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オリジン  作者: ふとん
12/15

箱庭

 首筋に唇を当てている様は、傍目から見れば愛撫のように見えるかもしれない。

 しかし、いくら気まずくても止めることはできなかった。

 呪を直接、傷口から送り込み、動脈を塞いで残っている呪を取り出さなくてはならない。

 長い呪はそれだけ深く浸透させなければ、効果がないのである。

 長い聖典のような呪を唱えながら、おかしな少女だ、と考える。

 この少女は、自分が仲間から騙されていたことを責めようともしなかった。

 ただ、自分が騙されていただけで良かった、と。

 確かに、誰からも愛されるべき娘だ。

 だが、自分の暗く冷たい部分にまで触れてくるこの少女は、心底苦手だと感じている。

 反面、どこまでも自分に正直なこの少女はいつまでも素直なままで、と願ってもいる。

 呪が終わる。

 少し物足りない気がして、苦笑する。

 血に少し酔ったらしい。

 頭痛を堪えて顔を上げると、ユエがこちらを睨んでいた。

「……動脈を塞いだんだよ」

「そうなんでしょうね」

「怒るなって」

「怒っていません」

 娘を取られた父親の気分らしい。

 盛大な勘違いもいいところだ。

 急に馬鹿馬鹿しくなって小柄な少女をユエに押しつけるが、ぐいと服を引っ張られてその場に残った。

 朝香の左手が、服の裾を掴んでいる。そっと、だが無理矢理はがして、今度こそユエに押しつけた。

 すでに夜明け近い。

 そろそろ体がだるくなる頃だ。

 スペクストが半ば操られていたことは分かっていた。そしてそれをすぐ解かず、充分、泳がせてから拘束して解いた。それから彼には、あの白髪の吸血鬼を騙し続けてもらったのだ。計画はアキラが立てたが、実行は数斗である。何もしらない朝香にスペクストが白髪の吸血鬼に接触させ、おびき寄せて袋だたきにして捕まえる予定だったのだが、思わぬ誤算が起こった。

