帰り道
「はぁ〜っ!緊張した!!」
香月の屋敷に最も近いバス停でバスを降りた晶は、夕闇の中バスが遠ざかっていくのを見送りながら大きな溜息を吐いた。
急いで胸の前に抱えたリュックサックの口を開けると、街灯の灯りに煌めくブルーグレーの瞳がこちらを見つめてからぴょこんと顔を出した。
生き物を連れて公共機関を利用したのは初めてで、キャリーケースなど持ち合わせていなかった晶は取り敢えず子猫をハンドタオルで包んで自分のリュックに入れてここまで連れてきた。大事に抱えてきたつもりだが、途中で何度も様子を確かめ、恐々とここまで連れて帰ってきたので緊張で疲れてしまった。
子猫はその大きな瞳できょろきょろと周りを見回すと、何かを見つけたのかそちらの方向をじっと見つめる。
「?」
不思議に思って晶もそちらの方角を見ると、その視線の先には夕闇の中に黒く浮かび上がる屋敷のある丘が見えた。
(……この子がお屋敷に行きたがってるってお婆さんが言ってたけど、本当なのかな?)
「ミ~ミ~」
じっと屋敷の方角を見ていた子猫は、晶に視線を戻すと、甘えた声で鳴き出した。
「…はいはい、今からお屋敷に向かうからね。お腹が空いてるかもしれないけど、もう少しの辛抱だよ」
晶は子猫を腕に抱くとリュックを背負い直し、ポツポツと街灯が灯る寂しい街道を歩き出す。
帰りのバスに乗る前に、晶は子猫の当面の餌などを買い込んだ。屋敷で飼えるかは相談しなければいけないだろうが、自分は居候のような身分なので、できるだけ香月に迷惑は掛けたくない。かといって引き取ってもらえるような知り合いもいない晶は、それでもあの老婆の言葉が気になっていた。
「役に立つ…って、どういうことだろう…」
あの老婆は何者だったのだろう。彼女の言ったことが真実かどうか分からないのに、何故あの時自分は素直に彼女の言ったことを信じたのだろうか。
腕の中の子猫が自分にとってどのような存在になるかは気になる所だが、それよりも晶の中ではこの小さい命を守らなければという指名感が勝っていた。
そんな晶の思いを知る由もない子猫は、腕の中が心地良いのか落ち着いた様子で静かに前を見つめている。
「…名前、付けちゃおうかな」
まだ飼えると決まったわけではないが、野良猫の大将にも勝手に名前を付けていた。この子猫にも自分だけの名前を付けても良いのではないだろうか。
「そうだなぁ…大将の子供なら弟子だけど、『でし』じゃ変だしなぁ」
そんなことを悶々と考えているうちに、屋敷の建つ丘の麓まで辿り着く。
石段の前で上まで伸びる階段を見上げると、真っ暗な闇の中、ぼんやりと白く浮き出る石段が永遠と続いているのが見える。先の方は暗闇に吸い込まれるように見えなくなっており、何だか異世界への入り口の様に見えた。
鬱蒼と茂る木々のざわめきが、やけに大きく聞こえる。これからここを通って屋敷まで辿り着かなくてはいけないことに、晶は思わず身震いをした。
「…よしっ。頑張るぞ」
息を吐いて気合を入れ、その一歩を踏み出した時、突然肩を叩かれた。
「うわぁぁっ!!」
驚きすぎて文字通り心臓が口から出そうになった。急いで振り向くと、そこには年季の入った編み笠を目深にかぶった猟師のような男が立っていた。
擦り切れた着物の上に蓑のようなものを着て、足は山袴に藁で作ったブーツのようなものを履いている。極めつけに肩に狸のような動物を載せていた。
その猟師のような男は黙ったまま、晶に向けて親指で「こっちだ」と言うような仕草をする。
「えっ…ど、どういうことでしょう?」
いまだに混乱する晶をよそに、男は石段とは別の場所に進んでいく。これは着いて来いということだろうか。よく見ると彼の行く先には生い茂る木々や雑草の中に隠れていたケモノ道が現れていた。
晶が男に付いていくのを躊躇していると、腕の中から子猫が飛び出してその男の後に着いて行ってしまった。
「ああっ!!ちょ、ちょっと待って!」
慌てた晶は仕方なく猫と男を追いかける。無言で険しい坂道を上っていく男の肩には相変わらず狸にしては胴が長くて毛色が薄い動物が載っていたが、時折振り返ってはその円らな瞳で晶の方を確認するように見ていた。
(一体どこに行くんだろう…?まさか異界に道案内されてるんじゃ…)
晶の数歩先を歩く男の後を、子猫がぴょんぴょんと障害物を越えながら着いて行っていく。男は急な斜面もごつごつした岩場も軽々と上っていくが、ケモノ道は現代人の晶には歩き慣れないため、何度か足元が滑って転びそうになる。
そうやってしばらく男の後をついていくと、前を歩いていた男が急に立ち止まった。
何だろうと晶もそこまで辿り着くと、男の目の前に大きな裂け目のある岩が佇んでいた。裂け目は人がギリギリ通れそうな隙間があり、ケモノ道もここで途切れていて、他に足を踏み入れられそうな場所はなさそうだった。
「まさか、ここを通るの?」
そう言うと、男が無言で道を譲るように身体をずらし、また親指でくいっと岩の隙間を指す。どうやら先に行けということらしい。
(こうなれば、もう自棄だわ…)
晶は半ば諦めの境地でその岩の隙間に入り込む。背負っていたリュックを手に持ち身体を横にしてズリズリと進むと、思った以上に奥行きがあった。しばらくそうやって進み続けると、徐々に隙間が広がり、やがて明かりひとつない真っ暗な空間に出た。
(ええ…何にも見えない…ここからどうすればいいの?)
