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あなたがいい  作者: あおあん


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第45話 シティーコーラル

 学校は私の中の日常であって、そのどれも、嫌な事も含めて当然のこととして受け止めてきたつもり。だけど、にわかに「限界」という言葉の意味を知りつつある。


「ばらせんせーい、『じゆう』ってなんですかー?」


 イントネーションから『自由』では無いことは分かる。


「どの『じゆう』ですか?」

「りこんじゆうの『じゆう』です」


 その単語の意味そのものを聞かれているのか、私個人の離婚事由を聞かれているのか戸惑う。が、今時、検索すれば言葉の意味など調べるのは容易い。後者だろうなと、いくら鈍い私でも気付く。


「質問の意味が分かりません」

「えー。せんせーって、国語苦手なんですね」


 ケラケラと笑っている生徒に、冷たい視線を浴びせる。

 生徒から先生へのハラスメントは何と呼ぶのだろうか。

 もちろん答えることはしないし、ムキになって大きな声を出すとかも論外だ。

 ここは私がいるべき場所なのか……さすがに「辞める」ことを意識した瞬間だった。


「榊……いや、失礼しました……原先生、今日のバレー部の練習見てあげてくれませんか?私は今日ちょっと、残れないので……」

「分かりました。いつも見ていただいてありがとうございます。今日は、私が残ります」


 以前は朝から一人きりにしている母が気になって仕方がなかったが、今は16時まで龍二が居てくれる。少し遅くなりそうな旨、メッセージを送った。


『了解。夕飯の下ごしらえは済ませてあるから、気を付けて帰っておいで』


 優しい返信がすぐにあった。『今夜も店に行っていい?』そう聞きたいけど、スマホを持つ手が動かない。出禁とか優子さんがいるかどうかとか、気になることはあるけど、龍二が社交辞令で『待ってる』と答えるんじゃないかという気がして……ぎゅっとスマホを握り、電源を切ってポケットに入れた。




 ***




「タエ子さん、今日は心愛さんが少し遅くなるようです」

「はい、分かりました」

「夕飯は心愛さんと一緒に食べてください。それまで待っててくださいね」

「はい、分かりました」


 今日のタエ子さんは別人のようによそよそしい。俺が誰だか分かってないんだろうな。一度も『先生』と呼ばれない。


「俺、そろそろ行かなくちゃなんで、絶対に外に行かないでくださいね」


 タエ子さんのほっとした様子を見て、見知らぬ他人が家にいることはよっぽど不安だったに違いないだろうと、申し訳なく思う。


「お邪魔しました。また明日」


 そう言って家を出た。いつもなら、今日の時代劇は面白かっただとか、明日は何が食べたいとか、そうした会話ができるのに……あまり、こうした症状を見たことが無かったので、正直、精神的に辛かった。





 ウィスキーのオンザロック用の丸氷を成形する。俺のやり方はピック一本で、大きい氷を球体に削りだしていく。製氷機で作ったものよりも、表面には若干の凸凹が残るが、それがウィスキーを被ると、まるでグラスの中でミラーボールが回り出すかのように輝く。その様子がたまらなく好きだ。


「龍二君、いつもの頼むね」


 常連客の一人がやって来た。早速、削りだした氷にキープされているボトルからウィスキーをダブルで注ぐ。


「あぁ、たまらない」


 ため息交じりに嬉しい感想を零してもらった。


「仕事帰りに、家に帰る前のこのひと時が私にとっては重要でね」


 にっこりと笑って頷く。


「今日はべっぴんさんは来ないのかな?」


 心愛か優子か……どちらのことだろう、と思いつつ「どうでしょう」と返す。口元が緩んでいた自覚はあるが、営業スマイルと受け取ってもらえると有難い。


「龍二君はここに来て何年になる?」

「10年です」

「その前はどこに?」

「別の業界です。たまたま知り合ったオーナーに拾って頂き、ここに来ました」

「そうか。縁は大事にした方がいい」

「はい」


 静かに扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 優子だ。


「お、ほら、べっぴんさがいらした」


 頬をピンク色に染めた初老のオジサンが可愛く見えた。


「よかったら一緒にどうですか?」

「ええ。喜んで」


 カウンターの端の常連の隣に優子が腰掛ける。


「ウィスキーですか?」

「はい。良ければ一杯ご馳走しますよ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 ウィスキーのダブルを優子に出す。

 爪の先でグラスの氷を弾くと、クルクルと踊り出した。

 カランカランと、澄んだ鳥のさえずりのような音が響いた。


「お仕事は何を?」

「人材派遣会社を経営していましたの。つい最近、売ってしまいましたけど」

「社長ですか?」

「はい。まあ。もう20年ほど……女性が子育てをしながら働ける環境を作りたくて」

「ご自身の為かな?」

「いいえ。私は……」


 ちらっと感じた視線を無視する。


「失礼。立ち入ったことを聞いて申し訳なかった」

「そんな。ただ、私自身、そう言った機会には縁が無かったものですから。せめて同じ女性として、子育てと仕事の両立がしやすくなればと……」

「そうか!思い出したぞ!どこかで見たことがあると思った!」


 常連客は俺でも聞いたことがある、業界大手の派遣会社の名前を出した。


「すごいやり手の女性社長で有名な方だ!」

「残念ながら上場させることは出来ませんでした」


 ぺろっと舌を出して、自分を茶化す優子。

 それは彼女の、昔から変わらない照れ隠しだった。




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