第3話 モヒート
休みのようで決して休まらない土曜日。
「ここちゃん?どこにいるの、ここちゃん?」
母が私を探している。
「ここにいるよ」
「ああ、ずっと探していたのよ。ここちゃんは、いつも私の側にいてちょうだい」
「分かってるよ」
Tシャツを後ろ前に着ている母に手を差し出す。
「やめてっ!なにするのっ!」
手の甲を思いっきり叩かれる。
「洋服が後ろ前だよ。直してあげようと思っただけ」
「ああ、そういう事は、先に言ってちょうだい。ビックリするでしょ?」
「そうだね。ごめんね。直していい?」
「ええ。お願いするわ」
大人しく両腕を抜き、Tシャツをひっくり返してもらう母。まだ75歳だ。今時若いとも言える、こんな歳に、こんなに手のかかる認知症を患ってしまった。気の毒な人だと思う。
「お父さんは?」
「仕事に行ってるよ」
嘘だ。母の認知症が判明した5年前に蒸発した。こんな風にきれいさっぱり姿を消せるものなのかと、世界の七不思議の一つを見たような気になった。
「そう。じゃ、お夕食の準備をしなくてはね」
「まだ朝だから、後で一緒にやらない?」
何とかなだめてテレビの前に座らせる。とりあえず時代劇を見せておけば、1~2時間はじっとしていてくれる。
この間に洗濯と掃除を済ます。天気がいいので、今日は布団も干そう。それから、今晩は月に一度の町内会の集まりもある。先月の話をすっかり忘れてしまったので、配られた資料を読み返す。
「お腹が空いたわ」
はっとして時計を見る。まだ、10時にもなっていない。
「それじゃあ、支度を始めるから出来たら声を掛けるね」
適当な嘘をつき、仕事用の鞄を持って自室に籠る。私の受け持ちは中学校の2年生。公立高校で、大きな問題は起こさないが、頭の良い子……と言うか、勉強が得意な子は、私立に行ったので、自由奔放な校風で……ふぅ。自分の職場を褒め称えるには、要素が足りなさすぎる……正直なところ、どうしようもない学校。
母の世話をする為に、数年前から実家に同居している。母を恨んだりはしていない。今の私と変わらない歳に私を産んでくれたのだ。体力的に大変だったろうと、容易に想像がつく。だけど、父に対する思いは複雑だ。
「あんな人、軽蔑する」
敢えて声に出す。だって、本当に腹が立つから。母と結婚して、しばらくの間、事業が上手くいかずお金に困ったと聞いた。それから、私が国立大学を卒業するまで、学費の心配をすることなく育ててくれた事には感謝している。だけど、今になって、母が一番助けが必要な時に出て行くなんて……それを許せるほど私はお人好しではない。
「ここちゃーん、御夕飯まだかしら?」
昼と夜の区別も付かなくなっている母に心が折れそうになる。
「もうすぐだから、少し待っててね」
「急いでね!」
朝食をあんなに食べたのだ。空腹のはずがない。こんな虚しいやり取りを3時間も続けた末に、ようやく本当の昼食の時間になった。
「待たせてごめんね」
そう言って、チャーハンを出す。
「違うでしょっ!」
怒りだして、皿をひっくり返す母。片付けの手間が増えたことに気を落としながら、これは病気なのだから仕方がない、と自分に言い聞かせる。
「ここちゃん!何度も言ってるでしょっ!私は御夕飯にチャーハンは食べません!」
そうだった。昼ごはんという説明を怠った私が悪い。
「ごめんね。オムライスならいい?」
「それなら、大丈夫よ」
まだフライパンに残っているチャーハンにケチャップをかけ、卵で包む。ちょっと塩分が高いけど、我慢してもらうしかない。しょっぱい昼食を食べながら、昨日のバーを思い出す。土曜日が休みなはずがないよね……そうは思うけど、他のお客さんがたくさんいる中、一人でカウンターに座る勇気はない。
***
まさかだろ。もう日付が代わる時間だぞ?
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
前回よりは少しラフだけど、お店的にも俺的にも充分に「ちゃんとした格好」で彼女が現れた。終電が近くなり、それまでいた客のほとんどが席を立っていた。
「ここいいですか?」そう言って、彼女は前回と同じ席を指さした。
「もちろんです」片付けたばかりの、俺の前の席に座ってくれた。
そわそわと恥ずかしそうにしている姿が可愛らしい。緊張というのはうつるのものなのだろうか、俺までそわそわしてくる。
「今日は何にされますか?」
一応メニューを差し出す。
「モヒートを」
昨日の客に作ったのを見ていたのだろうと、微笑ましく思う。モヒートはラムがベースだが、ライムとミントを加え炭酸で割る清涼感が漂う飲み物だ。
これには丸っこいグラスを使うと決めている。今日もまた、穴が開きそうなくらいじっと見られているが、その視線は初めてじゃないからもう大丈夫だ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
ゆっくりとロングカクテルを口にした彼女は、何に驚いたのだろうというくらいに目を見開いた。
「すごい……」
今日一番の、いや、今年一番の驚きを頂戴いたしました。思わず、笑ってしまった。
「えっ」
「笑ってすみません。モヒートを飲んで『すごい』って感想をいただいたのが初めてで」
「すみません」
「いえ。嬉しいんですよ。喜んでるように見えませんか?」
「……はい」
「ですよね。よく言われるんです。『営業スマイル』って。そんなこと無いんですよ」
「すみません」
「謝って欲しくないです。この前の話の続き、聞かせてもらってもいいですか?」
「はい」




