エイプリルの後悔
このごろ一段と激しくなってきた息苦しさで、エイプリルは目を覚ました。
(苦しい、苦しいよぉ……!)
パジェット公爵令息と無理やり結婚させられ、領地の屋敷に連れてこられてどのくらいの年月が経過したのか。最近は時間の感覚もあいまいだ。
「み、ず……!」
のどの渇きに胸をかきむしり、ベッドサイドの水差しに手を伸ばす。
ぜぃぜぃと息を切らしながらやっとのことで体を起こすと、水差しとセットで置かれた洗面器に水が張られていた。
その水面に映る自分の顔を見て、エイプリルは絶叫を上げたつもりだった。だが、かすれた喉からは息の通る音しか出ない。
(いやああああああああああああああああああっ!!!)
荒れ果てた肌、落ちくぼんだ眼、首との境がわからないほど弛んだ顎の皮、老婆のようにぱさぱさの長い髪。
洗面器の水は満足に入浴できないエイプリルを気遣った使用人が用意したものだったが、今の彼女にとっては醜く変わり果てた姿を見せつける凶器だった。
(こんなの私じゃない!!!)
エイプリルは現実を否定するかのように洗面器をひっくり返し、それだけの動きで力を使い果たして気絶するように意識を手放した。
現在の姿をエイプリルは自分ではないと思っていたかったが、記憶を顧みれば微かに覚えがあった。
五歳ごろまで、エイプリルは丸々と太っていたのだ。大好物の甘いお菓子や味の濃い肉料理しか食べてこなかったのだから当然だ。
しかし、当時のエイプリルは自分が不幸だなんてちっとも思っていなかった。
「うわっ、ピンクのブタみたい!」
友人候補としてお城にやってきた無礼な男の子は、次の日から姿を見ることがなかった。
「ひめさま、いっしょにピアノをひきませんか?」
エイプリルよりピアノが上手なあの子も、友達になりたかったのに翌日から来なくなった。
「おとうさま、あのピアノの子はどうしてきてくれないの?」
父親に尋ねると国王オーガストは一瞬忌々しそうな顔をして、
「あの娘はズルをしていたから、エイプリルのお友達にはふさわしくないのだよ」
と言った。
ふぅん、そんなひどい子とお友達にならなくてよかった!とエイプリルは笑う。
別に、世界が自分を中心に回っていると思っていたわけではない。
息をするのに目の前の空気をわざわざ認識なんてしないように、エイプリルの望みが叶うことは意識するまでもない当然の事象だった。
その証拠のように、唯一の悩みだった体型も聖女の力に覚醒するとみるみる標準体型に変化していった。
可憐な容姿を手に入れたエイプリルは、父を筆頭にますます周囲の人たちから可愛がられた。
当時、王国にはエイプリルのほかに聖女が一人だけいた。
聖女としては珍しいことに独身のまま長く教会に仕えたおばあちゃん聖女だった。
そんな老聖女が、エイプリルの師匠として城にやってきた。
祖母のように優しく、時にちょっぴり厳しいことも言うけれど、お母さまが生きていたらこんなかんじだったのかしら?とエイプリルは師匠のことが大好きだったのに。
「エイプリル姫は、おそらく無意識に力の大半をご自身へ使っていらっしゃいます。そのため他者への治癒の力が弱く、暴飲暴食をしても標準的な体型が維持されているのです」
師匠は、あるとき深刻そうな顔でオーガストに訴えた。
「もしも治癒の力を失えば、いいえ、そうでなくとも今の状況は姫様にとってよくありません」
それを聞いたオーガストが、何やらひどく怒っていたのを覚えている。それから師匠は、お城に来なくなった。
教会で偉い人が死んでしまったと聞いたので、忙しいのかもしれない。
「それにしたって、エイプリルのところにきてくれないなんてひどいと思うわっ!」
エイプリルが怒ると、
「そうだな、あれは酷い女だ、あれが聖女だなんて間違いだったのだ。この国の聖女はお前一人で良いのだよ、エイプリル」
