第51話 マティーニ
退職の意向を告げ、辞表を提出し、忌引きからの有給休暇の取得と、学校に行かない日が続いていた。気分的に行きたくないのは本当だったけど、それだけじゃなくて、体調がよくなかった。母がいなくなり、正太といい加減な食生活を送っていたツケが回ってきたらしい。熱はないが身体が怠い。眠っても眠っても眠い。
11時にスーパーに買い出しに行く。
「心愛ちゃん、最近、めっきり見かけないわね」
朝、通勤途中で挨拶をしてくれる同級生のお母様だ。
「すみません。仕事を休んでいて。先日、母が亡くなりまして……」
「まあ!いつ?」
しまった。ご近所へのご挨拶、してなかった……
「もうすぐ、四十九日です」
いけない、いけない。自分の事でいっぱいいっぱいで、周りが見えていなかった。
さすがに龍二に報告も行かなくてはと思う。もう、私なんかに興味はないだろうけど、母の生前、あれほどお世話になっておきながら、それっきりはないよね。大人として。
久しぶりの夜の外出は緊張した。
もうすっかり秋で、最後にTITANICに行ったときは、まだ暑かった事を思い出す。
そろっと扉を押す。
「いらっしゃい……」
龍二と目が合って、足が動かなくなった。
「……ま……せ……」
「こんばんは」
普通に言ったつもりなのに、蚊の鳴くような声しか出てこなかった。
「こちらにどうぞ」
中田さんがカウンターの真ん中の席に案内してくれる。でも、そこは、優子さんの席じゃ……躊躇う私に、龍二が手を差し向けてくれる。言われた席に着いた。
「久しぶりだね」
「はい。あんなに良くして頂いたのに、ご挨拶が遅れてすみません。その節は、大変お世話になりました」
座ったままで恐縮だけど、頭を深々と下げた。
「俺はなにも」
「もうすぐ四十九日になります。当面は、それで法事が落ち着く……」
中田さんの「いらっしゃいませ」という挨拶に遮られ、龍二の視線が私の頭の向こうに引っ張られた。私もつられて振り返る。優子さん……
「あら、心愛さん、いらっしゃい」
優子さんが私の隣に座った。
「私、正式にここのオーナーになったのよ。この前はごめんなさいね。出入りを禁止するなんて言って。あれは取り消させてね。これからも引き続きご愛顧くださいませ」
笑顔で言われた。
勝ち誇った笑顔で。
逃げ出したいと思った。
***
優子が話していたら、心愛が目を瞑り、椅子から転げ落ちそうになった。
慌てて中田君が駆け寄り、支える。
「どうしましたか?心愛さん!」
中田君の呼びかけに応じない。俺もカウンターから回って、心愛に近付く。
「……あ」
目を覚ましたが、虚ろだ。
「すみません。ちょっと眩暈が。最近、あまり体調がよくなくて……」
「送って行きます」
奥の部屋に上着だけ取りに行き、羽織って、心愛に手を差し出す。
「大丈夫です」
出した手を引っ込めて、優子と中田君に目配せをする。
「ちょっと送ってくる」
二人とも固い顔をしてはいたが、大きく頷いてくれた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「そんなこといいんですよ」
仕事からはもう解放されたのだろうか?こんなにふらふらになるまで、どんな働き方をさせられているんだろうか?そもそもちゃんとメシ食ってるのか?聞きたいことがわんさか出てくるが、どういうわけか声にならない。
「ここまでで大丈夫です」
もうすぐそこだから、家まで送らせて欲しいと、言おうと思った、ちょうどその時……
「どうしたの?」
コンビニの買い物袋を持った男性が声を掛けてきた。
「なんでもない」
心愛が慌てている。
「んじゃ、中入ろーぜ」
そう言って、心愛の背中に手を当て、二人は家の中に消えていった。
賑わう店に戻り、急いで上着を脱ぐ。
「大丈夫だったの?あの子」
「ああ」
本当の意味で大丈夫そうだ。なんてたって親切にしてくれている男がいるんだもんな。俺は心愛のことを考えないようにしてきたが、心愛もまた、俺のことを考えていなかったという事実に無性に腹が立った。自分勝手なクソ野郎の自分を殴ってやりたい。
「マスター、オーダーです」
メモを見ながら、ジントニック、ウィスキーのシングル、チーズの盛り合わせを用意する。氷を削り、グラスを磨き、オーダーが入ったギムレット、カシスソーダを作る。シェイカーを洗い、目の前の道具を一旦片付ける。また氷を削り、グラスを磨き、オーダーが入ったマティーニを作り、ウィスキーのソーダ割り、ジントニック……
なにも考えたくなかった。とにかく手を動かしていたい。
くそっ
なんだ
あいつ
胸やけがして、吐きそうだった。
「大丈夫?」
優子が心配そうに見ている。
「ああ」
ちっとも……大丈夫じゃない。




