。正しい地租は合わせて百八十円。だが預け金を戻し、家中の壺をひっくり返しても、現金は九十六円しかない。
地租の納期まで、あと三日。秋の米市まで、五十日。
田には稲がある。帳面の上では財産もある。だが、今ここに現金がない。
「犬飼屋から借りれば、払えます」
志乃が言った。
「担保は田です。ひとたび収穫が見込みを下回れば、結局その田は犬飼屋のものになる。主人は昨日、番頭に言っていました。公売になれば自分が買う。余所者に渡すより村のためだ、と」
村のためだ、と言う人間が、村で一番の買い手だった。
俺は前世の町工場を思い出した。
利益はある。売掛金もある。税額は正しい。
なのに、現金がない。
「また同じか」
思わず、声が漏れた。
「何がです」
「正しい税額を出せば、人を救えると思っていた。けど、正しいだけじゃ足りない」
お春の地租を二円四十銭に直しても、彼女の手元に二円四十銭がなければ、田は売られる。
税額と資金繰り。
村を救うには、二つとも直さなければならない。
「志乃。米が売れる時期までの、村全体の金の出入りを作る」
資金繰り表。前世の俺が、最後の最後まで作らなかった表だ。作れなかったのではない。税額さえ正しければ、その先は俺の仕事の外だと思っていた。
「三日で?」
「二日だ。最後の一日は、喧嘩に使う」
「誰と?」
「たぶん、全員と」
喧嘩の相手は、思ったより早く現れた。
その夜、父の清左衛門が、俺たちの前に座った。
「算之助。その調べは、ここで終いにしろ」
行灯の火が、父の顔の皺を深くしていた。この数日で、十年老けたように見える。旧藩の頃から村役人を務め、今は戸長として、何度も飢饉と洪水をくぐり抜けてきた男だ。
借り物の記憶の中で、この人はいつも大きかった。算盤の珠を、太い指で一つずつ上げてくれた手。洪水の夜、幼い算之助を肩に乗せ、腰まで水に浸かって堤を走った背中。その夜更け、父は水の引いた暗い村を回って、米の入った袋を戸口に置いていった。戸は叩かなかった。置いて、次の家へ行った。肩の上の算之助は、それを見ていた。
その記憶は、俺のものではない。だが、俺の中で確かに温かかった。
そして俺は今、その温かさを頼りに、この人を問い詰めようとしている。
「その前に、教えてください」
俺は、村の備蓄帳を開いた。
「この五年で、飢えた家へ配った米は百四十六俵。ところが、表の受入れは九十二俵しかない。前年からの繰越しも三俵です。残る五十一俵は、どこから来たんです」
「古い蔵の米だ」
「五年続けて出所のない米を配れる蔵があるなら、ぜひ見せてください。配った先をこれだけ細かく書いた父さんが、入ってきた米だけ書き忘れるはずがない」
父は答えなかった。
「もう一冊、ありますね」
長い沈黙があった。行灯の芯が、一度だけ鳴った。
父は帯から鍵を外した。外すのに、二度、指が滑った。
「村を守るためだった」
「誰からです」
「お上からだ!」
父の怒声に、障子が震えた。
「わしが村役人になった年、藩の検見役が来た。豊作の年だった。村高は上がり、翌年は日照り、その翌年は洪水だった。年貢は下がらなんだ。あの二冬で、わしは人別帳から七つの名を消した。消したその手で、新田を葦原と書いた」
怒鳴っているうちに、父の声は低くなっていった。
「一度増えた年貢は、洪水が来ても凶作でも、容易には下がらん。だから隠した。浮いた米は備蓄し、堤を直し、食えぬ家へ回した。それで何人、生き延びたと思う」
「昔はそうだったのかもしれない。でも今、その隠した新田を使っているのは犬飼屋たちだ。足りない税は、お春さんのような家へ移されている」
