第56話 マティーニ
龍二が一緒に住む……結婚はしてないけど、同棲したって構わないよね?だって……もう体裁とか気にする必要ないし……正直、一人では家事もままならないし……
「龍二はあなたのパパなんだから、一緒に住むのは普通だよね?」お腹に手を当てて話しかける癖がついてしまった。
昼間はあんなに気持ち悪くて眠いのに、夜になると気分は回復して、眠くもない。
龍二と話したいのに、夕方になると仕事でいない……「何する?」「なんか食べる?」「テレビつける?」歌うように一人でしゃべっている私は、どうみても怪しい人……「ママは変な人じゃないよー」
ケラケラと笑いながら、龍二が作って行ってくれた夕飯を温める。
「パパってすごいよね?」「何でも出来ちゃう」「ほら、上手だよね」ブツクサ言いながら八宝菜を皿によそい、お酢をかけた。お箸を持って、手を合わせて「いっただっきまーす」
ピンポーン
「ん?変だよね?」「何か買ったっけ?」お腹をさすさすしながら、居間のインターホンの画面を見る。
「えっ!どうしよ!」
優子さんのフレグランス……柔軟剤の香りかな……なんかダメだ。息を止めてお茶を出す。
「あら、ごめんなさい。気が利かなかったわね」
優子さんはセーターを脱いで、コートと一緒に廊下にポイっと投げた。
「いえ、そんな……」
「気を遣わないでいいわ。私がいけなかったのよ」
前から思っていたけど、意思が強そうな、かっこいい女性だ。
私もこんな風に自信を持って振舞うことが出来たら、と憧れてしまう。
「急に来てごめんなさいね。龍二に住所を聞いたわ」
「はぁ」
無意識にお腹に手を当ててしまう。
「つわりはどう?酷いの?」
「……実は……よく分かりません。妊娠を経験した知り合いがあまりいなくて……」
正確には、弟の元奥さんや職場の元同僚とか、出産経験がある人は周りにいたけど、親しい友達ってわけじゃなかったから、詳しい話を聞いたことが無い。
「人に寄るしね。感じ方もそれぞれだから、比べようが無いか」
私の答えになってない答えに、優子さんは自ら答えを出した。
「不躾なこと聞いて申し訳ないのだけど……」
「はぁ」
「学校に退職願いを出されたって本当?」
「はい」
「退職日は?」
「間もなくです。あと2週間くらいでしょうか」
何を心配してくれているのだろうか……「うーん」と腕を組んで優子さんが悩んでおられる。
「龍二の扶養に入るのはどう?」
「はい?」
「心愛さん、こういうのに疎そうだから、老婆心ながら言わせてもらうけどね、在職中ならあなた、かなりの保証が得られたはずよ。だけど、タイミング悪く、それを逃してしまった。出産てね精神的にけっこうくるのよ。せめて、お金の心配だけはしなくて済むように、きちんと手を打っておいた方がいいわ」
あぁ、また私の涙腺が壊れてしまった。
「泣いても何も解決しないわよ。お母さんになるんでしょ?しっかりなさい」
叱られてるのに、すごく嬉しい。
「違うんです」
「なにが違うの?」
「こんなに思っていただいて、感謝の気持ちでいっぱいで……」
「あなた大丈夫?ホルモンのバランスが崩れているのね。また、今度、落ち着いたら話しましょう……」
立ち上がろうとする優子さんを捕まえる。
「違うんです。私、分かってるんです。自分のやらかしちゃった『事の大きさ』知ってます」
「ふぅ」と大きく息を吐き、ティッシュで顔を拭った。
「大学卒業して教師になってから何人もの女性が、出産・育児を理由に休職をしていくのをずっと見てきました。その間は働いて無くても、お給料みたいな保証が貰えるって聞いてたし、一般企業は……正直知りませんけど、でも、公務員は復職はしやすいって言われてるし……私も取らなきゃ損だなって、ずっと前から思ってたんです」
自分用に入れたカフェインレスのお茶を飲む。
「だけど、結婚してもなかなか子どもが出来なくて、最初の5年くらいは頑張ってたんです。後から来た先生が、私を追い抜くように産休を取っていくのが悔しくて。子供部屋があるマンションを夫とローン組んで買って、準備は整ってるのに、なんで妊娠しないんだろうって焦りました」
優子さんは黙って頷きながら、真っ直ぐ私を見ている。
「それで、今これです。だから、分かったんです。制度がどうのとか、取らなきゃ損だとか、体裁ばかり意識した準備なんてして、本当は子どもが欲しいなんて思ってなかったんだって……もちろん、離婚の直後で妊娠がしたいと思っていたわけでもないんですけど……なんて言うのかな……」
「心愛さんの心の準備が整ったのね」
「はい。それです」
***
優子が暗い顔して店に来た。
「心愛になに言ったんだよ」
「別に。出産にはお金がかかるわよって、事実を教えに行っただけよ」
「で?心愛はなんて?」
「恥かいたわ」
「え?」
「あー!ビール頂戴!」
急いでビールを出した。
「勿体ぶらずに聞かせろよ」
「保険がどうとか、お金がどうとか、体裁なんか全く気にしないで、ただ、子どもが出来たことを喜んでいたわ。産む覚悟も育てる覚悟も完璧。自分がどれだけ俗物的な人間か思い知らされて、顔から火が出るかと思ったわ……なに、笑ってんのよ」
「いや、ごめん。心愛らしいなって思ってさ」
だから困ってるんだ。たぶん、俺との結婚は承諾してくれないだろうから。