オーガストが優しく頭を撫でてくれるので、エイプリルはそのうち師匠のことも、彼女から聞いた女神さまの教えも忘れてしまった。
父のオーガストは、エイプリルにとって絶対的な味方だった。
「お姉さまのほうがきれいでずるい!それにエイプリルにおべんきょしなさいって、いじわるをゆうの!」
「あとでメイジェーンを叱っておこう。お姉様はエイプリルがお父様に大切にされているから嫉妬しているのだよ。あんなものより、エイプリルのほうがずっとかわいいよ」
メイジェーンに嫌なことを言われたら、姉を叱ってエイプリルを慰めてくれるオーガスト。
何でもできて美しいお姉さまが実はエイプリルに嫉妬していると知って、優越感を刺激された。
「うわあああっ!!おにいしゃまが、ぶったぁ!!!エイプリルが生まれてこなければよかったって、エイプリルのせいでお母さまが死んじゃったって言った!!!」
「なんだと、ジュリアスが可愛く優しく幼いお前に暴力をふるっただと!?二度とこんなことができないようにしてやろう」
かわいそうな小鳥さんを助けただけなのにジュリアスから叩かれたときは、オーガストが兄をやっつけてくれた。
血まみれの兄を見て、さすがにやりすぎじゃないかしら?とも思ったけれど、
「お父様だってできればこんなことはしたくなかったさ。だが、悪い奴は痛めつけて懲らしめてやらなくてはならないのだよ」
オーガストにそう言われて、そうなんだ、悪い人は痛いことをされてもしょうがないのか、と納得した。
エイプリルの人生では、望みは何でも叶い、たとえ嫌なことがあっても自動的に取り除かれてきた。
だから心臓の病が発覚した時も、正直あまり悲壮感はなかった。聖女の力のおかげか痛みがなかったのも一因かもしれない。
どうせいつのまにか解決するものだと思っていた。
でも、病気を公表して周りから腫れもの扱いされるのは嫌だったので、病気のことは隠すことにした。
もしも突然エイプリルが死んだら友人たちが悲しむだろうなんて発想はなかったし、思いついたとしても他人の悲しみなんか気に留めなかっただろう。
周囲の人たちは口々にエイプリルを褒めそやし、父は何でも言うことを聞いてくれたけれど、エイプリルはたぶん彼らのことがそんなに大切ではなかったのだ。
だって物質的には国で一番恵まれていただろうに、エイプリルはいつもどこかで心が満たされていなかった。
自分が不幸だと思ったことはないし、姉や兄がオーガストに叱責される瞬間は歪んだ快楽を感じたけれど、幸せを実感できたこともなかったのだ。
そんなとき出会ったのがクラスメイトのアーサーだった。
誰もが自分を全肯定するクラスで、一人だけエイプリルのことなど眼中にないと言わんばかりの態度をとる少年だった。
彼なら私の世界を変えてくれるかもしれない、エイプリルはそう思ってアーサーに近づいた。
その直感は間違っていなかった。
確かにアーサーはエイプリルの世界を一変させた。とてもひどい方向に。
目が覚めると、エイプリルの現実が目の前に広がっていた。
薄暗い公爵邸の天井、どこか遠くで怒鳴っている公爵一家の声、それを宥める使用人たち、自分が垂れ流した糞尿のにおい、そして息をするだけで悲鳴を上げる心臓。
「まどうぐ……効いてない……?ど、して……?」
手探りで、心臓の筋肉の動きを魔力で補助してくれるというペンダント型の魔道具を握りしめる。
そういえば、これを与えられるとき繊細な魔道具だから定期的なメンテナンスが必須だと聞いた気がする。
けれども聖女の結界の力が暴走するようになって誰もエイプリルに近づけなくなり、最後にまともなメンテナンスをしてもらったのはいつだろう。
(私、こんな、惨めに死ぬの……?私、だって、どうすればよかったの!!?誰か教えて、お師匠様、お姉様、お兄様、マジメガネ君!たすけて……!!!)