 大きく伸びをすると、静世が背中を叩いてきた。

「エッチ」

 彼女は計画を知ってはいなかったが、感付いてはいたらしい。しかし、朝香がこんな事態になってしまっては、どんな説明も言い訳になる。

 謝罪の言葉は言えず、叩かれた背をさすって、言い返す。

「セクハラ」

 すると、静世は今までにないほど情けなく笑った。

「あとで朝香に言いつけるから」

「死にたかったなら止めやしないからって言っておいて」

 そう言って、静世の肩を押してやる。彼女は素直に朝香を抱えるスペクスト達に駆け寄っていった。

 静世は許してくれている。

 久しぶりに心地よい倦怠感が体の芯にたまっていた。

 ズボンのポケットから運良く煙草をみつけて、ライターで火をつける。

 くわえた煙草の向こうから、紫煙と共に昇ってくる苦手なはずの陽光が、ひどく奇麗に見えた。

 ふいに風が吹いた。

「お疲れ様でした。閣下」

「やめてもらえませんか。それ」

 紫煙を吐いて、隣に並んだアキラを見遣った。三揃いのスーツを着た少年は大人びた仕草で肩を竦める。

「では、皇子」

「もっと嫌です」

 アキラは苦笑した。

「ではどうお呼びすれば?」

「数斗で結構です」

「礼儀に反します」

「落ちぶれた貴族に礼儀も何もありませんって」

「いいえ。恐れ多くもグランドマスターのご子息に、そんな非礼は」

「じゃぁ、さっさとここから開放して下さい」

「それはできません。マスターのご指示ですから」

「…………黙っておけば? ほら、俺、役に立たないですし」

「何を仰います。私のかわいい娘を助けていただいてありがとうございまた」

「……あなたも文句を言いに来たクチか」

「何か?」

「いえ」

 とぼけて煙草の紫煙を再び吐く。少し長く生きるととぼけ方ばかりが上手くなるようだ。

「親父殿はまだ生きてますか」

「お元気でいらっしゃいますよ。早くお孫さんのお顔がみたいと」

「……またその話…。もう呆けてるんじゃないですかね」

「楽しみになさっておいでなんですよ」

「……千五百年以上も気長なことだ」

「二千五百年以上生きていらして、一度も妻帯されたことがないという方が気長だと思いますが」

「親父殿は、他に色々作ってるんでしょうから。息子まで作ることはありませんよ」

「ご兄弟の中で一番、可愛がられているじゃないですか」

「どうせ俺は父親似ですよ」

「ではグラール卿」

 呆れた声で返ってくる。

「少しは自信をお持ちなさい。あなたはそれだけの価値を持っている」

「買いかぶりです。歳をとれば誰でも可能だ」

「老人は、歳を取ったことで怠惰を身につける。だが、あなたは歳を得ることに怠惰ではない。確実に、何かを身につけて歳を得られている」

 だから、とアキラは笑う。

「私はあなたに敬意を払う。たとえ、私より歳をとっておられなくとも、尊敬をもって」

 声が空中に吸い込まれた。朝日の当たり始めた境内に、すでにアキラの姿はない。

 朝香の容態を見に行ったのだろう。

 年を取ることによって、誰もが立派な賢者になるわけではない。

 むしろ老人は愚者だ。

 自分の経験から逃れられない遺物である。

 消えていくしか能のない遺物にどうして敬意を払う必要があるのだろうか。

「……だから、買いかぶり過ぎなんだって」

短くなった煙草を陽光に向かって放り投げた。


       ※


 パウンドケーキの型にタネを流し込んで、ならして空気を抜いてからオーブンに入れる。

 コンロのカレー鍋をかき混ぜて、野菜を刻んでサラダボールに盛りつける。梅としそを混ぜたドレッシングをかけて、レモンを混ぜた水差しを冷蔵庫から出した。

 カレー皿に炊きたてのバターライスを盛って、茄子の入ったカレーソースを流し込む。

「誰も手伝う隙がない」

 確かに、数斗のような図体のでかいのがキッチンでウロウロしていれば誰も入れなくなるとは思うが、手伝えないことはない。

 隙がないと称したスペクストはカレー皿を受け取ると、感謝の言葉もそこそこにスプーンを取って食べ始めた。どうでもいいことなのだが、この男、食べているものが十円の駄菓子だろうと、高級牛肉だろうと、実に旨そうに食べる。

