第53話 マティーニ
くっきりと2本の線が浮き出た白い棒を前に固まっている。
「どうしよう……仕事辞めちゃったのに……」
口にしてから、産むこと前提だった自分に気が付く。
「なんとかなるかな?」
ぺったんこのお腹に話しかけてみたりして……はぁ……溜め息なんてついてごめんね。
とりあえず産婦人科に行かなきゃならない。まだ健康保険がきく今のうちに行ってしまおうと心を決める。
「こちらにご記入ください」
バインダーに挟まれた用紙に記入を進める。妊娠の可能性「YES」、市販の検査キッドで陽性反応「YES」、出産を希望されますか……最後の項目で手が止まる自分が情けない。
ちらっと周りを見回す。明らかにお腹が大きい人は一人だけで、お年寄りや制服を着た学生もいる。町中の婦人科だ。誰もが妊娠して来ているわけでは無いのだろう。
出産を希望されますかに「YES」に丸を付け受付に提出する。
待合室のソファでウトウトしかけていたら、名前を呼ばれた。
「えっと……最後の性交渉は……はいはい。あー、未婚ですね……父親は分かっていますか?」
「はい」
さっきのアンケートを見ながら、カルテに転記をしていく先生。
「オッケー、じゃ、中を覗いてみますんで、下着を脱いで、その椅子座って」
婦人科の検診で受けたことはあるが、あの体勢と何とも言えない恐怖と屈辱感に嫌悪感が走る。
「あー、見えます?この動いているの」
「え?」
「ほら、ここ」
主治医が指さしたモニターの先に、ミジンコみたいなもぞもぞと動く……なにこれ、かわいい。
「まだねー1センチにもなってないけどねー、元気に動いていますよ。あー、今のところ出産希望でいいんだよね?もし気が変わったら、早めに言いに来てくださいね」
「はい……」
「今日はね、このエコー写真持って帰れるようにね……よいっと。うん、うまく撮れた。帰りに受付で貰ってってね。はい、じゃ、おしまーい」
白黒の薄いシート状の写真を頂いた。
とても赤ちゃんとは思えないけれど……
気が付くと、自然と足が龍二の家に向いていた。
母が亡くなった時、一日だけ泊めてもらったことがある。
この子はあの時、既に私の中に命を宿していたことになる。
言うべきか迷う。
今から考えれば、私たちに起きた事なんて、「過ち」のような短い関係だった。
ほんの数回……避妊だってしていたはずなのに……
「心愛さん」
声を掛けられてハッとする。
振り返ると優子さんがいた。
***
「なんで先に行くんだよ……」
優子に言いながら駆け寄ると、心愛と向き合っていた。
「どうしてここに?」
心愛に手を伸ばしたら、ふいっとそっぽを向いて走って行ってしまった。
「追いかけないの?」
「……」
「あなたに用があったから来たんじゃない?」
「いいのか?」
「そんなこと、私に聞かないで、自分で決めなさいよ」
腕を組んで怒ってる先生のような仁王立ちの姿で、優子が言った。
「すまない。入ってて」
家の鍵を優子に渡して、心愛を追った。
心愛は横断歩道の信号機の柱にしがみ付いていた。
「大丈夫か?」
後ろから肩を抱きとめる。
「ちょっと、具合が……」
真っ青になっている。許可を求めず、抱き上げた。くたっと俺の首元に頭を預け、心愛は大人しくなった。
「鍵でるか?」
家に着いて声を掛けたら、心愛がハッとしたように姿勢を伸ばすから、危うく落っことしそうになった。
「危ないから、じっとしてて」
力を込めて抱き寄せる。
「ごめん」
そう言って、抱えている小さな鞄から鍵を取り出そうとしたのだろう。手元が狂ったようで、鞄をどさっと下に落とした。
「あっ」
心愛が俺の腕から飛び降り、鞄を拾い上げた。
咄嗟に手を掴む。
「今の何だよ!」
見えた。あの小さい手帳が。友弥の予防接種の度にシールだのハンコだのを集めていったあの、ノートみたいなやつだ。
「……」
何も言わない心愛から鞄をひったくる。
母子手帳と一緒に、胎児のエコー写真を見つけた。
「いるのか?」
「……」
「お腹に?」
「……」
なぜ何も言わないんだ。
「俺の子か?」
疑っているわけではないが、優子は俺との交際中に、別の男の子を妊娠した。心愛は?
「言えないのか?」
黙って俯き、ぽたぽたと涙を零している。
「言いたくないのか?」
たとえ罵られたとしても、何か言ってくれた方がマシだ。
「頼む。教えてくれ」
肩をぎゅっと掴んで、力が入り過ぎたと思い、緩める。
「ご……めんな……さい」
なぜ謝るんだ?産む気が無いと言うのか?また俺に求められることが中絶の同意書だったら、俺はもう一生立ち直れる気がしない。