「犬飼が冬に米を貸さねば、去年だけで三人死んでいた」
「だから、税まで他人に払わせていいのか」
父は答えず、古い長持の前へ行き、自ら鍵を差し込んだ。
中から出てきたのは、黒い表紙の帳簿だった。
村役人が県へ出した地価帳とは別に、本当の耕作者、本当の収穫、隠した新田、各家へ回した米が細かく記されている。
はじめの頁は、若い父の字だった。今より角の立った、迷いのない字で、凶作の年に備蓄米を配った家の名が並んでいる。幼子のいる家、病人のいる家、夫を亡くした家。帳簿は、村を生かすために作られたのだ。
頁を繰るごとに、字は小さくなっていった。
犬飼屋への貸し。戸長衆への分け前。名目だけの堤修理。共同地だった新田に、いつの間にか有力者の名が添えられている。そのあたりの字は、行の下に隠れるほど細かった。
善意から始まった嘘を、力のある者が自分の蔵へ引き込んでいた。そして父は、それを止められないまま、書き続けていた。書き続けることだけが、この人に残された正直さだったのかもしれない。
黒帳と表の地価帳を並べると、書き換えられた箇所のうち三つに、あの小さな「算」の印があった。
指で触れた瞬間、霧の向こうから記憶が戻った。
去年の秋の夜。この同じ座敷で、父は表の地価帳を開いて言った。
――村全体の地価は変わらん。一筆ずつ見るまでもない。
元の算之助は、父の顔を見た。父は算之助を見なかった。それでも算之助は、父さんが言うなら、と朱肉へ判を下ろした。三度。
嘘を書いたのは俺ではない。だが、その嘘を官の数字に変えた判は、この手が押していた。黒岩の言うとおりだった。確かめたのは、俺だ。
腹の底から、熱いものが上がってきた。
怒りだった。ただ、それが誰の怒りなのか、俺には分からなかった。
前世の俺は、父と喧嘩をしたことがない。喧嘩をする相手がいなかった。信じて裏切られる、という手続きそのものを、俺は知らない。だとすれば今、喉元まで来ているこの熱は、元の算之助のものだ。父を疑わずに判を押し、疑わないまま熱に倒れた男の、遅れて届いた怒りだ。
俺はそれを、自分のもののように使うことにした。
「この帳簿を県へ出せば、父さんも罰を受けます」
志乃が静かに言った。
「分かっている」
「村の者も、あなたを裏切り者と呼ぶでしょう」
「それも分かってる」
「では、どうします」
俺は黒い帳簿を閉じた。
前世なら、判断に迷う資料は一度持ち帰った。上司に相談し、法令を調べ、責任の所在を明らかにしてから回答した。
だが今は、納期まで三日。吟味の日を除けば、使えるのは二日。持ち帰る先も、相談する上司もいない。
「県へ持っていく」
父が顔を上げた。
「算之助」
「これを隠したままお春さんの地価だけ直せば、別の弱い家へ負担が移る。父さんと村の前で、全部を明らかにする。全部を正さなければ、正したことにならない」
「村を売る気か!」
「違う」
俺は、黒い帳簿に手を置いた。
「この帳簿は、村が罪を犯した証拠です。でも同時に、お春さんたちがここで田を耕し、米を出し、誰かの嘘の分まで負担してきた証拠でもある。父さんがあの夜、戸口に置いてきた米の袋も、ここにしか書いてない。燃やしたら、声の大きい人間の言葉しか残らない」
父の肩が落ちた。
長いこと、父は俺を見ていた。息子を見る目ではなかった。かといって、他人を見る目でもない。読めない字で書かれた帳面を、それでも読もうとする目だった。
「お前は、変わったな」
「熱が高かったので」
「そんな熱があるものか」
その通りだった。
父は鍵を帯へ戻さなかった。黒帳の上に置き、立ち上がって、隣の間へ入った。