真っ暗闇の中でこれ以上進むのが怖く立ち止まっていると、何かが足元を通り過ぎて行く気配を感じた。
「ミー!」
「!!…なんだ、猫ちゃんか…」
それが子猫だとわかった途端、それまでの不安が消え、晶は緊張で詰めていた息を吐き出す。気を取り直し、晶は壁をつたって子猫の声がする方へと進み始めた。
子猫は誘導してくれているのか、晶の数歩前を歩いては鳴き声で位置を教えてくれて、晶はそれを頼りに慎重に進んで行く。
そうやってしばらく進んだ先に、突如ぼんやりとした光に照らされた階段が見え始めた。階段は上の方に伸びていて、その先にはぽっかりと夜空に月が浮かんでいるのが見える。
「出口だ…!!」
晶は子猫を抱き上げると一気に階段を駆け上がった。
階段を上りきって外へ出ると、そこは人の高さほどの木が周りをぐるりと囲うように生い茂る場所だった。晶はその木の根元に出来た狭い隙間を見つけ、そこを潜って這い出ると、見たこともない庭園のような場所に出た。
「うわ…綺麗…。って、ここ、もしかしてお屋敷の庭?」
外の雑木林とは違い、均衡のとれた木々に囲まれたそこは、色とりどりの草花が溢れかえる美しい庭だった。まるでイングリッシュガーデンのようなそこには、背の低い草花に囲まれた池が月明りを反射して静かに輝き、その畔には蔓草に覆われた小さなガゼボがある。
「こんな所があったなんて、知らなかった…」
この屋敷に世話になりはじめてまだ日は浅いが、晶は屋敷の中はおろか庭さえもまだ把握していなかった。居候の身であまり屋敷の中をウロウロするのも憚られたし、屋敷での生活に慣れるためにそれどころではなかったのもある。
「ミー!」
子猫が晶の腕から飛び出し、池の方へと走っていく。晶は月明りに浮かび上がる美しい庭園に心を奪われながらも、子猫を追いかけて池の畔まで辿り着いた。
「こら、離れたらあぶないよ…って、うわ……」
子猫が見ていた池の水面に、月明りに浮かび上がる白い花が見えた。
水の上で鋭利な花弁を幾重にも重ねて開くその花は、睡蓮の一種だろうか。池の上で月明りに照らされた姿がとても幻想的で、その光景に晶は思わず息を吞む。
柔らかい月明かりの中、静かに凛と咲き誇るその姿に、晶は心を奪われた。まるで時が止まったかのように、何も耳に入らず、ただその花の美しさに魅了される。
その花の姿はどこか、彼によく似ている気がした。
池の畔でしばらくその光景に見惚れていた晶は、いつの間にか子猫が晶のことをじっと見つめていることに気付いてはっと気を取り戻した。
「…ごめんごめん!そういえばここ、お屋敷の庭みたい。色々不思議なことがあったけど、あの人のおかげで最短で帰ってこられたね」
あの岩の裂け目からあの妙な猟師風の男は着いてこなかったらしい。彼のおかげで結果的に楽に屋敷まで帰ってくることができた。どう見ても現代人には見えなかったが、もしかしたら彼も霊の一種なのだろうか。次もあのけもの道を使わせてもらえると良いのだが、果たしてそんな都合良くいくだろうか。
「ミ~!!」
子猫は一声鳴くと池の近くを走り回り、芝生の上を転げまわる。その様子が何となく嬉しそうで、晶は老婆が言っていたことに信憑性を感じ始めた。
「こら、そんなにはしゃぐと危ないよ〜!え~っと…」
やはりこういった時に呼ぶ名前が欲しくなる。何かいいアイデアはないかと辺りを見回すと、先ほどの睡蓮が目についた。
「睡蓮…すい、れん…。うん、レンって良いかも!何かカッコイイ感じがするし」
すると子猫が晶の声に反応し、きょとんと晶の方を向いた。
「レンちゃんおいで!ごはんにしよう」
そう呼びかけると、子猫はしばらくじっとこちらを見つめていた。ブルーグレーの瞳が月明りを反射してキラリと輝く。透き通ったその美しさに見惚れそうになった時、子猫はトコトコと晶の元まで歩いてきた。
晶の足元で止まり首を傾げるように見上げてくる様子に、晶はもう一度子猫に呼びかける。
「レンちゃん。君の名前はレンちゃんにしたよ。どう?カッコイイでしょ」
屈んで頭を撫でてやると、レンは目を細めて小さな声で鳴いた。