第54話 マティーニ
どうしよう……なんて言えばいい……?混乱して言葉が出てこないのに、涙ばかりが溢れてきて……馬鹿みたい……こんなんで、産みたいなんて言っていいのか……育てられっこないよね……こんな、こんな、不甲斐ない母親の元に生まれてくる子が……この子が可哀そう……
龍二が拾ってくれた母子手帳を掴むけど、強く握って返してくれない。同じ手帳を二人で引き合う短い時間。息が詰まる。倒れそう。
「帰らないぞ。ちゃんと話してくれるまで、絶対に帰らない」
そう断言して、龍二は私の鞄から鍵を取り出しドアを開けると、私に中に入るよう促した。
「お邪魔します」
先に靴を脱いで玄関に立った龍二が、私に手を出した。
「入ろう」
靴を脱いで、その手を取った。
すべすべと乾いた細長くて大きな手。安心する。
「気分悪いのか?」
小さく頷く。ずっと吐きそう。
「横になるか?」
首を振る。横になったら、あっという間に眠ってしまう。
「じゃあ」
龍二に手を引かれ、テーブルの椅子に座らされた。
母子手帳とエコー写真を並べ、龍二は隣に座った。
「俺の子だよな?」
「うん」
「……」
リアクションが無くて、背筋が凍る。優子さんとの関係を再構築されている最中に、私が爆弾抱えてやって来たんだもの。嫌われて当然だ。堕ろせと言われたらどうしよう。
「いつ分かったんだ?」
「昨日、検査キットで……今日、病院に行って……」
私の手に水滴が降ってきて、だけど、それが龍二の涙だとはすぐには気が付かなかった。
「産んでくれるんだよな?」
「え?」
「一緒に育てさせてはくれないか?」
「……」
「俺なんて、もう顔も見たくないか?」
「何を言ってるの?」
細い目いっぱいに涙を溜めて、私の手を力いっぱいに握りしめる龍二の表情からは、喜んでいるのか悲しんでいるのか、はたまた怒っているのか、さっぱり分からなかった。
「愛してる」
突然の告白に、全身に鳥肌が立った。
「俺のことを愛せなくても、お腹の子は愛せるはずだろ、な?産んでくれ……」
私が龍二を愛せない?誰がそんなこと言ったの?
「えっと……私も愛してるんだけど……」
「そっか。お腹の子を愛するのは難しいことじゃないよな。心愛は愛情深いし、いい母親になれるはずだ。俺も精一杯サポートするから心配しなくていい」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
鼻水を垂らしている龍二の顔を見たら笑ってしまった。
きょとんとしてる龍二に、ティッシュの箱を差し出す。
「私も龍二を愛してるんだよ」
***
なんでこうなった?
鼻をかみ、目を擦った。
心愛が俺を見て笑っている。
「心愛も俺が好きなのか?」
「そう言ってるでしょ。龍二は……優子さんは……いいの?」
「あ?優子?」
そういやぁ、家の前で放ったらかして来たけど、なぜ今あいつが出てくるんだ?
「やり直したんじゃ……ないの?」
「やり直してないよ。やり直そうって言われたけど、断ったんだ」
「そうなの?」
「当たり前だ。心愛が好きなのに、一緒に居られても……優子に失礼だろ?」
斜め上を行ったり来たりしているクリクリの瞳が可愛らしい。何を考えてるんだ?
「その……だって、さっきだって一緒に……」
「ああ。友弥のアルバム見せろってうるさくて、ああしてたまに押しかけて来るんだよ。運転下手くそなくせになぜか高級車で乗りつけてくるから、パーキングに停められなくていつも呼びつけられんの。どんな女王様なんだよ……ははっ……って、え?なに?笑えない?」
「うん。ちっとも笑えない」
眉間に皺を寄せて、怒ってるのか?
「吐きそう、ごめ……」
心愛はトイレに駆け込んだ。
「背中摩ってやろうか?」
ドアを隔てて廊下から呼びかける。「うえっ」ってなりながら「いい。大丈夫」と返事があった。廊下に座り込み、優子にメッセージを送る。
『心愛がご懐妊だから、今日は仕事休む』
『おお!おめでとう』
2秒で返信が来た。
つわりが酷くてろくに食べてないようだったから、何か作ってやろうと思ったが、冷蔵庫には何も入っていない。買い物にすら行けなかったんだな。
「ちょっと買い物行って来ていいか?」
「うーん。うえっ」
気の毒だが代わってやれない。歩きながらスマホでレシピを探す。つわりの人が食べられるものとは……それにしても嬉しくて手が震える。心愛も俺が好きだって……?
「なんだよ!もっと早く言えよ!」
思わず声に出てしまい、周りを確認する。腹の底から込み上げてくる得体の知れない感情を押さえきれず、俺はその場で思いっきりジャンプをした。




