大一篇稿一
序部
現代的なる諸相を歴史開明的なる視座よりして背景的に素描する。短評的であるが連綿とした詩的なるが顕勢なる叙文に隣接しての主義的なる潮風は、意義性に際する人間の思惟を自身にて現象させる労を全面的にて表出する.主意説(注、代表的論客にフィヒテ、ショーペンハウエル等)の反映が大きいことは、あるいは後述的に此処に補注しておいてよいかもしれない.盲目的なる意志は包括的に世界を現象する.
願いとしてではないが作者自らの予持として、あるいは旧券時間化、就寝前の優雅なる恩給にその思惟を禅的に構造的に生成させよう発現が、期待せられる。
注として今一度、法学的な構成であるので随所で分析的な前提的与件と、いわゆる「読みづらさ」も現れるであろうことは必定的である.伏在的なる知恵を諸君に授ける形式とは、その言語の内奥なる超越を含むものである.
道具は道具の域を出ないからこそ、我々生理学的構成物象は自身、その限界性と自身のまた学的なる性質生徒を真剣に吟味する、その瞬間があってしかるべきなのである。知ったような口を利ける人間が何も知らぬ人間よりも悲惨的である一事は承諾しているつもりであるが、尚も人間のその全的な精神的要素の不完全なるは露出を健全的に行う意思に際してのみ救済されるとの、自存故である。全ては即自ー対自という質料ー形相を新たに人間学的に敷衍する概念構成によってまた関係的時代的虚妄の打破を試みられ、体系的樹立者はその歴史的な精神の浮動を数百年止まってか、登場するのである。
安易な演出的なる営為は容易にその読者が知見に、ーあるいはその嗜癖が大衆的で凡愚じみた常用者であってもー見破られようことは、察するに難易の区別なき普遍である.されど詩の形式はあるいはその執筆的なる背景は不可分にして実在的であり、一回的なる集積をばその永遠的なる相にて看取せしめんとする執念である.なればこそか、詩はその本分的な形象性のゆえにこそあるいは遠望的な近視眼的なさんざんな評価の際会に、それともに日の目をも浴びずにその風化的ならざる形像が後世的に発掘されようというものか、まさしくアルベルト=ランゲのいうところが天才性なる職分への(之を過度なる熱中を以てして自己評価誇大的に駆使すると進行麻痺的な発症をも起こしかねないことに留意したい、ニーチェがその最たる、かつ無二的ともいえよう例である)プロセス的な衆人が反応を略述したように、認知ー評価的ー天災へのその時代的なる恵沢に、与れるか否かというものは主体等によってのみ意味を持つものであるのみであるのか.浸透し得ない社会学的な要素というものはたいていはその浸透にあずかって期間的なるを必要とする。されども性質利用的なる活動的な要素をもくしすることによって自身の勤勉性は他方表出されようという、半ば示唆的なる教訓は自身をもその学習的な動性によって駆使者ならしめんとするこの演繹よ、あるいは、之は一つ萌芽的なるが萌芽の非同一的絶対の相には逆らえぬ一群なるかな。
思考が迂路となるは、ーその認識自体性はー原理としえぬその前提的直観性の科学的なる考証性の不純的な回転性に与ってその明晰性を具有する起生が為に人に運命という観念を連想せしめ、ある者にはその極端なる相をも露呈させる.全体的な浮動する無力感というものはその限定性において人を軛なるを不透明的に提示するがために唯物主義的な転化を見やすい.餓死か凍死を選ぶような観念論者が存在するか、彼らはそれでもその行動を問われ実証するに際して理性を提示するだけのその根拠性に足るだけの関係的な連想は専ら神学的であらざるを得なかろう姿態をば、彼らの言葉でいうところの真理にあらざるがゆえに挙績せらるべきものであるのか、去れども人は時間を拒否せんがという意思には不能的にその意志に準拠するが意志である一事へは、
俟って信仰のなき唯一者には遠きことかな.カテゴリ的人間なるその位相性は学生やらにあっては未確定的な因果性をも有するとまだ考え併せられるが、度性的に過重複的ならざるを慇懃となせる一部が人の集合の目に与って、ぜひその失政を賜りたい次第である.俗なメロドラマのジャンキーな感動に際して人が退屈するのは避けられえぬ一事である。さればこそ一方にて、不可思議的にあるいは生じてくる現象的な関心は人間の知覚的な様式を悪用する依存性である.人間は生活態であると同時にその投影性を、ー自身が披歴の主体なるを満悦的になしーアイデンティティーや青年的な危機、パーソナリティの個的樹突の場的な沮喪の徹底なる回避性の恒常を求められし、人がアスピリン....あるいはそのほうが巨視眼的に正解的であるのは、総体的に矛盾的なるが起因たる心理に異常を波及させていることの反映である観察される.
定規は空間的であるが時間を測るにもその樹立に与る形式たるはその空間性であり、不可分離的なるを以てして人間の思惟に成立する希望性はあるいは分析的綜合にのみ属さぬところから、唯一未来的なるものであるのかもしれない.新プラトン主義的なる流出性の即用であるかもしれぬが.
次回は映像的鑑賞等についての短評を著そうかと思っている次第である。