その夜、障子の向こうで、算盤の音が朝まで続いた。父は算盤が下手だった。珠が二つ三つまとめて落ちる音がして、しばらく止まり、また始まる。
自分の嘘に、計算の誤りがないか確かめているのだ。
俺も眠らなかった。資金繰りの表の下書きを引きながら、障子越しに父の算盤を聞いた。二つの算盤が、同じ夜明けを待っていた。
翌朝、黒い帳簿の噂は、鶏より早く村を起こした。
四 燃やせば、誰の名も残らない ――残り二日
有力者は提出に反対し、貧しい農家は公開を求めた。怒鳴り声が飛び交い、昼には鎮守の境内に人が集まり、日が落ちる頃、若者の一人が戸長屋敷から地価帳を持ち出して、焚き火の前に立った。
「帳簿なんぞあるから、税を取られるんだ!」
数人が賛同した。地券も絵図も焼けば、県は何も分からなくなる、と。
俺は火の前に立った。
「県には控えがある。ここにある帳簿だけ焼いても、税は消えない」
「なら、県のも全部燃やせ!」
「燃やした後、新しい帳簿を書くのは誰だ?」
若者が詰まった。
「一番強い奴だ。一番大きな蔵を持ち、一番役人と話せる奴が、自分に都合のいい数字を書く。お春さんの田が低い土地だったことも、誰が本当に耕していたかも、証明できなくなる」
帳簿は、人を縛る縄になる。
けれど、声を上げられない人が生きていた証拠にもなる。
火の粉が夜へ昇った。
やがて、お春が若者の手から地価帳を受け取った。
「燃やさないでおくれ」
彼女は、かすれた自分の名を指でなぞった。
「間違っていても、ここにはまだ、うちの田がある」
人垣の後ろで、誰かが動いた。
清左衛門だった。父は群衆の間を、ゆっくりと前へ出てきた。左右には、父が知っている顔しかない。飢饉の冬に米を置いた戸口の顔。堤の普請に出なかった家の顔。犬飼屋の帳場で、借金の証文に判を押させた家の顔。父はその一つ一つの前を、目を伏せずに通った。
火の前まで来ると、父は言った。
「黒帳を作ったのは、わしだ」
ざわめきが止まる。
「県の吟味には、わしも出る。隠したことも、守ったことも、奪ったことも、すべて話す。算之助だけを行かせはせん」
父は俺を見なかった。
代わりに、人垣の中の一人の老婆を見た。老婆は何も言わずに頭を下げた。あの冬、米を置かれた戸口の一つが、それだった。
その横顔を見て、俺は初めて、この世界で息子になった気がした。
帰り道、父は一度も振り返らなかった。俺は、その背中が記憶と同じ大きさであることに、少しだけ救われた。
残る一日半で、もう一人、話をつける必要があった。
犬飼屋の店先で、志乃は一度、足を止めた。
三年、毎朝、彼女が開けてきた戸だった。戸の内から、米を量る枡の音が聞こえる。志乃はその音を、数を数えるように聞いてから、戸を開けた。
「わしの地租を七十二円も増やした上、困窮者の米まで預かれだと? 慈善で商いはできぬ」
犬飼宗兵衛は、俺たちを店から追い出しかけた。俺の後ろに、昨日まで自分の帳場にいた女が立っているのが、なお気に入らないらしい。
「志乃。わしはお前に帳場をやったぞ」
「はい」
志乃は頭を下げなかった。
「ですから、主人が算盤で決めたことを一度も違えなかったのも、私は知っています」
「慈善を頼んでいるのではありません」
俺が言った。
「計算をしに来ました」
志乃が二枚の紙を並べた。
一枚目は、公売の見込みだった。十八戸の田が一度に売りに出される。買い手は村に一人しかいないが、その一人が町の問屋から借りた金で買い漁れば、利息は年々かかり、買った田の地租も、正した等級で毎年かかる。安く買った田は、安くない。しかも十八戸が田を失えば、犬飼屋がこれまで貸してきた金は、誰が返すのか。
