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オリジン  作者: ふとん
9/15

個室

 水しぶきを浴びて、数斗は顔をしかめた。

「また?」

「こっちが本職だろ」

 対面キッチンを挟んで男二人が睨みあっている構図は妙なものである。

「あきらめろって。いざ働くと決めたらウチは人使い荒いぜ」

 青髪の男はスペクストと名乗った。一週間ほど前からこの男と共に都心に出ては、依頼される仕事を片づけている。

「人間じゃないだろ」

 スペクストは、巨人族の一族の末裔だと言った。末裔だけあって、見た目は人の形だが、その異常な怪力は受け継いでいるらしい。

「でも、アンタもさぁ。鳴り物入りでここに来たのにただの家政夫するなんて思ってなかっただろ?」

「……これは性分だよ」

 数斗は洗い終わった鍋を水切り場に置いた。皿は食器洗い機という文明の機器があるので洗わなくて良いのだが、鍋ばかりはそうもいかない。

「教授も言ってただろ? アンタは特別だって。だから、そんなことしなくてもいいってさ」

 スペクストはどうでもよさそうに、対面キッチンに張り出したカウンターにもたれかかる。

 教授とは、ユエ・ブライトという赤目の吸血鬼だ。名前に似合わない青白い顔の痩身の男である。

 紹介されて、似合わない名前だと感想を述べると自分もそう思っていると返した肝の図太い男だ。

 スペクストは、面と向かって教授に似合わない名前だと告げたのはお前が初めてだ、と数斗を面白がった。

「今日の仕事は?」

「アンタのお仲間の捕獲」

 エプロンを外してキッチンから出ると、スペクストは急かすように愛用の巨剣を肩に担いだ。

「ケンカの仲裁だけじゃないんだな」

 二日前まで主な仕事は種族の違う妖怪同士のケンカの仲裁だった。

 昨日に至っては狼族の女と猫族の男の夫婦喧嘩だった。夫婦喧嘩は犬も食わないのは、人間も妖怪も同じである。馬鹿馬鹿しくなった数斗はちょうど一緒に行っていたメネッセに事後処理を押しつけた。

 元来、無口な鬼族の男である。帰ってきた彼はひどく憔悴していた。

「まぁな。近頃じゃ、ちょっと人を殺しまくってる吸血鬼の捕獲ってのはなかなか無いから」

 ダイニングルームを出ると、少女が一人、廊下の壁にもたれて顔をしかめていた。

 退魔師の家系だと名乗った少女、朝香だった。

 今日はジーパンにフリルのついたシャツ姿だ。スニーカーのかかとを鳴らして、こちらに振り向くと細く描いた眉を吊り上げる。

「おそい!」

「……待たせたつもりはないけど……。彼女も一緒に行くの」

 後ろから出てきたスペクストに尋ねると、彼は今さら思い出したように頷いた。

「そういえば」

「今日の天気予報が当たったみたいな相槌打たないで! 私、夏休みだからしばらくここでバイトするって言ったでしょ?」

 午後にほど近いが、朝から耳に反響する声は耐えがたいものがある。

「…………あー…。ああ」

 しばらく視線を空中にさまよわせていたスペクストはポンと手のひらの代わりに剣の腹を軽く叩いた。

「………。静世姉さんが今日は風邪ひいて出られないから、代わりにアタシがアンタ達につくことになったの。いい?」

 朝香の姉も退魔師である。朝香とは違った意味でパワフルな女性だ。

「オーケー。オーケー」

 クーラーがきいているはずの廊下で今にも倒れそうなほど顔を赤くしている朝香に、スペクストはおざなりに頷く。

「今日はそれなりに危ないから、自分が危なくないように気をつけてくれてさえいればいいさ」

「何よそれ!」

「うわ」

 うっかり耳から手のひらを離してしまったので、甲高い声が鼓膜を貫いた。

 それを朝香は見逃してくれず、殊更大きな声を数斗に向けてくれる。

「三人一組でチームなの! 足手まといが増えるとでも言うの!」

「言いません!」

 負けじと大声で応えながら横目で見遣ると、今度はスペクストが指で耳栓をしていた。

「何よ。今日も暑苦しい格好のくせに。もらった服はどうしたの?」

 スペクストは夏らしいTシャツとジーパンだが、数斗はいつものサングラスに、秋に着るような黒いセーターとスラックスである。綿のセーターは羊毛より重いが見た目にも重い。

