大通り
冗談じゃない。
何を今さら、危険なことに手を染めなければならないのか。
数斗は呟いて、客の帰った居間で暗くなった天井を眺めていた。
ここに住み始めたのはまだ一年と少しだった。
長くても十年ごとに住処を変えなくては、人間の大家に怪しまれるのである。しかし、近頃は安い物件も減少傾向にあり、十年も住める家さえ無くなりつつある。
人ではない者達にとって、食料問題と就職の次に問題なのが、住居である。少なくとも人の倍の寿命があるからだ。中には老いもない者もいて、長年同じ姿では気味悪がってすぐに追い出されてしまう。幸い、数斗の場合は最も懸案されるべき食料問題がない。食べ物の嗜好が限定されないのだ。
それでも、自分の生活に精一杯で、なかなか自殺もできない分、人間よりもタチが悪い。
「……他人の世話まで見てられるか」
正直な感想だった。結局のところ、余分に世話してやれるほどの財力も心の広さも持ち合わせがない。それだけのことだ。
窓が鳴った。
風かと寝ころんでいた頭をあげると、目にあらぬものが飛び込んできた。
一本の手である。窓の桟の辺りから青白い手がのびている。
それが部屋の奥にある唯一の安っぽい窓ガラスを手のひらで叩いている。
ここは、二階である。
音が増えた。
一つ、二つ、三つ……上下左右、八方から手が増えていく。
各々に呼び寄せるかの如くガラスを叩き、それはいつしか一つの音となる。
部屋さえ揺るがす大音響になった時には、視界を埋め尽くすほどの手という手が窓ガラスを叩いている。
数斗はさすがに起きあがって、すぐ、部屋から出ようとしたが、妙な気配にそのまま動きを止めた。
だが、次瞬。
窓ガラスが反動に耐えきれず、砕け散った。同時に、木製のドアが何者かに蹴破られる。
二つの破片を避けて、部屋の中央に逃げた数斗は侵入者を自室に確認した。
それはスーツを着た中年の男、学生服の少女といった、人間だった。
中には小学生ほどの子供もいるが、いずれも白目をむいている。口をだらりと開け放ち、本来ならば出し得ない力を使ったためか、彼等の腕はいずれも血塗れになっていた。
血色の悪い幽鬼のように、彼等は奇声をあげて数斗に向かって襲いかかってくる。
数斗は最初に向かってきた中年の男の腕をとって、腹に肘鉄を食らわせる。
一人や二人であれば、いくら数斗であっても気絶させることができるが、雪崩れ込んでくる人数は十人や二十人ではきかない。
ふと思い至って、学生服の少女を捕まえて、羽交い締めにした。
首筋を確認して、顔をしかめる。
「……偏食吸血鬼か」
深く穿たれた二本の牙痕は青白く変色して、少女の鼓動と呼応して複雑にうねっている。吸血鬼に噛まれたこの傷口から呪をかけられて、死んでなお操られているのである。
異音を聞きつけて、少女から手を放した。
見遣れば、少女の口が真っ赤に裂けて醜い犬歯があり得ないスピードで生え替わっているのだ。他の人間達も同様に変化を起こしている。
ある者はコウモリのような翼を背中から生やし、ある者は鉤爪のような爪を伸ばす。
B級のホラー映画のような光景が次々と展開されていく。
一人が、何を思ったのか大きく奇声をあげた。すると、それに呼応して狭い部屋に集まった五十人ばかりの半妖怪達が一斉に応えた。
音波は建物に亀裂を生み、轟音と共に部屋ごと引き裂いた。
壁にへばりついて、様子を見守っていれば、部屋は屋根どころか一階まで分断されている。まるで巨人が屋根の上から狙って剣を振り下ろしたようになっている。
数斗はその隙間の屋根の部分に手をかけて、反動を利用して屋根上に這い上がる。
「俺は弁償できないからな!」
なおも追いすがってくるB級ホラーに言い置いて、数斗は屋根から暗い街路へ飛び降りた。
銭湯などが残る古い町並みは入り組んでいて、追っ手の姿は見えなくなる。
数斗は走る速度を緩めず、銭湯近くに未だ残っている電話ボックスに向かって、入り込んだ。
確か、と黒コートのポケットを探って出てきたのは一枚の紙片である。書いてあるのは、今朝、追いかけてきた(正確には数斗が一方的に逃げた)女の電話番号だ。勝手に机の上に置いていった紙切れをこんなところで使う羽目になるとは思ってみなかったが。