二枚目は、村の米を二年間まとめて扱った場合の手数料収入。地租を納めた後の売上から貸金を返してもらえ、毎年まとまった米を扱える。
宗兵衛は長いこと算盤を弾いた。
志乃は、その手元を見ていた。三年前、この店の帳場で、半刻黙って見られていたのと同じ目だった。
珠の音が止まった。
「……手数料は売上の四分」
「三分です」
志乃が即答する。
「三分五厘」
「相場、手数料、米の重さをすべて公開するなら」
「……書け」
志乃は二人の証人を呼び、条件を一条ずつ二度読み上げてから、宗兵衛に判を押させた。
店を出ると、志乃が小さく息を吐いた。
「主人は、算盤で負けたことがないのです。私が帳場にいた三年、一度も」
「今日が初めてか」
「いいえ。今日も負けていません。ただ、勝ち方を変えただけです」
それから、彼女は道の先を見たまま、小さく付け足した。
「……三年、ありがとうございました、とは言えませんでした」
俺は何も言わなかった。書かれていない帳面を勝手に読むのは、彼女の嫌うところだ。
その夜、俺は四枚目の紙を書いた。
今日から年末までの、村全体の金の出入り。収穫の見込みには、豊作の数字を使わなかった。過去五年で最も取れなかった年を基にし、そこから種籾、食い扶持、運送費まで引いてある。
町工場の社長に、この表を見せたことはない。あの人は今、どこで何を数えているだろう。この世界からは、もう届かない。届かない相手に向けて書く表が、初めて俺の仕事になった。
隣の間では、また算盤の音がしていた。父はまだ、自分の嘘を数え直している。
書き終えたとき、鶏が鳴いた。
納期当日の朝だった。
五 国にも資金繰りがある ――納期当日
隣町の県出張所の広間には、百人近くが集まった。
村人、県の役人、近隣の戸長。そして中央の地租改正事務局から派遣された榊原正邦。内務・大蔵両省と県令から、この巡検に限る裁可権を預かる検査官だった。
榊原は三十代半ばだろう。洋装の上に羽織を重ね、机には分厚い法令綴りを置いていた。腰に刀はない。それでも黒岩より怖く見えた。
黒岩が先に述べた。
「新政府には金が要ります。学校を建て、道を直し、外国に侮られぬ国を作らねばならぬ。米で納める旧来の年貢では、豊凶と相場で収入が揺れる。土地の価格に応じ、所有者が現金で納める。これが新地租の礎です」
彼の言葉は正しかった。
「一村だけを憐れみ、期限を曲げれば、どの村も凶作を唱える。国の帳尻は、誰が合わせるのです」
これも正しい。
悪人の嘘なら、暴くだけで済む。正しい言葉同士がぶつかるから、税は難しい。
榊原が俺を見た。
「桐生算之助。官の地価帳に誤りがあると申したそうだな」
「はい」
「お前は葦ヶ浦村の代理人か。それとも、村の不正を売る密告人か」
「どちらでもありません」
「では、何者だ」
税理士です、と答えそうになった。
この時代にはまだ、その言葉の置き場所がない。
「税を負う者が、払うべき額だけを、払える形で納められるようにする者です」
広間の後ろで、誰かが笑った。
榊原は笑わなかった。
「続けよ」
俺と志乃は、三枚の大きな紙を広げた。
一枚目は、地引絵図と実際の土地を重ねたもの。
二枚目は、五年分の収穫と米価、水害、種籾、水利費を一筆ごとにまとめたもの。その脇に、井組の割付帳と、三十一冊の通い帳が積んである。
三枚目は、表の地価帳と父の黒帳との差を示したもの。
志乃が算盤を弾く。静かな広間に、珠の音だけが響いた。
「官の地価帳では、葦ヶ浦村の地価は一万二千円。地租は三百六十円です」
珠が止まる。