もはや瀕死の状態で、エイプリルは最後の夢を見た。
気が付けば、エイプリルは五歳のころに戻っていた。
「もしも治癒の力を失えば、いいえ、そうでなくとも今の状況は姫様にとってよくありません」
目の前では懐かしいお師匠様が、オーガストに訴えかけていた。彼女の訴えを聞いたオーガストは、すぐさま激高した。
「貴様はエイプリルが治癒の力を失うと言いたいのか!!!」
そう怒鳴りつけて、なんとお師匠様を突き飛ばしたのだ。
(そうだ、あの時、お父様はお師匠様をたくさん叩いて、お師匠様が動かなくなって、それを私は黙ってみていることしかできなくて)
それ以上は考える前に体が動いていた。
「お父さま、やめて!」
手を振り上げたオーガストに縋りつき、エイプリルはありったけの勇気をかき集めて叫んだ。
「こんなことするお父さまなんか、大っ嫌い!!!」
一瞬水を打ったように室内が静まり返り、オーガストは愕然とした顔で、自分が突き飛ばした老女を見下ろした。
「わ、我は、今、何をしようと……?」
みるみる後悔の念に染まっていく父親を放っておいて、エイプリルは師匠に駆け寄った。
「おししょうさま!」
今までで一番真剣に女神さまに祈ると、いつもより段違いに強い黄金の光が師匠の体を包み込んだ。
ほどなくして、気絶していた師匠が目を覚ます。
彼女は少し混乱した様子であたりを見回し、泣きべそをかいている弟子に気づくと優しい笑みを浮かべて抱きしめてくれた。
「姫様が助けてくださったのですね。見事な治癒の力でございました。あなたがさっき感じていたこと、人を真摯に思う心こそが、我々治癒の聖女にとって一番大切なものなのですよ」
「うん、うんっ、わかった、おししょうさま……!」
エイプリルがべしょべしょ泣いていると、使用人が騒ぎを報告したのだろう、慌てた足音が響いてメイジェーンとジュリアスがやってきた。
「お父様、エイプリル、それに聖女様……!?これはいったい?」
驚いている二人に事情を説明すると、メイジェーンが極寒の吹雪のような軽蔑の眼差しで父親を睨みつけた。
「お父様、ご自分が何をしたのかわかっておいでですか?聖女様を虐げるなどスノーレイク王として一番やっちゃダメなことでしょう」
「メイジェーン……その、すまぬ、我はなんということを……」
オーガストは長女の前に正座して、憑き物が落ちたような顔でひたすら小さくなっていた。父上が謝った、とジュリアスが驚きの声を上げてから姉に加勢をする。
「そ、そうだよ、それに最近の父上、なんだかずっと怖かった!母上が亡くなってから、おかしかったよ、父上」
「ああ……そうだな。我はお前たちにもたくさん、ひどいことを言った。すまない、すまなかった……!」
「ううん、もういいよ。母上が亡くなって、父上も悲しかったんだよね」
ジュリアスが父親の頭を撫でると、息子が優しすぎて逆に辛い……!と泣き崩れるオーガスト。
「エイプリル」
その様子を見ていたメイジェーンが、エイプリルの方を振り返った。
姉はエイプリルが何をしても怒る人だったから、反射的に怒られる!と身を竦める。
けれどメイジェーンはエイプリルが見たこともない優しい顔で、笑っていた。
「よく頑張ったわね」
「ぅ……わぁああん、お姉さまぁああ!!!」
「大丈夫、もう大丈夫よ」
再び大泣きして抱き着いてきたエイプリルを、メイジェーンはそっと抱きしめて頭をなでてくれた。
つられたようにジュリアスも二人に飛びついて来る。
子供たちを抱きしめようとしたオーガストは一度だけ姉にわき腹へ肘を入れられて悶絶したものの、最後には親子四人で抱き合った。
それからみんなでわぁわぁ泣くのを、師匠があらあらと笑って眺めていた。
その日からエイプリルの生活は、劇的ではないが確実に変わった。
城には今までエイプリルより優れた友達は呼ばれなかったけど、それはエイプリルがすごいわけではなく、オーガストが優秀な子を呼ばないでいただけだった。
必殺「お父さまなんか嫌い!」を連発すると、あのピアノの子にもすぐ再会できた。謝ったら、その子は「姫さまが悪いわけじゃないから」と笑って友達になってくれた。
もちろんいいことばかりではなく、前にエイプリルをブタ呼ばわりした男の子も城に来たときはすごく嫌だったけど、メイジェーンが
「エイプリルはちょっぴりわがままだけど、優しくて可愛い自慢の妹よ。そんな奴見返してやりましょう!」
とお茶目に笑って髪を結ってくれた。姉がこんなに素敵に笑う人だったなんて、昔は知らなかった。
「それでも何か言ってきたら、お兄様が守ってあげるからね!」
ジュリアスがふん!と力こぶを作って宣言する。二人のおかげで、どんなに嫌でも逃げ出さないでいられた。