「太陽の光は暑さより嫌いでね」

 吸血鬼の弱点は基本的にない。一般に太陽のような強い光と十字架やニンニクや聖水と言われているが、それが全てではない。信仰心のある吸血鬼になら十字架などでそれなりにダメージを受けるのだろうが、全ての吸血鬼にキリスト教の信仰を求められても、それは応えようがない。第一、吸血鬼はキリスト教ができる以前から生きている。銀という金属だけが吸血鬼の体を化学反応によって溶かすというが、実際に試した例は聞いたことがない。陽光の場合は、ただの性質である。

「元々、夜行性だから太陽が嫌いなんだ」

吸血鬼とは、実は異常能力を身につけた人間と大差ない存在なのだ。

「吸血鬼っていうから、もうちょっと悲劇的な理由を期待してたのに」

「一皮剥けば、何だって期待はずれするものだよ」

 三人は廊下の突き当たりにあるエレベーターに乗った。

 ここは、あの神殿地下である。居住区の地下三階の一角に部屋をもらって約一週間が経とうとしていた。その間に、壊されたアパートの大家さんに弁解と弁償金を支払いに(この資金はアキラから出資してもらった)行ったり、家事を押しつけられたりしていたが、日々の仕事は、この三人一組のトラブルシューターである。

 仕事は妖怪達によるトラブルの仲裁が多いが、中にはこうしてハンティングまがいの仕事もある。このような仕事は、妖怪と人間のメンバーでチームを組んで行うという。

「術の中には、妖怪にしか効かない術と、人間にしか効かない術があるから」

 朝香が面倒くさそうに応えたが、理由はそれだけではないだろう。

妖怪は妖怪の特性を熟知しているし、人間は妖怪の殺し方を熟知している。この異種族達が集まることによって、もしも妖怪を排除しなければならない事態になれば、確実に排除できるよう考慮されているのだ。それだけに、この妖怪専門のトラブルシューターは優秀な仲裁者であると同時に、優秀な殺し屋集団としても知られている。