「再丈量し、県の定めた地位等級に沿って計算すれば、地価は一万八百円。地租は三百二十四円」
榊原が指を上げると、傍らの算術役が紙を受け取り、三十一冊の通い帳から抽き出した十七筆を、二枚目の数字と照らした。算盤の音が続き、やがて小さく頷く。
「算術に誤りはありません。抽き出した十七筆、通い帳と転記の数字はすべて一致しております」
「通い帳など、百姓が自分で書ける!」
犬飼宗兵衛が立ち上がった。
「書いたのは犬飼屋の番頭で、押したのは犬飼屋の印です」
志乃が、顔も向けずに言った。
「主人の印が偽りなら、犬飼屋の取引は五年分すべて偽りになりますが、それでよろしいのですか」
宗兵衛の口が、開いたまま閉じた。
榊原は手元の割付帳をめくり、指を止めた。
「犬飼屋。地価帳で葦原とされた土地に、五年、水利費が割り付けられている。葦原に水を引いた理由を申せ」
宗兵衛は答えなかった。広間の隅で、井組の爺さまが火のついていない煙管を咥えたまま、鼻で笑った。
黒岩が口を挟んだ。
「村の言い分で等級を下げただけだ」
「いいえ」
志乃が真正面から黒岩を見た。
「下がる田もあれば、上がる田もあります。弱い三十一戸は合わせて百四十四円下がり、犬飼屋を含む五戸は百八円上がる。差し引き三十六円の減です。犬飼屋の新田だけなら、地租は年七十二円増えます」
広間がどよめいた。
俺は、地図のお春の田を指した。
「同じ広さでも、毎年二十俵取れる田と、洪水で九俵しか取れない田が、同じ値であるはずがない。お春さんの地租は六円ではなく、二円四十銭です」
「なぜ入れ替わった」
榊原の問いに、父が立ち上がった。だが、黒帳を胸に抱いたまま、前へは出ない。
「三枚目は写しにすぎぬ。原本は、清左衛門が抱いているものか」
父の腕に力が入った。
「原本がなければ、今日この場で官の地価帳を覆すことはできぬ。後日の調べは命じるが、公売予告は予定どおり出る。原本を正式な証拠として出すなら、作った者と確認した者の責任も同時に問う」
榊原は表の地価帳を開き、三つの「算」の印を指した。
「清左衛門は戸長を失う。算之助、お前も現地を見ずに三度、判を押している。今までの官務がなかったことにはならぬ。地租改正掛には戻せない」
広間の空気が重くなった。
「どちらの帳簿をもって、今日の判断を求める」
前世では、依頼人を救えなかった後も、俺の資格と机は残った。
今度は、人を救うために、自分の席を失う。
俺は首から、地租改正掛の木札を外した。
軽かった。人を救えないまま、最後まで手放さずにいた前世の資格証のほうが、ずっと重かった。
「黒帳を、正式な証拠として提出します。父の責任も、俺の責任も、数字の外へは隠しません」
父が俺を見た。それから、両手で黒帳を机へ差し出した。
算盤の珠を上げてくれた手だった。洪水の夜、幼い算之助を担いで堤を走った手でもある。その手が、供え物でも置くように、黒い帳簿を机へ置いた。
「この黒帳を作ったのは、わしです」
父は、すべてを話した。
旧藩の年貢から備蓄を守るため、新田を隠したこと。犬飼屋の貸金と引き換えに黙認を続けたこと。その負担が弱い家へ移ると知りながら、村のためだと言い聞かせたこと。
「処分は、いかようにも。ただし、田を耕した者まで同罪とはなさらぬよう、お願いいたします」
榊原は受け取り、一頁ずつめくった。
「なぜ出した」
父は少しの間、黒帳の背を見ていた。
「隠したのは、わしが村を守れると思うたからです。出したのは――倅が、読んだからです」
榊原の目が、俺へ移った。
「税額だけでなく、誰が負担しているかを正さなければ、別の誰かが潰れるからです」
榊原が黒帳を閉じた。
