二〇二六年一月二十四日の日記
私だって、いたずらに人を傷つけたいなんて、そんなまるで悪魔のような発想は持ち合わせていないのです。あってたまるか!と言ってやりたくなる頃には自己嫌悪に陥って、自分にまともな悪口の一つや二つ、あろうことか三つ四つとくどいほどに、よく出てくるものです。しかしこともあろうに私という人間にだって、関わりを持とうとしてくれる人間もいるんです。何かと良いように利用しようとする人から、単なる好奇心による人。それが転じて、結果的にイザコザへと発展する人間関係とはまあ、うまい具合に不細工に作られたもので、壊そうと思ったらいつでも壊れてしまう。そんな小細工一つもなしに壊せるような不細工で歪な板ガラスの上に乗った関係を何を間違えたか魔が差したのか「この人とは仲良しだ」とか「友達なんだ」などとぬかして優越感に浸り、終いにはそんな脆い物だと言うことすら忘れて、考えることを放棄するのです。なんだか綴っている私のほうが段々と淡々と苛立ちが募るばかりです。しかしながら私にもそういった人間関係を築いているときっと勘違いを起こしているであろう、人間は多数いるのです。私のような卑屈でそばにいるだけでイライラするようなまるで、クソのような存在にすら感じられる人間にすらです。それは何でしょうか、クソにたかるウジのようなものでしょうか。しかしまた、そのウジよりも存在価値の無い人間がまた私なのです。クソはクソなりの生き方というものを見いだし始めるもので、困ったことにクソでも肉体が人間である以上、思考等は止まらないのたかってくるウジにさえ愛着を持ってしまうのです。そのウジとの関係性というのもはなかなかに不思議なもので、いいだけ養分を吸ったあげく、クソの私にツバを吐きつけて飛び去ってしまう「ハエ」も多くはないので私は甘んじて、甘んじてというと烏滸がましいにも程があるのですが受け入れるのです。しかしながら何十匹とたかるウジのなかにも羽化したにも関わらず少しはそばにいて様子を眺める「人」もいるのです。そういった「人」にはクソなりの敬意を持って板ガラスの上にできた関係性をより強固に固め、肥大化させていくのでした。
そうは言っても、私はクソに変わりはないので嫌気が差して、やはりツバを吐きつけて飛び去ってしまう「ハエ」もいるのです。かく言う私も他者にとってはその、忌々しい「ハエ」にかわりはないのでしょう。他者にとっても自身にとっても汚らしく嫌悪すべき対象には変わりないのに、何故に私は呼吸をしているのでしょう。私はクソです。クソならクソらしく、水に流れて消え去るべき者です。なのに何度流しても、帰ってくる。終いには根詰まりを起こし、自らでも対処できないほどに自身への嫌悪感が肥大化してゆくのです。その度に私は人に迷惑をかけて心配をかけて、終いには呆れられ、どうしようもない人間へと変貌するのですが、やはりここでも、人間の思考等に支配されて嫌悪感により流したクソを拾い集めて、戻すように促す「人」に恵まれたりもしているのです。恵まれるという表現も、自分にとってはとても、分不相応な言葉で、今にも嘔吐してしまいそうな嫌悪する言葉の一つになのです。その嫌悪する言葉が、私に安心とこれからの私の嫌悪感を肥大化させる大きな要因になり、そんなクソを相手にする「人」を何故、私はないがしろにし自分さえ良ければと言う、独りよがりの一視点的なものの考えによって自身を汚しているのか、考えてしまうのです。つまりは自分の努力不足による他者への迷惑をかけることへの自分に課せるどうしようもない憤りと苛立ちそして嫌悪。隠しきれない、未熟な肥溜めのような自尊心と惰性によるものなのです。私はそれ故に自身をクソと呼称して少しでも卑下し見下し、あたかも自分が自分を見下し貶めるようにするしか、この憤りを静める術を知らないないのです。しかし、それだけの「人」にもどうしても私は恐れを抱いてしまい、終いには閉ざしこみたくなりもするのですが、閉ざしこもうとするときに限って、無理に空元気を振り絞って良い格好を見せつけ、挙句の果てには自身の客観視すら忘れて、醜態を世の中に晒し、「人」に迷惑をかけるのです。そんな人間であるからにして、私は「人」に期待をしたくないと言いいたいところなのですが何分、狭苦しい考えをしているので、「人」への期待は計り知れないほど、微塵にも断ち切れたことが無いのです。期待するほど板ガラスが割れ、そしてそのガラスが、私の胸へと突き刺さるのです。そのたびに私の汚らしいクソのような掃き溜めの心はより一層色濃く、汚く濁った溝のような色へと変化してゆき、終いには自分の色の見分けもつかず、無に帰そうとするのでした。
しかし天は私を赦そうとはせず、無に帰ることそうなことより前に多大なる脅威、恐怖に本能的に逃避の行動を取りその行為すら惨めに思うのです。端的に言えば私がめっぽう、面の皮の厚化粧も平然と行い、それにメソメソと萎えることもなければ、泣き言を言うことすらないような腕っぷしの強い人間になれるのであれば、それに越したことはないのです。しかし何度も何度も試みました。しかしこれは私の性分が、ひん曲がっているからなのか、一向に上達もしなければ、途中でボロが出るのです。この使い捨てのボロ雑巾よりも、向上性が見込めないあるいは無いそんな人間が、この世に少なくともここに一人は存在を天は赦しているのです。