中には同族殺しと呼ぶ者もいる。

エレベーターが到着を告げた。

 地下から地上に降り立つと、まるで異世界に迷い込んだ錯覚を起こす。棺桶から追い出されてしまった死者のように。

       ※

「サットをカゴの中に…?」

 スペクストから渡された薄っぺらい司令書をつまんで、朝香は怪訝な声をあげた。

「Sotは酔っぱらい。だから酔っぱらいを捕まえろってこと」

「それぐらい分かるわよ。だけど、酔っぱらいが誰かわからないでしょ!」

 後部座席でくつろぎながら応えた数斗を助手席の朝香は怒鳴り飛ばして、頬を膨らませる。

 その隣でこのミニバンを運転しているスペクストが大笑いした。

「な、何よぉ」

「そっか。朝香は初めてか。吸血鬼を捕まえるのは」

 小一時間捕まっていた渋滞がようやく動き始めて、スペクストはギアを入れた。

「初めて? 今まで一度もない?」

 驚いて声をあげると、助手席から朝香が睨みつけてくる。

「まぁまぁ。朝香はまだ若いんだから」

 暗に世間知らずと言われて、朝香は黙り込んだ。

「……吸血鬼は、別に人の生き血をすすって生きているわけじゃないんだ」

 数斗は動き出した車窓から、高いビル群を眺めて呟くように口を開いた。

「大抵は、植物や動物から生気をかすめ取って生きている。ある程度、長生きすれば仙人のように何も食べずに過ごすこともできるようになる」

「……アンタ、普通に三食食べてるじゃない」

「俺は混ざり者だから特別」

 交雑種は人間との場合が多く、彼等は昼間でも平気で歩き、食物からエネルギーを得ることができる。

「血は、生きるために必要なものじゃない。あれは吸血鬼にとって度数の高い酒と同じなんだ」

「酒?」

「そう。血は生命の源、生気の源泉だ。調理もしない麦と同じか、スコッチの原液と同じ。だから、まっとうな吸血鬼なら百歳を超えるまで血は飲まない」

 ミニバンは表通りを右折し、裏通りに入った。薄暗い道では陽光の力も少し遮られる。

「というより、まともに飲めない。百歳までは、まだ血を分解する酵素が体の中に出来上がっていないから、上手く分解できずに蓄積する。

ちょうど、酒を飲み過ぎた二日酔いみたいになる」

「じゃぁ、血を飲むのは百歳を超えた吸血鬼だけ?」

「いや」

 ここが難しいところなのだ。

「百歳を超えると、ほとんどの吸血鬼は食事することを止める」

「……食べないの?」

「何も食べなくても生きていられるようになるから、面倒くさがって食べなくなる。だけど、百歳以下の吸血鬼は食べなければ飢えて死ぬ。だから血を好む吸血鬼のほとんどは百歳以下の若造だ」

「血を飲めば二日酔いになるんじゃないの?」

「不思議なことに、血……特に人間の血は麻薬の入った酒みたいなものでね。ひどい二日酔いの後に嘘のような覚醒があるんだ。でもそれは持続しなくて、今度は飲んだ後よりもひどい二日酔いになる。重症だとここで死ぬヤツもいる。内臓が破裂するような痛みと割れるような頭痛に耐えると、次に焼け付くような喉の渇きを覚える。それでまた血を飲むと一時的に苦痛が治まるから、結果的に血以外は胃が受け付けなくなる。百歳までこんな生活を続けていると、血を分解する酵素が普通より多いから、血に対する欲求が強くて押さえきれなくなる」

「……だから、モードレッドは大量殺人犯になった?」

「まぁ、そう考えるのが妥当じゃないか」

 それきり朝香は黙り込んだ。

 スペクストがミニバンを止めた。

「着いたぞ」

 そこは都心のビル群の一角にある、古びた七階建てマンションの前だった。三十年ほどは経っている壁面はひび割れて所々剥がれ落ちている。

 エレベーターはない。狭いエントランスホールは掃除されているものの、管理人室とプレートがはめ込まれた出窓はカーテンがかかったままで誰がいる様子もない。

階段で四階まで昇り、スペクストが一室の呼び鈴を鳴らす。

 しかし応答はない。

 数斗はなおも呼び鈴を鳴らそうとするスペクストに呼びかける。

「……やっぱり一人は下で待っていた方が良かったんじゃないか?」

「俺は突撃部隊だし、アンタは補佐。朝香は初めてだから残しておけない」

 誰も残れないわけだ。

「俺だったらここからでも飛び降りられるしな」

 四階とはいえ地上から十メートル以上あるのだが。尋ねるのも馬鹿馬鹿しいので、数斗は黙殺した。

 しばらくしつこいほどスペクストは呼び鈴を鳴らしたが家主は一向に顔を出そうとしない。さすがにスペクストも口を引きつらせた。

「もしかして、夜歩きに備えて律儀に昼寝してるとか…?」

「さぁ? でもこのままじゃ仕事にならないぞ」

「困るねぇ」

 スペクストは軽く溜息をつくと、ドアノブを掴む。そして無造作にノブを引いた。

 ドアは批難の悲鳴を上げて、玩具が壊れるように無残に一瞬で引きはがされた。

 その途端、辺りに異様な臭いが満ちた。鉄錆のような、それでいて生臭い異臭である。

「……血の臭いだ」

 数斗は鼻を押さえて顔をしかめた。血の臭いは毒なのだ。

 惑わされる。

 スペクストはドアを壁に立てかけて、部屋に土足で踏み込んだ。続いて朝香が、そして数斗もそれに続いた。

 短い廊下を進むにつれて濃くなっていく血臭を堪えて、視界に入れたのはツートンカラーの部屋だった。

 何処もかしこも、白いシーツで覆われているのだ。六畳二間にダイニングキッチンがついた部屋である。その部屋全てに真っ白いシーツが張り巡らされ、シーツには黒みがかった赤が世界地図のように染みついている。