「再丈量すべき理由は認めよう。だが、三百二十四円が正しいとしても、今日払えぬなら問題は残る」
「はい。ですから、紙はもう一枚あります」
俺は四枚目の紙を広げた。
「地価を正すだけでは、村は救えません」
そこには、今日から年末までの金の出入りを書いていた。
期限どおり納められる二十九戸が、百四十四円を今日納める。残る三十一戸の地租は百八十円。その手元金九十六円から、生活と種籾に三十六円を残し、今日六十円を納める。合わせて、本日の納付は二百四円。五十日後の秋の米市で六十円、保管米の年末の売却でもう六十円。合計三百二十四円。
「収穫の見込みは、過去五年で最も取れなかった年を基にしています。三回の分納を願います。税を免じてほしいのではありません。土地の値と、納める時を、現実に合わせていただきたい」
榊原が法令綴りを叩いた。
「情けではなく、根拠を申せ」
「県の取扱規則に、水害で地況が変わった土地は実地を検して地位を改められる、とあります。また、水害で金納が難しく、収穫後の納付が確実なら、県令の裁可で期限を猶予できる。新しい仕組みを願っているのではありません。この証拠に、二つの但し書きを適用していただきたいのです」
黒岩が机を叩いた。
「今日入るはずの三百六十円が二百四円になる! 国は、その不足を霞でも食って凌ぐのか」
「国にも資金繰りがあることは分かります」
「百姓の倅が、国の勘定を語るか」
「百姓の一円も、国庫の一円も、同じ一円です」
俺は猶予を求める三十一戸の一覧を示した。いずれも完納まで各自の地券を県へ預けると連印している。そのうち十八戸は、すでに公売予定へ載せられ、正しい地租は合わせて四十二円余りだった。
「では、公売にかければ、今日、国庫にいくら入りますか」
黒岩が眉を寄せた。
「公告、入札、落札、代金の納付。県の手続きだけで、どう急いでも一月はかかります。そして、この村で田を買える者は犬飼屋しかいない。その犬飼屋の蔵に金が入るのは、秋の米市の後です」
広間が静まった。
「つまり、公売にかけても、国は同じ五十日を待つ。違うのは、その五十日の間に、十八戸が田を失うかどうかだけです。猶予しても土地は逃げない。地券は県にあり、田には五十日後に売れる稲がある。国が待つのは金だけです。十八戸から、田まで取り上げる必要はありません」
黒岩は、すぐには言い返さなかった。
「……公売は、見せしめでもある。次の村が凶作を唱えるぞ」
「唱える村には、この村と同じことをさせればよいのです。通い帳と割付帳を出せ、と。証拠を出した村だけが猶予を得る。涙で猶予は買えない――黒岩さまの仰るとおりです」
黒岩の口元が、わずかに歪んだ。怒りとは違うものに見えた。
榊原が目を細めた。
「分納中に逃げればどうする」
「米を各家で売らず、村の蔵へ集めます。犬飼屋が公開の相場で一括して売り、手数料を明記する。ただし各戸の負担は混ぜません。それぞれの売上から、その家の地租だけを納め、納付額と残額を書いた控えを渡します」
犬飼宗兵衛が、また立ち上がった。
「手数料は三分五厘、二年限りだぞ! 都合よく話を広げるな」
志乃が無表情で言った。
「証文どおりです。今日はよく覚えていらっしゃいますね、主人」
広間のあちこちから、堪えきれない笑いが漏れた。
榊原だけは、なおも険しい顔だった。
「お前の案には、もう一つ欠けている」
「何でしょう」
「また帳簿が書き換えられたら、同じことが起きる」
俺は頷いた。
