第48話 マティーニ
夕方、龍二からメッセージが届いた。
『昨日は気が付いたのが遅くて……ごめん。タエ子さんが作ってくれたみそ汁があるから、一緒に食べるといい。夕飯は鶏の照り焼きだ』
母の調子が戻ったという事なのだろうか。自然と速足になった。
『ありがとうございました。美味しくいただきます』
もう、家に来てと誘う勇気は残っていない。明日、退職届を出したら、もう有給休暇を取らせていただこう。辞めるんだもの。体調不良を理由に休んでも、そのことで嫌味を言われることに恐縮する必要はない。日本には職業選択の自由がある、万歳。
自分を励ましながら、力ない足取りで家につくと、甘辛い良い匂いが充満していた。
「お母さん、ただいま」
「あら、ここちゃん、お帰りなさい。早いのね」
「そうでもないけど?」
「これね、先生からの伝言よ」
冷蔵庫にチラシの裏を使った手紙が貼ってあった。
なぜこんなてっぺんに貼ってあるのだろうと不思議に思う。
『ガスコンロにストッパーを付けました。解除方法をタエ子さんに知られませんように』
なるほど。母に読まれたくないから、手の届かないところに貼ったのか。
「なんて書いてあるの?」
覗き込まれてさっと隠す。
「あらやだ、ここちゃんったら、先生との秘密?」
嬉しそうに人差指を口に当てている。
「そう。内緒」
「焼けちゃうわね」
お茶目な母に戻って良かった。
コンロに大量のワカメがふやけている鍋があった。
「これ……」
「豆腐とワカメのお味噌汁よ」
「豆腐はどこ?」
「あら、ほんと。ワカメスープだったかしら?」
きっと残ってた乾燥ワカメを全部入れてしまったのだろう。
お玉の身動きが取れないくらい膨らんでいるので、半分を別の鍋に移した。目の前にある半分になった『ワカメスープ』に水と豆腐を足し、みそ汁として復活させた。よし、これだけあれば明日の朝も作らなくてオッケー。
「さぁ、夕飯にしよう!」
***
『ありがとうございました。美味しくいただきます』
よそよそしい言葉使いのメッセージに、頭を殴られた気になる。
「ねぇ、あの人、心愛さん、今日も来るの?」
優子が俺の手元を気にしている。
「どうだろう」
きっと来ないと分かっているが、それを正直にいう必要はないだろう。
「ねぇ、次の月曜、どこか行かない?」
定休日を狙い撃ちしてくるところが、『らしい』な。
「悪いけど、予定が入ってるんだ」
「嘘でしょ」
「本当だ。行くところがある」
優子が「ふぅ~ん」と言いながら訝し気に見ている。電源を切ったスマホが震え、心愛のメッセージが画面に映った。タップする。
『今までありがとうございました。母の世話は明日で最後にしていただいて大丈夫です』
突然の解雇通告に息が止まった。
「どうしたの?」
「いや……」
何があったのだろう。施設に入ることが決まったのか?
『分かりました。今度、話を聞かせてください』
そう打って返信した。
翌朝10時。
ピンポーン
今日もタエ子さんのお出迎えはない。
寝てるのかな、と思い合鍵を使って入る。
この鍵ももう返さなくてはならないだろう。
居間からいつもの時代劇の声が聞こえてくる。
「こんにちは」
いつものテレビの前で、かくんと項垂れている。
「寒くないですか?」
そう言いながら近付いて、僅かにゾクッとした。
「タエ子さん?」呼びかけながら覗き込むと、タエ子さんは少し目を開けたまま固まっていた。
慌てて首筋と手首に触れ脈を確認する。顔を近付け呼吸の確認、胸に手を当て、心拍の……停止を……確認した……
落ち着け。どうしたらいい?どうすべきだ?ぐるぐると頭の中を何かが駆け巡る。
そ、そうだ!110番?あれ?119番?あれ?
震える手で119に電話をした。
「はい。消防署です。火事ですか?救急ですか?」
「救急です!人が倒れていて、息をしていない、ようです!」
俺は電話口の人の指示通り、両手を重ね、胸に垂直に押し当てて心臓マッサージを繰り返した。間もなくけたたましいサイレンを鳴らした救急車が到着した。
俺は大慌てなのに、対応してくれた人は皆、流れ作業の一貫のような感じで、「もっと真剣に対応してください!」と思わず叫び出しそうになった。
タエ子さんの息を確認した救急隊員は「一旦病院に運びます」と言った。 「一旦」って何なんだよ!そう思いながら、俺は付き添った。
病院から心愛さんに電話する。が、応答はない。そうだよな。授業中だもんな。
とりあえずメッセージを送る。『すぐに電話くれ』
病院で、タエ子さんの様子を聞こうと何度も受付に行ったが、「ご家族ではないんですよね?」の一点張りで何も教えてもらえなかった。
心愛さんからの着信。
「もしもし?龍二?どうしたの?慌てて……」
「タエ子さんが倒れた……ってか、息が無かったんだ……」
無音になった電話に不安になる。
「心愛?」
「あ、うん。聞いてる。今すぐ行くから。どこの病院?」
心愛の隣で医者の話を聞いている。
俺は婚約中のフィアンセという設定だ。でなければ、ただの部外者で、部屋に入れてさえもらえない。
既に息を引き取っていたタエ子さんは、変死などの可能性もなく、程なく死亡診断書が発行された。
ぼんやりと魂が抜けたように見える心愛の肩を抱いて病院を出る。
俺は今日は店に行けない旨を中田君に連絡した。
「大丈夫か?」
「ええ」
俺の知っている心愛より、2割くらい萎んでしまったようだ。
「家に帰ろう」
そう言って、タクシーを捕まえた。
「できれば……」
「ん?」
「家には……帰りたくないかも……」
「一緒にいてやるよ?」
「でも……」
「分かった。俺んちに行こう」
心愛は家に着くなり、「ごめんなさい」と言って、俺のベッドに横たわり、眠った。
本当に眠ったかどうかは分からない。目から静かに涙が流れ出て、枕もとを濡らしていた。
俺はずっと、心愛の背中を撫でていた。