 朝香がシーツの端を掴んでいる。

 その腕を掴んだ。

「何?」

「……止めた方がいい」

 興味本位では見ていけない。

「スペクスト」

 彼の手がシーツを握りしめた。

 制止する間もない。

 ツートンカラーのシーツは跳ね上がる。

 風に舞い上がった布の下から、一人の男が起きあがる。

 辛うじて近くにいた朝香を何もない玄関に突き飛ばす。怒鳴り声が聞こえてきたが、むせかえるような血臭に、やがて何も聞こえなくなった。

 安っぽいソファとサイドテーブルが姿を現した。しかし、それだけではない。

 スペクストは玄関に続く廊下の口に立ち塞がって、ソファとシーツの間から立ち上がる男を凝視する。

 冬用のジャケットを羽織った三十代ほどの男だった。青白い顔をうつむけたまま、焦点もあわないのかふらついている。

 吸血鬼にとって、こんな場所で眠るのは自殺行為だ。

 こんな、死体のばらまかれた場所で。

 否応なく視界に入ってくるのは、女の腕や足。それ以上は錆び付いた血にまみれて見えない。

 男はぼんやりと顔をあげる。急激に焦点をあわせ、こちらを睨む。

「……アンタたちは」

「――S・S・Cだ」

 スペクストの声に、男は形相を歪めた。

 血塗れの床を蹴る。

 ソファの端を足がかりに、スペクストに向かって腕を突き出す。すると爪が異常な速度で伸びてすぐさまスペクストの首筋に迫った。

 しかし、背負っていた愛剣を引き抜いたスペクストにへし折られて、男はそのまま横殴りに蹴り飛ばされる。リビングと同じように死体置き場になっている隣の部屋に首から突っ込んだ。