「調査の時だけで終わらせず、決まった後も、地価と地租の計算を一戸ごとに読み聞かせ、控えを渡します。地引絵図の写しを村に残し、異議がある者は十日以内に再丈量を願い出る。売上の証文は二通作り、一通は納めた家へ、一通は村の帳場へ。測る者、帳面へ書く者、判を押す者も、別々にします」
「決まった後も、民に官の計算を見せ続けるのか」
「見せなければ、調査の後で書き換えられても確かめられません」
「官の帳簿を、民に疑わせることになる」
「疑われて困る帳簿なら、先に困るべきは官です」
黒岩は口を固く結んだが、もう机は叩かなかった。
長い沈黙が落ちた。
榊原は、地価帳、黒帳、そして俺たちの新しい表を順に見た。
「国を作るには、税が要る」
「はい」
「納める者が、国を信じることも要る」
「はい」
榊原は筆を取り、裁可書へ何かを書き込んだ。印判を朱肉へ下ろしかけ、ふと手を止める。
「官印が真実を作るのではない。真実に押されてこそ、官印には価値がある」
印判が紙へ落ちた。
乾いた音が、広間に響く。
「葦ヶ浦村の差押えを停止する。本日、二百四円を仮納として受け、十日以内に県の手で再丈量を行う。地価一万八百円が確かめられたなら、残る百二十円は二回に分けて納めよ。今年の措置は今年限り。帳簿公開の方法は三年間記録し、改正事務局へ報告せよ」
お春が息を呑んだ。小梅が母の袖を引く。
「ただし、隠し新田はすべて地券へ載せる。利益を得ていた者の負担は逃さぬ。桐生清左衛門は戸長を辞し、処分が決まるまで謹慎。村に都合のよいところだけを認めたわけではない」
「承知しました」
父が深く頭を下げた。
黒岩は裁可書を受け取り、長く黙っていた。
「再丈量は明朝からだ、算之助。官の木札がなくとも、お前は最初から立ち会え。今度は同じ縄を見る」
それだけ言うと、新しい間縄を取りに広間を出ていった。
その日、国が滅びることはなかった。
お春の田も、売られなかった。
父は戸長印を机に置き、俺の首からも官の木札が消えた。有力者は隠していた負担を引き受け、犬飼屋は田を安く得る機会を手放して、公開された手数料を選んだ。
県が今日受け取った金は、三百六十円ではなく二百四円。三十六円は、もともと取るべきでない金だった。残る百二十円は失ったのではない。困窮した三十一戸が米を金に替えるまで、待つことにしたのだ。
広間に大きな勝ち鬨は上がらなかった。ただ、お春の田にはまだ青い稲が立ち、小梅は母と一緒に家へ帰れた。
六 三冊目を開く ――半年後
半年後、葦ヶ浦村は春を迎えた。
地租三百二十四円は、約束どおり全額納められた。
共同販売は意外にうまくいった。犬飼屋は手数料を公開する代わりに、まとまった量の米を安定して扱えるようになり、以前より眠れる夜が増えたらしい。本人は絶対に認めなかったが。
父は戸長を退き、屋敷の米蔵を一つ手放した。代金は、不当に負担を負わせた家々への弁済に充てられた。今は毎日、堤の修理へ出ている。
有力者の一部は、今でも俺を裏切り者と呼ぶ。
それでいい。
全員に好かれる税務代理人など、前世でも見たことがない。
朝の霧の中を、俺は握り飯を提げて堤へ上がった。父は土を踏み固めていた。手は止めない。俺は畦に腰を下ろす。それが、この半年で二人が見つけた、話をしない話し方だった。
「弁済の受け取り証文、三十一枚揃いました」
「そうか」
父は踏み固めた土を、足の裏で確かめた。
「熱の前のお前は、わしの言うことを疑わなんだ」
俺は答えなかった。
「時々、あの子が懐かしい。……だが、あの子のままなら、わしは今も、あの帳面に嘘を書き足しておったろう」
父は俺を見なかった。見ないまま、握り飯へ手を伸ばした。
「お前が誰でも、わしの帳面を読んだのはお前だ。それで足りる」