師匠は南の辺境で魔物が大発生したとき、王家の派遣した援軍に参加して亡くなった。
かろうじて転移の魔法で城には帰って来られたが、傷が深すぎて本人やエイプリルの治癒の力でもどうにもならなかった。
「魔物のことは憎んでも、辺境の方たちを恨んではなりませんよ、姫様」
死の間際、師匠はエイプリルの手を握って最後の教えを授けてくれた。
「私は最後に多くの人を助けられて、聖女の使命を全うできて満足です。そのうえ、こんなにかわいらしい自慢の弟子に見送ってもらえるのですから」
そう言い残して師匠が息を引き取ったときは胸が張り裂けそうなくらい辛かったけれど、父や姉や兄が抱きしめてずっと慰めてくれたから、何とか立ち直ることができた。
エイプリルが十七歳になると、やはり心臓の病は発病した。
周囲に気を遣わせることにはなるが、エイプリルは病を公表することにした。
すると学園の下級貴族クラスに通う子爵令息が、辺境で使われている魔動義肢の技術で魔道具を作ってくれた。
キャロル子爵家の嫡男アーサーが贈ったその魔道具のおかげで、エイプリルは命をつなぐことができた。
当然王家からの謝礼は送ったが、エイプリルも直接お礼を言うことにした。初めて会った時、黒髪の穏やかそうな恩人に、淡い恋心を抱いたのだ。
「本当にありがとうございました、アーサー君」
アーサーが余計なやっかみを受けないよう配慮した上で謝意を伝える場を設けると、彼は嫌みのない笑顔で首を横に振った。
「エイプリル姫が元気になって、よかったです。これでやっと恩返しができました」
「恩返し?」
「はい。僕の実家は南の辺境にあって、十一年前の魔物の大発生の時、両親は瀕死の傷を負ったのです。でも聖女様の援軍が間に合って、二人とも一命をとりとめることができました」
後からその聖女様が姫の師匠であったこと、魔物大発生の時に亡くなったのを知りました、とアーサーは続けて肩を落とした。
「だから本当は、王家からの謝礼だけでも過分なくらいなのです。魔物のせいで、姫の師匠を奪ってしまったようなものだから」
「それは違うわ、アーサー君!お師匠様は、辺境の方たちを助けられてよかったと言っていました。気に病まないで」
するとアーサーは救われたような顔で、ありがとうございます、と微笑んだ。その笑顔が素敵で、エイプリルは勇気を振り絞って提案した。
「あの、お礼になるか、わからないのだけれど、よかったら二人でお出かけしませんか?あなたに迷惑は、かけないようにするから」
その申し出にアーサーはきょとんとした後、申し訳なさそうに首を振った。
「大変光栄なお話ですが僕には愛する婚約者がいるので、ご辞退させてください。あっ、もちろん姫様が僕を何か特別に思っていると勘違いしたわけではありませんよ?」
勘違いしてもいいのに、というエイプリルの胸の内を知らぬ様子でアーサーが続ける。
「ただ、もしも婚約者が素敵な王子様と二人きりで出かけていたら、僕は嫌だから。自分が嫌なことを彼女にしたくないのです」
この上なく誠実なお断りの言葉に、エイプリルは失恋の痛みと同時に、なんだか清々しさも感じた。
この夢でのエイプリルは、つらいことも確かにたくさん経験したけれども、本当に幸せだった。
幸せな夢から覚めると、とうとうエイプリルの体は動かなくなっていた。
もう目も見えず、ひどい臭いも感じず、その代わり痛みもどこか遠くて、ただ音だけが妙にはっきりと聞こえていた。
「はぁ。ようやく死んだのか。それにしてもひどい臭いだ」
書類上の夫の、吐き捨てるような言葉。
「若様、仮にも王女殿下でご自身の奥様に、そのような言い方は……」
親切にしてくれた使用人も、言葉ではパジェット公爵令息を咎めていたが、その声にはどこか介護の終わりに対する安堵がにじんでいた。
(私、本当に死ぬんだ……誰からも、悼まれもせずに)
(どうしてあの夢みたいに、できなかったんだろう)
絶望を感じずにはいられないけれど、自業自得でもあることを、エイプリルはようやく理解した。
(お師匠様、助けられなくてごめんなさい)
(お姉様、お兄様、ひどいことたくさん言ってごめんなさい)
(アーサー君、君を好きになってごめんなさい、ごめんなさい……!)
かつて誰からも愛された少女は、悔恨と謝罪の気持ちを抱きながら静かに息を引き取ったのだった。
たった一つの気づきと勇気で、幸せになれたはずの女の子の話でした。
最後の夢はしょせんエイプリルに都合のいい願望ですが、エイプリルが知らないはずの事柄も出てくるあたり、果たして本当にただの夢だったのか。
これをざまぁとみるか胸糞とみるかは、読者様の判断にお任せします。