第36話 カルーアミルク
「榊原先生、ちょっと」帰り際、校長先生に呼び止められた。校長室に案内され、扉を閉められる。中には教頭先生と学年主任の先生が既にいらした。
「田丸さんに何と言ったのですか?」
「はい?」
「保護者の方からお電話を頂きました」
「いえ。別に。昨日どこにいたのかと聞かれて、実家にいたと……母親の介護がありますので……」
「田丸さんは内容そのものよりも、先生の言い方がきつかったと泣いておられたようですよ」
「はあ」
「田丸様にはPTA役員を引き受けていただいているので、学校との関係は良好に保っていただかないと困るんですよ」
「すみません」
質問に答えただけだ。言い方がキツク感じたのなら謝るけど、それってあなたの感想ですよね……?なんて。あー言いたい。私も言ってみたい。
「榊原先生、今から田丸さんのお宅に謝罪に行ってください」
「はい?」
「今日中に伺うと先ほど言っておきましたので、今すぐ……」
「いいえ。お断りします」
「っな!榊原先生何を言ってるか分かってるんですか?」
「はい。私は悪いことをした覚えはありません。何について謝罪するのか見当もつきませんので、伺うなんて出来ません」
「っん、まあっ!」
目を三角にしている三人の先生方には申し訳ないが、私は田丸さんに頭を下げる気は毛頭ない。そんなことするくらいなら辞めた方がましだ。
「失礼します」
ぷりぷりしながら校長室を出た。
***
「それじゃ、タエ子さん、また明日」
「はい。先生。また明日ね」
「心愛さんが帰って来るまで、家でじっとしててくださいね。タエ子さんとすれ違いになると心愛さんが心配しますので」
「分かってますよ」
信じるしかない。どうか、また一人で出歩かないようにと祈るような気持ちで店に向かう。地下にある店への階段を降りると人が立っていた。
「げ」
「失礼ね。声に出てるわよ」
優子が待っていた。
「何しに来たんですか?まだ店の引き渡しは済んでいないんですよね?」
「ええ、そうよ。だから、客としてきたの。敬意を持って接客して頂戴」
「すみませんが、お客様、まだ開店前なので、18時になったら改めてお越しください」
そう言って、シャッターを開け、札をCLOSEDにしたまま一人で入店した。
意味不明だな。表に居た女性をかつて好きだった自分がさっぱり分からない。
扉が開き、優子が入ってきた。
「あのですね……」
「次期オーナーにそんな態度とっていいの?」
「俺には関係ありません」
「関係ないこと無いでしょ?」
「無いですよ。俺はあなたの下では働きませんので」
「辞めると言うの?」
「もちろんですよ」
二重顎になり、顔を真っ赤にさせた優子が俺を鬼の形相で睨みつける。
「そんなこと許されませんよ」
「あなたの許しなんて要りませんよ、日本には職業選択の自由がありますから、働く場所は自分で決めます」
まさか、店を買い取れば、もれなく俺が付いてくるとでも思ってたのか?アホか。
「今のオーナーにはお世話になりましたので、引き渡しのその瞬間までは働くつもりです。でも、それが俺のここでの仕事の最終日になりますので、どうぞよろしく」
優子の事は無視して開店準備を始める。店の掃除や在庫の確認をしたら、ビールサーバーのセットアップ、氷の準備など、やることは山ほどある。
優子はカウンターに座り、じっと宙を見つめ、時折、唇を右に左に動かしていた。ハッと、一瞬口を開き、何かしゃべるのかと思いきや、唇を噛んで眉間に皺を寄せた。
準備が整い、着替えも済んで、少し早いが扉の立札をOPENにひっくり返した。
「何か飲みますか?」
自分の世界に没頭していた優子が肩をビクッと震わせてから「ビールを」と言った。
いつもながら、完璧な泡と琥珀の比率に注がれたグラスをもてなす。
「あの……」
「はい、何でしょう?」
今さら、俺と何の話がしたんだ?
「私のことどう思ってる?」
「どうって?」
「自分勝手な女とか思われてたりするのかしら。嫌われ者だったりして……」
どうしたら好かれているという勘違いが生まれるのか、きっと一生かけても理解などできない。はて、どう答えるべきか。
「そうですね……気が付いてなかったんですか?」
「そうね。なぜかしら」
さぁね、俺に聞かれてもお答えしかねるな。さっさと帰って欲しい。
「あの時は、愛してくれてたのよね?」
「あの時とは、22年前の事ですか?」
「ええ、そうよ」
「ですね。はい」
「いつ嫌われたのか聞いてもいいかしら?」
「それは、あなたが俺を捨てると決めた時、かな」
ビールの泡を上唇に付けたまま、優子は話を続けた。
「私があなたを捨てた事なんてあった?」
こいつ……覚えてないのか?
「友弥を置いて出て行っただろ、その時だよ」
「それは、あなたが……」
「俺が何だよ?」
優子は鼻の穴を膨らませたまま固まり、目玉をぐるっと一周させた。
「どうかしたか?」
様子が変なのでさすがに言わざるを得ない。
「ごめんなさい。チェックを」
帰ってくれと思っていたが、こんなに意味深なところで去ろうととするなんて、本当に嫌な奴だと、改めて認識した。