 男は動きが鈍っているようだった。

「酔っ払ってる」

 告げるとスペクストも頷く。

 男は血を飲み過ぎて、昼に動けなくなっている。血は、吸血鬼本来の性質を強くするため、夜にしかまともに動けなくなるのだ。

「数斗」

 スペクストは改めて巨剣を構えた。

「朝香を連れて外に出てろ」

「そうさせてもらう」

 血臭に酔いそうだ。

 数斗は玄関先で立ち往生していた朝香を連れて部屋を出る。

「スペクストは?」

 腕を引かれて階段を降りながら、朝香は今出てきた部屋を顧みる。

「後で来る」

 昼の日差しがマンションに入った時よりも強くなった気がする。しかし、それは錯覚だ。

 酔いかけている。

「……ちょっと、いつもより顔色悪いわよ」

 女の声。

 腕に細い指が触れる。

 目眩が頭痛を引き起こす。

 数斗は朝香の腕を引いて、自分の前を走らせた。

「……先に」

 不審な顔で彼女は見上げてくる。

 ともすれば彼女の動脈を視線が探す。

「……マンションの外へ」

 朝香はしばらくこちらを眺めていたが、やがて残りの階段を下っていった。

 亜麻色の長い髪を見送らず、すぐ側の壁によりかかる。

 古い記憶が目の奧から焼きついてくる。長い髪の女の影が、浮かんで、消える。

 しかし、それは現実の異音にかき消された。

 窓ガラスが盛大に割れる破裂音である。

 目の前をガラスの破片が陽光を反射して通り過ぎていく。

 階段の踊り場から外を覗くと、同時に落下物を見つけて顔をしかめる。

 吸血鬼の男だ。四階から飛び出してきたらしい。それを追ってスペクストが派手な音と共に飛び降りてくる。

 下には朝香が降りているはずだ。

 数斗は舌打ちもそこそこに階段を駆け下りた。

 階下からひどい轟音も響いてくる。

階段の先のエントランスホールを抜けて誰もいない管理人室を通り過ぎる。

 外へ出ると、目立たないように止めたはずのミニバンが天井からひしゃげていた。十中八九、飛び降りてきた二人に踏みつぶされたのだ。

「……鞠に怒られるぞ」

 低く呻いていると、ミニバンの反対方向から朝香が顔を出した。

 彼女は片手に日本刀を携えている。

「スペクストがあっちに追っていったわ」

 朝香はビル街の奧を指さして、日本刀を鞘に戻した。

「襲われた?」

「逆に袈裟切りにしてやろうと思ったけど、逃げられた」

 たくましいものだ。

「どうする。この車」

 嘘のように潰れたミニバンを指さすと、朝香は自分に責任は無いとでも言うように肩で息をついた。

「スペクストが引いて帰るんじゃない?」

 どうやら潰したのはスペクストらしい。

「……とりあえず、行ってみるか」

 一応は、スペクストが向かったビルの奧へ覗きに行ってみる必要がある。

 数斗は朝香と連れだってビル街のさらに奥まった道を明るい入り口から眺める。

「スペクストー」

 気のない呼びかけをしてみると、声が少し反響した。

「……数斗」

 暗がりにスペクストの声と、Tシャツが見えた。

 だが、暗闇から現れたスペクストの上半身は、仰向けに倒れ込んだ。

 彼は目を見開いたまま、気絶している。

「スペクスト……!」

 駆け寄ろうとした朝香の肩を数斗は掴んだ。

「何を…」

「誰だ」

 朝香を無視してスペクストが倒れた正面を睨む。

 靴音が響いた。

 わざとらしく反射していく音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。

 白い影が閃いた。

 揺れたのは、長いコートの裾である。歩調にあわせてなびいている。

 うっすらと浮かび上がってくるのは白い髪の男だった。

 精悍でありながら気品もそなえた容貌に、深い笑みを刻んでいる。肩より少し長い髪はわずかな風に揺らめいて淡い光を反射した。

一見、痩身に見えるその片腕には男が抱えられている。先程の吸血鬼の男だ。気を失っているのか死んでいるのか、男は糸の切れた操り人形のように動かない。

 革靴から少し音をたてて、白い髪の男は数斗達から十メートルほどの所で立ち止まった。

 こちらを眺めて穏和に微笑む。だが、人に寒気をもたらす笑みだ。男の紅玉のような目には、赤い水を湛えて計り知れない狂気が渦巻いている。

 男は舞台役者のように優雅に一礼した。

「お初にお目にかかる。ミスタ・貴恵村」

 名指しをされて良かったことは何もない。だが、こういう場合、黙っていると了承と取られてしまう。数斗は落ちつき払って応えた。

「人違いです」

