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第5話 モヒート

 また一杯だけで帰って来てしまった。大したお金を払わない、厄介な客だろうとは自覚してるが、そんなにお酒を飲めるわけではないので仕方がない。それでも、日中に感じたストレスを忘れる為、ほんの一時でいい、日常から離れる空間に逃げ込みたかった。


 夜風が気持ちよく体を撫でる。「送って行きましょうか」と何度も聞いてくださった龍二さんの顔を思い出す。すぐ近くだし、お仕事を中断させてしまうなんてできないからお断りしたけど、とても嬉しかった。思わず甘えてしまいそうになった自分を恥ずかしく思う。


 狭い一軒家。階段を使えなくなった母が1階で寝起きしている。静かにドアを締め、2階に上がる。


「ふぅ」


 幼少の時から使っていた私の部屋は、まるで時が止まったままのようだ。私も母も歳を取っていくのに、この空間はその流れたはずの時間を瞬時に捲き戻してしまう。


 眠れそうにないから、夏休みに生徒に出す宿題の計画を練り直す。2学期からは夜にヘルパーさんをお願いできるか確認をしなくてはならない。そろそろ夏服も出さなくちゃ。


 これ以上、龍二さんのことを考えてはダメ……現実逃避をする為に、山積みになっている現実の問題を片付けてゆく。何て虚しい時間の使い方なんだろうと辟易してくる。


「ここちゃん、御夕飯まだかしら」


 階段の下から声がした。母は早起きだ。まだ、3時過ぎ。これを朝と呼ぶのか、夜と呼ぶのかは人に寄るだろう。1階に降りる。


「さっき食べたから、もう寝ましょう」

「でも、お腹が空いたわ」


 母をキッチンへ連れて行き、冷蔵庫からゼリーを出す。シールを剥がして、スプーンと共にテーブルに置く。


「これはおやつでしょう?」

「御夕飯はもう食べたから、デザートって事で、どう?」

「デザート!いいわね」


 機嫌を直してくれたようでほっとする。


「はぁ、お腹がいっぱいになったら眠くなってきたわ」

「横になったら?」

「そうさせてもらうわね」


 良かった。あと数時間は寝て欲しい。




 ***




 本当に一人で帰してよかったのかと後悔が渦巻く。せめて連絡先を聞いておけばよかった。「家についたら一報ください」って言うくらいは許されただろう。


 最後の客が帰り、閉店の準備を始める。ここで雇われの店長を始めて10年になる。多くの女性客が来たが、帰宅後の客がこんなに気になるのは初めてだ。


「店長、こっち終了です」

「はい、ありがとう。上がっていいよ」

「疲れさまでした。お先に失礼します」

「はい。また明日、よろしく」


 20代になったばかりのバイトスタッフの中田君は、昼は大学生だ。彼と話していると、息子の事を思い出す。最近、連絡が無いが元気にやっているのだろうかと気になる。が、こちらから連絡をしたりはしない。もう子どもじゃないんだ。俺がその歳には、もうお前はその辺を走り回って、よく分からないことをしゃべっていた。


 俺が大学受験を目指して勉強してた年に、当時の彼女を妊娠させてしまった。当然、進学は諦めることになり、日雇いでできる仕事を始めた。


「育てられる気がしない、産みたくない」そう言った彼女に何度も頭を下げて、産んでくれと頼み込んだ。根負けして産んではくれたが、息子が乳離れする頃には、彼女も俺から離れて行った。


 俺は今年で40歳だ。人生で言うと折り返し地点なのだろう。だが、ゴールがどこなのか分からず、目標がないままに走って来てしまったので、ずっと迷子のような気分だ。


「情けない」


 心愛さんは俺とは正反対な人だろう、と想像する。言葉少なに、カクテルを飲みながら、この空間を楽しんでくれていた様子を思い出す。『公私ともにいいことなくて』なんて言っていたが、また話を聞かせに来てくれるだろうか。


 シャッターを降ろし、鍵を締め、帰路につく。

 歩きながら心愛さんの事を考える。若そうだが、20代ではないだろう。30代の半ばといったところだろうか。仕事柄、他人の年齢を当てるのは得意だ。指輪はしていなかったが、色気のない短い爪から既婚者である可能性は高いだろうと推測する。こんな時間に飲みに来るんだから、子どもはいないだろうな。


「何を悩んでいるんだろうか」


 彼女の事がもっと知りたい。もちろん客として、だけじゃないな……いい歳して、女のことで頭がいっぱいになるなんてみっともない。


 ワンルームのマンションに帰宅した。シャワーを浴び、パスタを茹でる。寝る前に少し腹に入れておきたい。




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