俺は喉の奥で何かを数えようとして、数えられなかった。足し引きの合わないものを、それでも信じていい。この人は、そう言っているのだった。
「算之助」
父が、俺の名を呼んだ。
半年前、広間で聞いたときは、他人の名前だった。
今は、俺の名前だった。
お春の田には新しい水路が通った。地価が下がったから放っておくのではなく、収穫を増やして、いつか本当に上田にしようと村で決めたのだ。井組の爺さまは、割付帳にお春の名を書き足しながら、今度は本物の水を飲ませてやる、と言ったそうだ。
小梅は、県からのわずかな助けと村の寄付、民費を合わせて寺の一室に開かれた小さな学校へ通い始めた。
税を取り立てに来た国と、その税を納めた村が、今度は一緒に子どもへ字を教えている。
単純に好きにも、嫌いにもなれない。たぶん税とは、そういうものなのだろう。
俺と志乃は、街道沿いの小屋を借りた。
店先の看板には、こうある。
帳簿調製・租税相談 桐生算之助・早瀬志乃
「『困り事よろず無料』も書こう」
俺が言うと、志乃は即座に首を振った。
「店を三日で潰すおつもりですか」
「初回だけ」
「初回で全部聞く人ばかり来ます」
「では、米一合」
「お春さんからも取るのです?」
「……初回無料で」
「ほら、潰れます」
言いながら、志乃は楽しそうに新しい帳簿を開いた。
最初の客は、お春だった。
「地券のことではないんです」
彼女は小梅を前へ押し出した。
「夫が死んだとき、私の名へ地券を書き直すだけで半年かかりました。この子一人に継がせるのは難しい、男の親類へ渡せとも言われています。でも、誰が耕して、誰が守ってきたか、今から書いておけば違うでしょう?」
志乃が俺を見る。
俺は頷き、真っ白な頁へ、小梅の名を書いた。
お春が帰ったあと、志乃は帳面を自分の前へ引き寄せ、表紙の裏の見返しに、小さく一行を書いた。
女の名だった。志乃と同じ姓だった。
俺は、それを読まなかったことにした。書かれていない帳面を勝手に読むのは嫌いだと、彼女は言った。書かれた帳面なら、いつか読んでよい日が来る。それまで待つのが、この店のやり方になるだろう。
表の地価帳は、官が税を取るために作った。
父の黒帳は、村を守るために嘘を抱えた。
どちらも誰かを救い、誰かを数字の外へ追いやった。
だから俺たちは、三冊目を作る。
納める者にも、取り立てる者にも読めて、間違いがあれば声を上げられる帳簿を。
前世で間に合わなかった社長の顔を、俺はまだ忘れない。
今度は、締切が来る前に会いに行こう。税額だけでなく、払う日の金まで一緒に数えよう。
「算之助さん」
志乃が算盤を弾いた。
「まだ貸方が空欄です」
「今から書くところだ」
「国の帳尻を語った方ですから、念のため」
窓の外で、田へ水が入る音がした。
明治九年の春。この国にはまだ、税理士という職業はない。
だから俺は、その名のない仕事を、この真っ白な一冊から始めることにした。
お読みいただき、ありがとうございました。
本作は明治初期の地租改正を下敷きにしたフィクションです。明治六年に地租改正条例が公布され、地価の三%を原則として土地所有者が現金で納める制度へ移行したことなど、史実の要素を取り入れていますが、地名・人物・個別の制度運用・救済手続には創作を含みます。特に、早期の公売手続や年一回の納付、公売に要する日数、通い帳や水利費割付の扱いは、パラレルワールド独自の設定・簡略化です。
「正しい税額を計算すること」と「実際に納め続けられること」は同じではありません。数字の向こう側にいる人を想像する仕事として、税理士を描いてみました。