 朝香が呆れてこちらを見遣ったのがわかったが、とりあえず気がつかなかった顔をしておく。

 男は微笑んだまま、表情を動かさなかった。

「それは失礼致しました」

 大した根性だ。

「いや。それよりその男をどうしました?」

「ああ、この方ですか?」

 男は自分が抱えた男を軽々と持ち上げる。

「私の知り合いでしてね。顔色が悪いので声をかけたら倒れてしまって」

 見え透いた嘘である。男は明らかに意図的に気絶させられている。だが、虚言はこちらも同じだ。

「困りました。私達もその男に用があったのですが」

「あなたも、少し顔色がすぐれませんね」

 男の瞳が鋭く光った。

 数斗は朝香を下がらせた。

 男が一歩踏み出してくる。

「血に、酔われましたか」

 生臭い風が流れた。

 暗闇が色を増す。

 抱えられた男の首元から流れているものがある。

 銀色の血だ。

 男は、死んでいる。

「スペクスト!」

 呼びかけるが彼は動かない。

「血の味をお忘れになられたか?」

 舌打ち混じりにスペクストに駆け寄る。スペクストは完全に意識を失っているようだ。彼の体を抱え起こして、腕を肩に担ぐ。

「あなたともあろうお方が、血も飲まずに何をなさっておいでだ」

 からかいと嘲笑を含んだ腐臭が正面に立ち塞がる。

 白い髪の男が笑みを浮かべて立っているのだ。

「また改めて、ゆっくりとお話いたしましょう。あなたがご自分を取り戻されるように」

 風が吹いた。

その一陣の風にさらわれて、白髪の男は幻のように消えた。

 数斗はそれを見送らず、さっさとスペクストを抱えて朝香を顧みた。

 彼女は顔をしかめている。

 視線を向けると、珍しく目を逸らした。

 霜のような沈黙が降りた。

 声をかけようとしたが、静寂に負けて口を閉じる。

 無言で暗がりから出ようとすると、制止するように声がかかった。

「血を飲んだことあるのね」

 絞り出したような低い声だった。

 侮蔑と畏怖が入り交じる、聞き慣れた声だった。

 そして幾度となく問われた。

 血を飲んだのか、と。

「吸血鬼ですから」

 他に答えようがない。それが唯一の理由であり、全てなのだから。

 歩き出すと、何故か朝香がついてきた。

 無理をするなと言いかけて、機先を制された。

「さっきの白髪男の吸血鬼、血を飲んでた?」

 思わず彼女の顔を見遣る。だが彼女はいつものように苛々と顔をしかめる。早く答えろというのだ。これ以上、へそを曲げられては敵わないので、さっさと応えることにした。

「多分、人間から吸血鬼になった半端者だから、主食は血だろうな」

「……同じ吸血鬼の血も飲むの?」

 彼女も白髪の男に抱えられていた男が既に殺されていたことに気がついていたようだ。

「関係ないんだ。ああいう半端なヤツは、何の血でも飲めれば腹が満たされるから」

 吸血鬼は、育ちで大きく食習慣が変わると言っていい。まともに育てられれば、血など飲まなくて良いのだが、血を飲めばいいと思っている吸血鬼は生涯、血を飲まずにはいられない。それは、半端者と呼ばれる洗礼を受けた者に多い。

「とりあえず」

 数斗は改めて顔をひきしめる。

「どうやって帰るか、考えようか」

「……そうね」

 さすがの朝香も素直に頷いた。

 

      ※


 迎えが来たのは、レッカー車で車を道から運び出した後だった。すでに日は落ち、まだ白んでいる空の反対側から星々がわずかな光を放ち始めている。

「もう何台目かしら」

 大きく溜息をついたのは鞠である。彼女がメネッセを連れて迎えにきたのである。その車は、ひどく目立つ車だった。後部座席が二つ、向かい合っているのだ。見たことも聞いたこともないような車にスペクスト共々乗せられて、数斗は居心地悪さから隅に座った。

「今度からもっと安い車をスペクストには運転させよう」

 苦笑したのはアキラである。まだ目を覚まさないスペクストと朝香と並んで数斗が一つの後部座席に座しているが、少年が広い後部座席の真ん中に腰掛けている。その隣で人形のようにミヤコが付き従っている。

 朝香も数斗も山奥に帰るだけの交通費を持っていなかった。不幸中の幸い、朝香が携帯電話を持っていたので鞠に連絡したのだ。しばらくすれば迎えに行くから、と待っているとレッカーが鞠の名前でやってきた。作業員に事情を話すと、やっぱりまだ待っておけと言われて今に至る。

 やっと休めると安堵するが、まさかこんな車で来ようとは誰もおもうまい。案の定、都心の信号で立ち往生すれば否応なく注目を浴びている気配がする。気配だけで済んでいるのは、窓全てにカーテンが掛かっているためだ。

