無名の雨宿り
『無名になりたい方はこちらまで』
そう書かれた軒先の看板に、目が止まってしまった。
大きなオーニングの下で傘を閉じて、吸い込まれるように店に入った。
「いらっしゃいませ」
まだ若く溌溂とした青年が座ってコーヒーを飲んでいる。
傘はそちらに、と丁寧に手のひらを差し出してきた方向には、数本の傘が立てられていた。
店内には、青年以外、誰一人見つからなかった。
壁や天井からほのかに間接照明の光がこぼれて、店内を明るく照らしていた。
青年は机に浮かぶ月の照明をつついてから立ち上がった。
「あなたも、『無名』になりたくて?」
ただ看板に吸い寄せられただけとは言えず、ここはどういう場所かと聞き返した。
青年からは、いつまでも甘いコーヒーの匂いがしている。
「ここは、無名カフェです」
どうぞ座って、と促されるままに端っこのテーブル席に案内されて、青年はどこからともなく砂糖とコーヒーを持ってきた。
「みなさん、世間に存在を忘れられたいときにお越しになるんです」
コーヒーを一口啜った。
砂糖を入れる必要がないくらいに甘くて、香り豊かで、それでいてどこか寂しい味がする。
存在を忘れられるなんて、望むようなことだろうか。
「そして、周りの人から降り注がれる言葉の雨に濡れないようにお越しの方もいらっしゃいますよ」
ほんの少し前まで私の傘に降り注いでいた強い雨は、心なしか少し弱まったように見えた。
私の傘は、もう雨に耐えられずところどころ引き裂かれている。
「あなた、雨宿りが必要でしょう?」
コーヒーをもう一回啜った。
いつかの甘さは消えて、すっかり苦味と酸味に支配されている。
「いまのコーヒーは苦いですか?」
渋い顔をして頷くと、青年はにこやかに砂糖を取り出した。
砂糖を大量に放り込んで、どうぞ、と丁寧に差し出してきた。
今度のコーヒーは、ほんの少しだけ甘い。
苦味や酸味は消え去って、ただ甘さだけがそこに残っていた。
「ここで存分に雨宿りしていってくださいね」
外の驟雨はいつの間にかただの曇天になっている。
私の傘は、それでも相変わらずボロボロだった。
「私は、コーヒーにとっての砂糖のようなものです」
青年は、あなたの人生を甘くできれば嬉しいです、と微笑んで言った。
裏から傘を持ってきて、控えめに広げて渡してきた。
「これはあなたのための傘です。あなたの心の中の雨も、止んでいきますように」




