第23話 ジントニック
先日、見学に行った施設から、母に一泊二日のショートステイのお話を頂いていた。
「施設と入居者にも相性みたいなものがありますので、何度か宿泊体験をしていただくのがよろしいかと思います」
ということで本日、母に必需品を詰めた鞄を持たせて連れて行った。
出勤には少し遅れたが、新学期の準備やら、バレー部の顧問を終え、今、幸太郎のいるマンションに向かっている。連絡はしていないが、自分の家だ。いつ帰ったって構わないはずだ。
「ただいま」
鍵がかかっておらず、不思議に思う。幸太郎もそろそろ帰宅の時間ではあるけど、施錠を忘れるような人ではない。女性もののスニーカーが揃えてあった。
「あら、心愛さん!」
「お義母さん」
見たことのないエプロンとスリッパを身に着けた義母が、パタパタと廊下を歩いてきた。
「あら、帰ってくるならそう言ってよね。私、わざわざ来る必要なかったじゃない?」
「すみません。急に、戻れることになったので」
「たまには帰ってきて、幸ちゃんのお世話もしてね?あ、そうそう、お母様の体調はいかが?」
「はい。お陰様で、何とか……」
「大丈夫なら、尚の事よ!幸ちゃんのこと、放っぱらかしにしてないで、きちんと妻らしい事をしてください」
「はい。すみません」
カレーやら、パスタソースを作ってくれているらしい。
「よく来てらっしゃるんですか?」
「たまによ。幸ちゃん、外食ばっかりで、体調壊すといけないから」
それは、私が家にいても同じことだけど。
「心愛さん、あのね、この際だから言わせてもらうけど」
「はい」
「あなたは嫁いで来た榊原の嫁なのよ。幸ちゃんの事を一番に考えてくれないと困ります」
婚姻という制度のせいで、苗字を変えさせられる現状を、私は人権侵害だと思っている。お義母さんだって、そうやって実家を捨てさせられた同じ女性として、嫌な思いをしたことはないのだろうか。
「ご実家には弟さんがいらっしゃるのでしょう?看病とかそういうのは長男の務めなのよ」
「すみません」
榊原家の長男の嫁として、私は義母に気に入られることはないだろうな。
「そもそもね、こういった立ち入った事を言ってはいけないのは分かってはいますけどね……孫の顔を見せてくれない嫁をもらってしまって、私がどれだけ惨めか分かりますか?」
「すみません」
「謝って済む問題じゃありません!」
腕をバシンと叩かれてしまった。
「母さん!」
ちょうど帰宅してきた幸太郎が止めに入ってくれた。
「幸ちゃん!いいところに帰って来たわ。一緒に、心愛さんを説得しましょう?」
「説得って……」
「幸ちゃんのことを放って、自分勝手に実家に帰ってしまうんだもの。こんなのって良くないわ。幸ちゃんがちゃんと言わないからよ。夫は優しいだけじゃ駄目なのよ?」
溜め息をつきながら、お義母さんを椅子に座らせて、幸太郎が私に向き合う。
「母さんの言うことも一理あると思わないか?」
いいえ。全く思いませんが。
「帰ってきてくれないか?」
自分の浮気は棚に上げて、私が悪い嫁だと責めるのね。
「今は、母を一人に出来ないの」
「じゃあ、これからも俺を一人にするのか?」
「そうよ、幸ちゃんだって……」
「母さん、ちょっと黙ってて」
私の前に威圧的に立っている。幸太郎を「怖い」と思ったのは初めてだ。
「別れてください」
自分でも驚くくらい、自然と口を突いて出ていた。
「離婚するって言うのか?」
般若のような顔で睨みつけてくる。
「はい。離婚してください」
***
仕事帰りの会社員で店内がごった返している。珍しく満席で、中田君と二人での接客は多忙を極めた。
カウンター席のカクテルを用意して、テーブル席の常連にボトルを……と、洗い物が溜まってきていて、フードの提供がおぼつかない……てんやわんやだ。昨年からバイトで来てくれている中田君は、すっかり頼もしくなり、こちらから指図をしなくても、思った通りに動いてくれる。
「マスター、オーダー入ります」
手際よく、メモをカウンターから滑らせてくれる。
「これ、3番テーブルに」
常連がキープしているボトルと氷の入ったアイスペールを渡す。
せっかくツーカーの仲で仕事が出来るようになったのに、閉店の話をしなければならないのは残念だ。
目まぐるしい時間が深夜近くまで続き、やっと一息つけるようになった。
「中田君、お疲れさん」
彼の好む、ジントニックを出す。
「ありがとうございます。マスター、今日は何だったんでしょうね」
「はは、全くだ」
彼にも次のバイト先を探す時間が必要だろう。
「こんな時に、あれなんだが……」
俺はTITANICの閉店の話をした。
中田君は薄っすら涙を浮かべて「残念です」と言ってくれた。
「申し訳ないね」
「いいえ、仕方がないです。マスターはどうするんですか?」
「それなんだよね……どうしようかな……」