コートのポケットに十円玉を見つけて、受話器を取ってわずかな光源を頼りに電話番号を押す。コール三回ほどで反応があった。
『はい』
聞き覚えのある女の声だった。
「瀬戸さんか? 貴恵村だ。アンタ、新しい死人形に覚えはないか?」
質問したところで、電話ボックスのガラスが殴られた。見遣れば、追いかけてきたと思しき青白い顔の男がへばりついている。
『死人形? まさか襲われているの?』
「察しが良くて助かる。部屋が壊された」
再び轟音。電話ボックスに次々と追っ手達が取り付いているのだ。
『今、何処? すぐ助けを……』
「それより。死人形に心当たりはないんだな?」
『とにかくそこを動かないで。助けを寄越すわ』
何か知っているらしい。だが、十円玉一枚で聞き出せるほど単純でもないようだ。
「間に合えばな」
すでにヒビの入った電話ボックスの中で、数斗は苦笑して電話を切った。
電話ボックスが壊されるのも時間の問題である。
白濁したヒビからガラスが落ちてきた。そこから長い爪の凶器が突っ込まれてくる。
「伏せなさい!」
くぐもった少女の声が聞こえてきた。
強力な光に促されて、数斗は身を屈めた。
次瞬。
電話ボックスの上半身が、無くなった。
焼けこげた匂いと共に、数十メートル先に飛ばされて、へばりついていた木偶人形共々ぐしゃりと潰れる。
数斗は即座にその場を逃げた。しかし、残っているのは電話ボックスの残骸だけで、あれほどしつこかった追っ手達が嘘のように消えている。
「グールなら、自分で何とかできたんじゃないの? ミスタ・ヴァンパイア」
血臭と硝煙を洗い流した風の向こうから、一人の少女が現れた。
亜麻色の長い髪をなびかせて、身につけるのは、正月にしか見られないような朱袴の巫女装束である。意思の強い光を放つ灰色の瞳は十七、八歳ほどの大人びた容姿に幼さを残している。手にした日本刀は、どう見ても不似合いだった。
電灯の薄暗い光の中では幻のように見えた。
「……巫女?」
尋ねると、少女はかぶりをふる。
「ただのバイト。途中で呼び出されたの」
今時の少女らしく、やたらと派手なストラップのついた携帯電話を袖から取り出す。
「もう終わりだったから良かったけど。こんな格好でうろつく羽目になっちゃった」
彼女はさも数斗のせいだと言わんばかりに不機嫌に溜息をついた。
「それはわざわざ、どうもありがとう」
数斗はコートのポケットからライターと煙草を取り出した。
「その格好で帰るのが嫌ならコート貸すけど」
「冗談やめてよ! どこのバカが真夏の暑苦しい夜にそんなコート来て歩くの?」
顔をしかめて手を振る少女を横目に、煙草をくわえてその先に火をつける。紫煙が電灯のない暗闇に吸い込まれて消えた。
「アンタが新しいメンバーなんでしょ?」
「違うよ」
何処かにメールを打ち始めた少女を見遣りながら、数斗は肩を竦めてみせた。
「だって、全身真っ黒のグラサン男がメンバーになるって、教授からメールあったのよ。あんたがキエムラカズトなんでしょ?」
数斗はうんざりと明後日の方向に目をやった。
「教授も鞠さんもあんた気に入ってるみたいだし。あたしは別にどうでもいいけどね」
「君は人間だろ」
今日会ったのは、いずれも人間ではない。彼等の言う、“メンバー”には人間もいるらしい。
「退魔師。の家系らしいわ」
そう言って、少女は日本刀を鞘に収める。
「家系?」
「そ。小さい頃から日本刀振り回してたんだけど、詳しいことは知らないの」
危険な家系である。恐らく、あの刀であれば、丸太一本ぐらい軽く切断できるはずだ。
ゆっくりと少女の隣にやってきた車が止まった。左ハンドルの外車だ。数斗には車種までは判断できなかった。
窓が緩慢に開くと、助手席の女が顔を出した。瀬戸鞠だ。
「二人とも、乗って」
少女はさっさと後部座席に乗り込むが、数斗は首を振る。
「いや、俺は……」
「この状況が警察に説明できるなら残ればぁ?」
車の中から少女の声が聞こえてきた。
電話ボックスやアパートが真っ二つになってしまった現象をどう説明しろというのだ。
数斗は釈然としないまま、車に乗った。