第40話 チャイナブルー
あぁ……胃が縮みあがる。職員室のドアを開け、教頭先生に近付く。
「おはようございます。お話したいことがあるんですが」
「榊原先生、おはようございます。何でしょう?」
目と手はデスクにあるペーパー類から離さず、言葉だけで応じられる。
「一昨日、離婚届を出しましたので、原と呼んでください」
「は、ははあああぁぁぁ?!?!!」
素っ頓狂な大声を出したので、その場にいた先生が皆こちらを見た。
「ちょ、ちょっと、こちらへっ!」
手を引っ張られて、校長室にノックして入る。
「どうしましたか?」
校長先生はいつも同じ顔をしている。心の底から怒ったこととか、喜んだこととかあるのだろうか。
「榊原先生から、離婚をされたと報告を受けまして……」
「そうですか。人生いろいろですよね」
「はぁ……」
気まずい空気に窒息しそうだ。
「ですがね、榊原先生」
「原です。原先生と呼んでください」
「あのですね。先生の不始末が生徒の生活に影響があってはならないんですよ」
語気は強いが、いつものお面フェイスままだ。校長先生はこの『うすら笑いの面』が張り付いてしまったのだろう。気の毒にすら感じてくる。
「私の人間性が至らなかったという点は認めます。ですが、婚姻生活を終わらせることは個人の決断であって、『不始末』と言われるのは心外です」
「多感な時期の生徒には先生の私生活など関係のないことです。先生の苗字が変わるなんてこと、思春期の子どもたちにどんな影響を与えるか分かりません。いえ、良い影響などあるはずないのですから間違いなく悪影響です」
「何が起こるか分からない……人生の本質を教えてもいい歳頃じゃないですか?」
「はぁ。ああ言えばこう言う」
教頭先生がぼそっと言って、私を凝視している。
「お手続きに関してはお手数をおかけします。ですが、受け持っているクラスには自分で説明しますので、他の先生方にはご迷惑をおかけしないはずですが」
「旧姓で働いていただくわけには行きませんか?」
「すみません。できません」
校長先生の言いたいことも分かる。私とは違うお立場におられることも。だけど、これは『人』として私の尊厳がかかっている問題だ。妥協はできない。
一礼をして部屋を出た。
教室に入るなり、一瞬静まり、挨拶が始まる。いつも通りの流れの中に、どうやって私事をねじ込もうか考える。
「授業を始める前に、お話があります」
クラスが静まり返る。
「先生は、榊原先生から、原先生に戻りましたので、今日からは原先生と呼んでください」
ざわついてはいるが、言葉にはならないようで、ただ隣の生徒と「えー」とか「まじで」とか目配せをし合っている。
「さ、先生からのお話は以上です。皆は授業に集中してくださいね」
***
週末は最高だった。土日、夜は仕事に行ったが、昼間は心愛さんと一緒に過ごすことができた。テレビを見ているタエ子さんを横目に洗濯機を回す。俺んちには無い庭で洗濯物を干す。
「お昼ご飯は、何がいいですか?」
「ハンバーガーが食べたいわ」
「ハンバーガー?」
デリバリーを思い浮かべたが、外に食べに行くのもいいかと思い直した。
「食べに行きましょうか?」
ぱぁっとタエ子さんの顔が輝いた。
「私、照り焼きが大好きなのよ。ポテトも付けるわ。いいわよね?」
「もちろんですよ」
まだ昼飯には早かったが、混む前に行くというのもありかも知れない。
パジャマのまま行こうとするタエ子さんに着替えを促し、手を繋いで歩いた。
あまり外出する機会もないのだろう。弱々しい足取りで、俺にしがみ付いて歩いている。
店内についたら席を取って座って待たせてあげたがったが、一人には出来ない。迷子になられたら、心愛さんに合わせる顔がない。順番が来て、カウンターで注文を始める際、タエ子さんが言った。
「お持ち帰りにさせてね」
「そうなんですか?」
「ええ。いつも食べるところは決めているの」
そうなのか。大きな袋をぶら下げて、家の方に向かって歩く。家で食べたかったのかな?
「こっちよ」
家を過ぎた通りを一本右に曲がった。
「もうすぐよ」
小さな公園があった。ベンチを囲むように金木犀が咲き乱れている。
「ああ、いい香り」
甘く強い香りが充満する中、それに負けないくらいのいい匂いを撒き散らして二人でハンバーガーを食べた。
「先生、ここちゃんのこと、よろしく頼みます」
「タエ子さん?」
「ここちゃんは頑張り屋さんで、いい子なのよ」
「知ってます」
「でもね、誰に似たんだか、不器用でね、貧乏くじを引きやすいの」
「そうですか。俺もです」
「似た者同士は上手くいくと思うの」
「だといいです」
チェーン店のファストフードのハンバーガーがこんなに旨くなってるなんて知らなかった。俺はパテとチーズが倍入っているという分厚いバーガーを頬張りながら「ビールが飲みてぇな」なんて思ってしまった。