案外そういう人間のほうが多いのかと恐れ多い傲慢な考えが頭をよぎった日には、自分のド頭をかち割る勢いで、自分に罵声を浴びせるのですが、どうしようもなく飽き性なもので、その行為にすら直ぐ飽きてしまい、次の思考へと突きすすに時には、同じ行為の繰り返しをするのです。とても賢い行動だとは誰も言わないでしょう。それだけ、自負している無愛想で不格好な歪んだ性分故、このような言葉をここに綴っているのです。それもまた惨めに換気扇の下で、タバコの煙と時間を更かしながらです。バカと煙はなんとやらといいますが、よくできた言葉で、バカは高いところを高いところなどとは思わないのです。故に、バカなのです。まるで私です。自分のこともろくに見えなければ、優雅に自分を見下したつもりになって、人には良い格好を見せているかのように勘違いをして、狭苦しい熏んだ考えのもとに生きているそれが私であり、ごまかしようのない、生まれついての性分なのです。
私はこの世界なんて滅んでしまえだとか手前勝手な考えに及んだことや、それに劣等感や嗚咽の出そうな苛立ちを感じることは日常でありますが、時々目にするものをみるとそうも考えきれない、言い切れない現実というものがこの世には存在するのです。例を挙げれば、電車で移動中の親子の他愛もない会話を聞くだけで、喜びとこの世への希望を感じることなんてしばしばあるのです。しかしながら、私にツバを吐きつけたような「ハエ」はそういった仲睦まじい様子には目もくれず、私と同じように世界を蝕んでいる。そこにどうしようもない怒りを抱えることもあるのですが、それもまた私自身への嫌悪感を肥大化させるものでもあります。それなりに生きづらいものではあります。
何故、私は生きているのかそんな事を考えてしまうのです。どうしようもなければ、答えなんて、ちっとやそっとじゃ、出やしない問題であるにも関わらず、そのスパイラルに一度陥れば抜け出すまでには時間を要することでしょう。憤りを他者への行動へ変換することは私自身とても忌まわしく思うところです。そしてまたアンチナタリズム的に物事を考え、忌まわしく思い、またその思考を肯定しきれない事象に出会うと「ハエ」がツバを吐きつけ一つまた私の心がすり減るのです。いつか人は死ぬことは、どう足掻いても変えることのできないこの世の理としてこの世の忘れかけられている定石となっていますが、私は「人」として死ねるなら死にたいのです。その境界線があまりにも流動的で、曖昧なものですから人それぞれの形に合わせて、死ぬなんてことは到底できかねないものだと言い切れるでしょう。そんな断言をすることは私にはあまりにも鬱陶しく腹立たしいものですが、ここでは断腸の思いで、言い切りたいのです。それだけ私が、死に固執している理由は随分前に忘れ去ってしまいましたが、余りにもこの感情と長く苦楽を共にしてきたのでもう私には説明がつかないのです。それ故、裏付ける根拠や責任もありませんが、ここは大目に見てやってあげてください。そういう人間も世にはいるのです。肥溜めのような、人のことを不快にさせることしか取り柄がなければ、自分を卑下することに愉悦を覚えてすらいる、ろくでもない人でなしなりに人という姿のあり方を模索したいのです。それくらいは天も目をつぶってくださると私は信じたいのです。信仰の自由までは私も自分で覆い囲んだりはできないもので、私なりの生き方をその先にある何かを求めて、未来に何かを繋ぎ紡げるのであれば私は孤独でも、何でも良いのです。孤独は毒でもありますが、毒には毒をもって制す、というように、この世には私にとっての毒が溢れかえるほど存在しているものですから、今の時点ではまだ毒に侵されることはないのでしょう。希死願望に固執しながらも、パラドックス的に生を模索する、そんな不条理で不自由かつ大胆に不細工な生き物なんて人間にしかできないのです。不細工である以上、どこまでも細工ができるとも言い換えることができるでしょう。しかしながら、私はあまりにも不器用なもので、まだそれほど上手く細工はできないものですが私なりの人間像を探して行くしか道はないのだと知ってはいるのです。世の中では誰も教えてくれない、何も言ってくれない解のない問いには、きっと天のみぞ知るそれだけ、崇高で煌びやかな答えが待っているのでしょう。私は死ぬときまでに、もしも神様がいるのであれば、天に差し出す解答用紙に、目一杯の言葉を吐きつけて、度肝を抜かす天地がひっくり返って、神様も阿鼻叫喚し顔を真䵾に染めるような酷く下世話な現実と思考を天まで持って行ってやるつもりです。こんな、どうしようもない人間を天が見過ごしているのは、きっとそんな理由以外は今のところは見当たらないのです。
ただ、今私が生きている状況を支え親身にクソのような私にさえ手を差し伸べてくれる「人」には感謝の心しか称せないのは、少々心残りではあるのですが、それだけ人に恵まれている現実を受け入れることは私にとっての大きな生きる上での課題になるところなのでしょう。それだけは、死ぬ前に精一杯の努力を試みてその「人」たちに恥じない生き方の模索もしてゆきたいものです。もういい加減、この言の葉を紡ぐのは私にとっても言の刃になりかねないものなので、こんなところで、赦してあげられるくらいには私も成長したのです。この最後の文まで頭に入れてくれた物好きな変わり者の「人」の皆様には私に心からの精一杯の感謝の意を評したいのです。私もそのくらいの自由は謳歌してみたいもので、不格好で卑屈などうしようもないこんな私を気にかけてくれる凡ての「人たち」に送ります。ありがとう。
二〇二六年一月二十四日小林嵩史




