借家
差し出した水を、不思議そうに眺めて、少女はこちらを見返してきた。
彼女は先ほど、狼に変身した少女である。破れた白のワンピースの替わりに、今は黒のワンピースを着ている。
数斗は何と応えようか迷ったが、結局何も言わずに彼女の前に水のペットボトルを置いて、狭い机の端についた。四畳一間のアパートに図体のでかい大人三人と子供が一人入れば、充分だった。幸い、この部屋には机以外に家具はないので、誰かが立つハメにはならなかったが。
「すごい所に住んでるのね……」
瀬戸鞠と名乗った女が呆れた顔で薄汚れた部屋を見回した。
築四十五年の木造モルタルアパートだ。宅地開発の波にも負けず、しぶとく生き残っているのだから、もはや都会においては天然記念物である。
「水もないのか?」
少女に渡したものと同じミネラルウォーターのペットボトルを飲んでいた赤目の男はバイザーの奧の目を向けてきた。
「あいにく、水もガスも電気も止められていてね」
「その割に汚れてねぇな」
辺りを見回しながら言ったのは、青髪の男である。
「今でも銭湯やコインランドリーもあるし、飯だって食えるよ」
いい加減、生活質問に飽きて、数斗は女を見遣った。
「……それで、俺に話は?」
しばらく物珍しげに眺めて鞠はようやく数斗に向き直る。
「ええ。……ええと、何から話そうかしら…」
「始めに、話そうとしていたことから」
「そうね…。貴恵村さん。仕事をしてみない?」
「どんな?」
大きな不信感を抱きながら、つい問い返してしまうのは、職業難の苦渋をなめてきたフリーターの悲しい性質である。
心の悲鳴をおくびにも出さず、見返すと彼女はうっすらと笑んだ。
「あなたには良い仕事だと思うわよ。――…吸血鬼のあなたには」
数斗は目を細めた。
鞠は数斗の目の奧を探るように見つめてくる。
サングラスをかけてはいるが、この目は眩しすぎるほど明るく、この薄暗い部屋を映している。色の濃いサングラスも、黒に染めた髪も、本来の色を隠すためだ。血色の悪い肌は石膏のようで、きわめつけは、
「………出来損ないだけどな」
唇を押し上げると明らかに長い犬歯が鋭く伸びている。
見る者が見れば、一目で分かる吸血鬼の長い犬歯である。
「出来損ない?」
鞠が怪訝そうに尋ねるが、数斗は応えなかった。
「アンタ達も、人間じゃないみたいだが?」
四人は顔を見合わせたが、彼等も応えなかった。
「そうね。あなたも知っていると思うけれど、都心には私たちのような種族がたくさん暮らしているわ」
鞠はあえて種族と言ったが、いわゆる妖怪である。
古来、俗に化け物と呼ばれる類の者達は、山奥に暮らしていた。しかし、開発の憂き目に遭い、自然の動物達同じく、都心で暮らさなければならなくなったのだ。もちろん、山奥にしぶとく生き続けている者もいるが、大半は人間社会に進出するしかなかった。上手く人間社会に馴染んだ者は左うちわで暮らしていたり、普通に学校や会社に通っている。案外、隣人は化け物家族だった、ということも多いはずだ。そんな事実を知るのは、一部の人間と化け物達本人ぐらいしかいないのだが。
「でも最近になって、トラブルが頻発しているの」
ニュースで近頃取り上げられるようになった怪奇事件は、化け物達によるものが多い。
「そうなんだろうな」
適当に相槌を打っておく。話が怪しくなってきた。
「私達は、その事件を依頼によって解決するトラブルシューター会社なの」
「断る」
即答すると、鞠は瞬いて呻く。
「……どんな仕事か聞かないの?」
「聞けば、どんな目に遭うかわからないからな」
数斗は面倒臭そうに手を振った。
「俺はもうずっと平穏無事に暮らしてるんだ。今更、人助けするような仕事にはつけないよ。他を当たってくれ」