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あなたがいい  作者: あおあん


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第49話 マティーニ

 頭の中に砂袋でも詰め込まれたみたい。目の奥がズキズキして、一度開けた目をまた閉じる。お母さん……ついさっきの出来事が何度もフラッシュバックして、考えたく無いのに、あの光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。


「心愛」


 優しく背中を摩られる。


「朝なんだけど……職場に連絡しなくて平気か……?」

「あ……」


 分厚い遮光カーテンのようだ。カーテンレールのほんの少しの隙間から日差しが僅かにこぼれていた。


「ありがとう」


 昨日の朝、辞表を提出した。

 引継ぎは期間を設けて教頭先生と行う約束をしたが、龍二から電話があり早退させてもらった。


「原です……母が亡くなりまして、しばらく伺えません」


 昨日、私がバタバタと早退したことを知っている先生がお悔やみを言ってくれてた。電話に出たのが教頭先生や副校長先生じゃなくてよかった……


「仕事辞めることにしたの」

「えっ?」

「ここんとこ……離婚してから学校行くの辛くて……校長室で『辞めます』って啖呵切って……昨日、辞表を出したから、これから……ずっと……お母さんと一緒に……い……て……あげ……」


 一体全体、私の頭のどこに、これ程の水分を溜めておく場所があったのだろうと思うほど、ぼたぼたと涙が溢れてくる。


 龍二が何も言わず背中を摩り、反対の手で私の手を握ってくれる。


「ごめんなさい。昨日……お仕事……」

「俺のことは気にしなくていい」

「母のこと……見つけてくれてありがとう……どんな……」


 最期だったのか、と言いかけて言葉に詰まった。


「そうだよな。伝えておかなくちゃな」


 龍二さんは少し間を置いてから、こう言った。


「不快に思ったら、ごめん。でも、幸せな最期だったんじゃないかな。居間で、いつも座っているところで、時代劇を見ていた」

「……ぅう……っう……」

「そのまま座って眠ってるのかと思ったくらいだ。顔は、病院で見た通り、苦痛に満ちた風では無かっただろう?」

「う……っん……」


 昨夜の夕飯を思い出す。母と共同制作をしたワカメのみそ汁に、龍二さんが作ってくれた鶏の照り焼きとポテトサラダ。母は、マヨネーズを照り焼きにかけて、美味しそうに頬張っていた。


「ちゃん……と、はな……せ……て、よかった……ああああぁ……ああああぁ……」


 大きな声で泣いた。




 ***




 俺も同じ思いだった。

 タエ子さんとの最後に交わした会話はいつも通りで、俺の事を『先生』と呼んでくれていた。

 確信を持って言えるが、俺が先生じゃないことをタエ子さんは分かっていたと思う。病気の相談など一度だってされたことは無かったからな。


「葬儀は身内だけで行いたいの」


 そう言われ、俺は部外者なのだと言われたことを痛感する。


「そうか。何か手伝えることは?」


 心愛はゆっくりと首を横に振った。


「家まで送るよ」

「だいじょう……ごめん。やっぱりお願いできる?」


 断られなくてよかった。


 ふらふらと歩く心愛が今にも倒れそうで、俺は常に心愛の背中の30cm後ろに腕を広げて歩いた。


「どうもありがとう」

「じゃ……」


 家の前で別れる。


「あ、そうだ。鍵……」


 知れっと持ったままにしておきたがったが、心愛から指摘されてしまった。


「そうだったな」


 仕方なくキーケースからひとつ鍵を外し、心愛の広げた手の平に乗せた。


「今までありがとうね。毎日、母がどれだけ楽しみにしていたか……」

「俺も楽しみだったよ」


 そう言い残して背中を向けた。




 葬儀に参列できず、心愛も店に来なくなって、2週間ほど経った。


「龍二、ソファを買い換えたいんだけど、買い物に付き合ってくれない?」

「月曜でいいか?」


 優子と自然と会話が出来るようになっていた。


「老舗の家具屋に行きたいんだけど、駅から遠いから車出してくれない?」

「持ってないよ、車なんて」

「私のを運転してってことよ」

「ああ。いいよ」


 心愛はどうしてるかな……と思いそうになる度に、俺は別の事を考え、心愛から意識を反らした。そうだ。俺は考えないようにするのが得意だ。優子の時も、こうして乗り越えたんだ。『どうして俺を捨てたんだ。友弥を置いて行ったんだ』そうした思考が浮かぶ度に、今日の献立や、明日の仕事のことに頭を切り替えてきた。


 結果として、それは問題を直視しなかった『つけ』となって、今があるわけだが……性懲りもなくこうしてまた、心愛への気持ちに向き合えない俺は、クソ弱虫だな。


「ねぇ、家具見た帰りに食事でもどう?」

「ああ」

「よかった。じゃあ、レストランを予約しておくわね」

「ああ」


 自分が何をしゃべっているのかも分からないほどに、俺はカクテルのレシピを思い返しながら無心でグラスを磨いていた。




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