「その、白い髪の吸血鬼だけれど」

 向かいのアキラとミヤコの隣に座している鞠が顔をしかめた。

「ああ。あの危ないの。瀬戸さんのお知り合い?」

「写真でならね」

 鞠が手渡しきた書類のトップにピンぼけした写真がある。それは瞬間に撮ったものらしく、中央で何処かのホテルに入ろうとしている白髪の男以外、何かわからない。

「これを撮った人、この後どうなったか知りたくない?」

 鞠が少し笑うので、朝香が苦笑いした。

「あまり知りたくないです。師範」

「そう? 残念だわ」

 鞠は肩を竦めた。

「死んだ」

 代わりに応えたのはミヤコだった。

「全身の血を抜かれて、川に浮いていた」

 朝香が低く息を呑み込んだ。思わず声をあげかけたのだろう。

「まぁ、そういう男なんだよ。モードレッドという男は」

 沈黙を更に重くするような名前を挙げて、アキラは笑みさえ含んで首を傾げる。

「だから、君たちが全員無事だった、というのはまるで奇跡だ。よかったら、どんなマジックを使ったか聞かせてもらえないかな」

「マジックって……」

 朝香に横目で睨まれて、数斗は目をそらした。

「土左衛門作るのが趣味の変態は知り合いにいないよ」

「でも、アンタに会いにきたんでしょ?」

 痛いところをついてくる。

「吸血鬼には里心みたいなものが強いってことはないのかな。あなたが昔、洗礼したとか」

「今まで一度も、“子供”を持った覚えはないよ」

「じゃぁ、弟とか」

「……聞く相手が違うと思うんだけど……。第一、洗礼は契約だから親子関係はあっても兄弟って意識はあるかどうか怪しい」

出生率の低い吸血鬼は、その人口を多種族に洗礼を受けさせることによって保っている。“親”となる吸血鬼が自分で“子供”を決めて、自分の血を与える。吸血鬼の血は与えた者の体内に血を分解する酵素を植え付ける。洗礼を受けると、文字通り吸血鬼に生まれ変わるのだ。

「それもそうだね。吸血鬼は僕ら、狼族とは違って家族で行動しないから。質問を変えよう。あなたは何故、モードレッドが人間から吸血鬼になったと思ったんだ?」

「人間からの洗礼者が陥りやすいんだよ。血に酔うのは」

洗礼によって血の味を欲しがる者が多いのである。洗礼を受けた者も、根っからの吸血鬼もあまり差異はないのだが、血の味を覚えて堕落した者、特に洗礼を受けた者は半端者と呼ばれている。無論、洗礼を受けた者が全てそう呼ばれるわけではない。要は親の責任なのだ。

「吸血鬼の社会っていうのは、元々、貴族社会でね。実力がものを言うんだ。だから新参者は有力者の元で修行して実力をつけてから位階をもらう。それでやっと百年。だから幾ら血が欲しくても血なんか飲ませてもらえない。でも最近はいい加減によく考えもせず洗礼を施す痴れ者がいる」

「だから有名な家庭内害虫みたいに増えてるのね」

 妙に納得したように朝香が頷くので、数斗はさすがに顔を歪めた。

「……それは身もフタもないんだけど…。体勢が変わってきているから。多分、人間の中からの洗礼者が増えたせいだろう」

「残念ながら、そういうことだろうな」

「……どういうこと?」

 頷いたアキラを見遣って、朝香が不安そうに眉を歪めた。

「人間は自分が持っていないものに対しての欲が深い。どの妖怪だって、欲はある。でも、相対的に見て、人間の方が圧倒しているんだ」

「人間の方が欲深ってこと?」

「欲があることは悪いことじゃない。欲があるということは向上心が強いことだ。向上心は発展を促す。だから、人間はどの種族よりも子孫を増やしてきた。他の種族を根絶やしにしながらね。それが生存競争だ。でも、その生存競争に吸血鬼は干渉した」

「共存するということは吸収しあうこと。だが、それには人間は欲が強すぎる。誤算だね」

 アキラは冷笑した。今、吸血鬼達がもっとも後悔して、頭を痛めている問題なのだ。

「血は、飲めばその血の持ち主の力を得たような気分になる。実際、栄養になっているわけだから、力を吸収していると考えても間違いじゃない。だけど、若い吸血鬼、特に人間の洗礼者は血を力の源と思いこんでいる者がいる。それが一番の懸案だ」

「どういうことなの?」

「つまり、彼等の理屈から言うと力の強い者の血が欲しいんだ」

「だから?」

 数斗は溜息をついた。馬鹿馬鹿しいことなのだ。自分で蒔いた種に、首を絞められているようなものだ。

「まず自分を吸血鬼にした“親”を殺して血を飲むんだよ」


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