第47話 マティーニ
龍二と優子さんの間に何かある。それは以前から存在していたことかも知れないけど、表面化したのはごく最近……ひとつ、運命をかけた『賭け』をしてみる。
もし今夜、龍二が来てくれたら、私の感じている違和感は私の気のせい。私たちは優子さんという障害を越えてゆける。
もし今夜、龍二が来なかったら、その時は私の賭けは負け。龍二は元妻、優子さんと元鞘に収まってしまったということ。
勝率を上げるため、小賢しい手を繰り出す。
『遅くなってもいいから来て欲しい。会いたい』
精一杯の気持ちを込めた私のメッセージ。きっと届くよね。
スマホの音で目が覚める。
いつもと同じ起床の時間。
メッセージの着信は無し。
私は賭けに負けたみたい……
惨めな気持ちで身支度を整え、朝食は喉を通らないので、牛乳をコップに一杯飲む。
起きてこない母を起こしに行く。
「お母さん、私、もう行かなくちゃならないから」
ノックして部屋に入る。息をしていることにほっとする。
「ねえ、私、行ってくるね」
身体をゆすると「ん~」と眠そうな返事があった。
鍵をかけて出勤する。龍二には合鍵を渡してある。
昨日のメッセージは既読になっていた。渾身の思いを乗せたメッセージはスルーされてしまったということだ。駅までの通勤路が長く感じる。モノクロでスローモーションになったように、つまらなくて怠い。
「ばらせんせーい、おはようございまーす」
挨拶に名前を付けてくれたことなんてこれまで無かったのに、離婚してからはこの通りだ。
「おはようございます」
心を殺して無視を決め込む。そうでもしないと、もう、立っていることも出来なさそうだもの。
「原先生、ちょっと……」
教頭先生に呼ばれていい話だったとこは一度もない。
「なんでしょうか」
また校長室に引きずり込まれる。
「PTA役員の田丸さん、あなたのクラスの生徒の保護者ですが」
「はい」
「家庭の平和を守れない先生に、クラスの平和は守れないのでは、とお電話を頂きまして」
まさか、そんな馬鹿げた主張を真に受けてるんですか?そういった新鮮な驚きがあった。
「それで、私にどうしろと?」
「教頭先生に副担任として付いていただくことになりました」
「はあ」
「進路相談や保護者面談は教頭先生にお任せしますので、引継ぎをお願いします」
ぷつん
私を繋ぎとめていた何かが切れる音がした。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。この引継ぎが終わりましたら退職させていただきたく存じます。明日、辞表を提出します」
「さかき……は、原先生!何もそんな極端な結論を出さなくても」
「いえ。以前より考えていたことです。教頭先生がクラスを受け持って頂けるのであれば生徒たちも安心でしょうし。失礼します」
ふらふらと教室に向かう。
心臓が縮みあがり、手足の末端まで血液が送られていないような気がした。しびれるような感覚は感情にも影響しているのだろうか。何も考えられないまま、授業を始めた。
***
心愛からのメールに気が付かなかったわけではない。無視しようと思ったわけではないが……これは、結果的に無視したのだから、言い訳にならないか。
心愛の家の前までは行ったが、おめおめと逃げ帰ったんだ。
合わせる顔がない、かける言葉がない、そのどちらも違う。
心愛と優子を天秤にかけている自分が嫌で嫌でたまらない。
もちろん心愛が好きだ。助けになりたいし、一緒に居たい。
だが、優子は、俺のせいで不幸になった可哀想な女なんだぞ?
彼女の願いを聞き入れるのは、俺の当然の役目だと思えた。
心愛に全てを打ち明けることができない以上、彼女は俺の行動を理不尽だと思うだろう。
もういっそのこと、俺のことなんて見限って、他にいい男を探した方がいい。
夜じゅう、そんな事を考えていたら、朝になっていた。
寝てないが、眠くもないので、タエ子さんに会いに来た。
タエ子さんに出迎えて欲しくて、俺はいつもチャイムを鳴らす。
「?」
預かっている合鍵で玄関扉を開錠する。
「タエ子さん?こんにちはー」
靴を脱いで居間を覗くが誰もいない。
滅多に入らないが、タエ子さんの寝室へ向かう。
「タエ子さん、起きてますか?」
返事がないので、そっとドアを開ける。
「失礼します」
寝息を立てて眠っている姿に一安心する。
心愛さんに連絡すべきかと悩むが、もう少し待とうと決めた。
その場で横になり、俺も少し眠らせてもらうことにした。もうクタクタだ。
はっと目を覚ましたら、タエ子さんがいなかった。
俺に掛けてあった毛布を剥いで、居間に向かう。
「あら、先生、お目覚めですか?」
俺のエプロンを着け台所に立つタエ子さんの姿に、泣きそうになってしまった。
「先生?お疲れですね。私、お味噌汁を作ってみましたのよ」
豆腐とわかめの比率が異様におかしい、膨れたワカメだらけの鍋をかき混ぜている。
「ありがとうございます。美味しそうですね」
ガスコンロを触らせたくは無かったので、これを教訓にストッパーを付けようと心に誓う。
心愛がタイマーを入れてくれていた炊飯器で、ちょうど白飯が炊けた。
「アジでも焼きましょう」
俺は冷凍庫からアジの開きを出した。




