第39話 チャイナブルー
「ところで、今日はどうして?」
「あ、えっと、タエ子さんにオムライスを作ると約束してたんだ。昨日は、つい、今日が土曜日だっていうのを忘れてて、ほら、俺は休日の感覚がずれてるって言うか、週末とか忘れちゃうことがあって、仕事柄なんだろうな……て、は?……なんで、笑ってるんですか?」
「なんでって……ふふふ」
私に会いに来てくれたって思ってもいいのかな。慌てふためきながら、息継ぎも忘れてしゃべっている龍二さんにドキドキが止まらない。
「先生!」
母が出てきた。
「さあ、入ってちょうだい」
母は弁護士との会話をどこまで理解していたのだろう。居間の畳みに座って、ワイドショーを見ていたようだ。いつもなら「つまらない」と言って時代劇を探すのに。
「お母さん、あのね私……」
「ここちゃん、お母さんはお母さん。ここちゃんはここちゃんよ」
やっぱり分かってたんだ。父の浮気を見て見ぬふりをして、長年、裏切りを許し続けてきた、この心の強い立派な女性に改めて敬服する。母は、泣き寝入りをしていたわけではないと思う。受け入れようと決心を固めたのだと、私と違う選択肢を自ら選んだんだと分かる。
「ちょっと、母をお願いしていいですか?私、これ、出してきちゃいます」
そう言って、その辺のボールペンで名前を書き込んだ。
「お任せください。お昼の心配はしなくていいですよ」
そう言って、龍二さんが卵のパックを掲げた。
「オムライスの約束なのよね、先生?」
母が嬉しそうに手を叩いている。
「オムライス、万歳!」
そう言い残して、役所まで走った。
「ハァハァ」
息を切らして走ってくる人などここには一人もいない。でも、私は一分でも一秒でも早くこの紙を提出してしまいたかった。
「はい。お預かりします」
無表情の男性に紙を渡したけど、旧姓の『原』に戻れた実感が得られない。これからまた数多くの名前変更の手続きが待っているかと思うとうんざりした。
一刻も早く帰りたいのは戻る道でも同じだったが、もう足が動かなかった。スマホを取り出し、一応、送っておくかとメッセージを作成した。
『離婚届が受理されました』
幸太郎は、最後どんな顔をして書類に署名したのだろう。
ブブッ。スマホが震え、画面をタップする。
『すまなかった』
まさか、謝ってくれるとは思っていなくて面食らう。慰謝料やローンの事など、肝心なことは何一つ直接話せなかった。言いたいこともいっぱいあったけど、もう過去の事だ。もう考えるのは止めだ。
***
タエ子さんがソワソワと俺の後ろをうろうろしている。
「手伝ってくれるんですか?」
洗った生卵を摘まんで、ほいっと見せてみる。
「私、料理は得意な方だったのよ。……だけど、ここのところさっぱり駄目ね。不器用になってしまったみたいなの」
「卵割ってください」
ボウル差し出すと、タエ子さんはおずおずとやって来た。
ボウルの淵に殻を打ち付けた瞬間、ぐちゃっと音を立て、卵は握り潰された。
「ほうら、失敗しちゃったわ」
「俺もよくやりますよ」
タエ子さんは意外にも気にした様子はなく、二つ目の卵を手に取り、同じように失敗した。そして、三つ目、四つ目……とうとう、俺が買ってきた六つ入りのパックを全部失敗してみせた。
「おかしいわね」
そう言って、テレビの方へ逃げるタエ子さん。
笑いながら、大きな殻を摘まみだし、とりあえずかき混ぜる。トロトロになったら、目の細かいザルで漉して砕けた殻をふるいにかけて回収した。
「ちゃんと火を通せば大丈夫だろう」
冷凍してあるご飯が溜まっているのを知っていた。それらをレンジで解凍し、刻んだ材料と合わせチキンライスを作った。
「なんか、良い匂い!」
心愛さんが帰ってきた。
「卵なんだけど……」
一応、殻が混ざったことを相談しようと思った。
「ん?落っことしました?」
「いや、そう言うわけでは……」
「私なら殻だけ避けて、使っちゃいますけど。ちゃんと火を通せば食べられますよ」
「ですね」
同じ価値観だ。嬉しい。
「私、本当はトロトロの卵の方が好きなのよ」
タエ子さんはそう言いながらも、しっかり焼いた卵で包んだオムライスを平らげてくれた。
「表で見かけた女性が弁護士だったのか?」
皿を洗いながら心愛さんに聞いてみる。
「そう。おっとりして見えて、すごいやり手なの」
「『お待たせしたわね』って言われたんだが、何のことか分かるか?」
「あ……」
手が止まって、真っ赤になって俯いている。
「え、俺、マズいこと言ったか?」
「いえ……前に、初めての面談の時に……」
心愛さんが困ったような顔で俺を見た。
「お付き合いをしている人はいるのかって聞かれて、離婚の交渉に必要な事だから教えて欲しいって言われて……」
「それで?」
俺たちは付き合ってるとは言わないだろう?困ることは無いはずだ。
「いません……って答えたんですけど……好きな人はいるって……言ったから……かな」
最後の「かな」って言ったときの、少し目線を外してはにかんだ笑顔に抑えきれない衝動が胸を突き上げた。
居間にいるタエ子さんに背を向け、心愛さんを俺の身体で隠す。
首筋から頬へと手を滑らせ、そっと顔を包み込んだ。
「ふぅ」と心愛さんは小さく息を吐いた。
目と目が合う。
ほんの少しだけ顔を近付ける。
上を向いたまま目を瞑った心愛さんの唇に俺の唇を重ねた。