「見ているこっちが幸せな気分になりますね」

 隣で同じように食べ始めたユエがそう苦笑した。

 ダイニングでカレーを食べているのはこの二人だけである。

 交代で何かをキッチンに漁りにくるのを見かねて、数斗は残っていた材料でカレーなんぞを作ってみたのだ。

「ケーキが焼けるまでに、ミヤコとメネッセも呼んできてくれ」

 メネッセは巨漢に似合わず、甘党なのだ。

「数斗が見に行った方が早くないか? 今、食べないんだろ」

 既に二杯目をさらおうとしているスペクストに言われて、納得した。

 カレーが無くなってしまう前に連れてこなければならない。

 数斗はダイニングを出て、最奥の部屋へ向かった。

 回廊のような廊下の突き当たりに、メネッセが椅子を置いて仏頂面で居座っている。

「メネッセ。もう少ししたらケーキが焼けるから、カレーの後に食べてくれ」

「ありがたい」

「ミヤコは中に?」

 尋ねると、メネッセはジッと数斗を凝視した。

「平気か」

 心配そうなメネッセに向かって、口元を緩めて失笑する。心配されるほど緊張した顔だったのがおかしくなった。

 地下の、窓のない白壁の部屋には、ベッドだけが置かれていた。

 後から持ち込まれたらしいサイドテーブルと三脚ほどの椅子は何処か異質だった。

 その椅子に腰掛けている淡いピンク色のワンピースを着た少女は、ベッドに横たわる人物の手の上に自分の小さな手を重ねている。

「ミヤコ、もう少しでケーキができる。食べてきたらどうだ?」

 いつもは素直に頷く彼女が、今日に限って首を振った。

 少女の隣からベッドを見下ろすと、青白い顔の朝香が眠っている。小綺麗な白のノースリーブの腕から真新しい包帯が覗いているが、落ち着いた呼吸で寝息が続いている。

 三日も寝れば目が覚めるだろう。

 あとは、どれだけ咬まれた呪に対抗できるか、だ。

 一度、吸血鬼に咬まれると、傷口の呪が吸血鬼との繋がりになるのだ。いくら打ち消す呪で手助けしたとしても、最後は宿主自身の精神力にかかっている。

 三日も眠れば目が覚める。そのとき、人間のままか吸血鬼の奴隷になっているかは本人次第だ。

「ミヤちゃーん。ご飯持ってきたわよー」

 メネッセにドアを開けてもらって入ってきたのは静世である。

 彼女は数斗を見つけると、口を大きく開けた。

「あら。貴恵村さんの分、持ってきてないわ」

 彼女が押してきたワゴンには、三人分のカレー皿とコップ、サラダボール、水差ししかない。

「では私がダイニングに行きます」

 メネッセがのっそりと頭を下げたが、数斗は手招きした。

「ここで食べるといい。俺はケーキの様子を見に戻るから。あとで紅茶と一緒に持ってくるよ」

 三人分の食事をすっかり降ろしたワゴンの取っ手を掴んで、数斗はドアを押し開けた。

 その後ろから、静世が大声を上げた。

「朝香?」

 馬鹿な。

 驚いて振り返ると、確かに朝香がよろよろと起きあがっている。

 しかし、彼女の目の焦点は未だあっていない。

 口を開く。

「グラール閣下」

 少女の口から滑り出たのは、低い男の声だった。

「この娘の容態はいかがでしょうか。毒がよく効いているようだ。娘の意識はまだ、深い闇の中でさまよっている」

「朝香……」

 静世が今にも泣きそうな顔で口元を押さえた。

「いくらあなたでも私の呪を断ち切ることはできなかったのですね」

 嘲笑を含んだ声は少し高くなった。

「口づけの呪は何人にも解くことはできない、そんな迷信を信じておいでなのですか。不可能なことなど何もありません。向上は常に成功へと導いてくれましょう」

「それは人間らしい考え方だ」

 不可能はないと思いこめるのは、人間の特徴だ。

「人間らしい? この私を人間らしいと仰るか!」

 男は悲壮なほど声高に笑った。

「まだ人間で在った頃から、狂人よ、非人道よと言われてきた私を人間扱いなさるとは、まったくあなたは素晴らしい」

「吸血鬼の中で、俺をそれだけ褒めるアンタも素晴らしいよ」

 同族中では、讃えられるどころか恐怖の対象なのだ。

「やはり、あなたとはゆっくりとお話してみたい」

「俺はゴメンだ」

 この役者かぶれと話していると、こちらの頭にまでカビが生えそうなのだ。

「そう仰ると思いました」

 朝香の腕が上がった。

 すると、彼女の手のひらに黒い球体が宿る。

 球体はまず、朝香の手を呑み込んだ。そうして次第に球体……否。ブラックホールはその口腔を広げていく。空間を歪めているのだ。

「……何をするつもりだ」

「お友達もご一緒にご招待いたします」

 徐々に大きくなっている黒い穴に朝香はそのまま身をゆだねて、上半身から吸い込まれ、人間大の大きさに膨れあがった穴は足先まで呑み込んだ。

「私も行きます」

 ワゴンを置いて歩き出しかけた数斗に、静世が並んだ。

「ご一緒する」

 メネッセがその後ろに並ぶ。

 ミヤコも数斗の服を掴んだが、それは離させた。

「アキラに知らせてくれ」

 物足りない表情のミヤコを置いて、三人はブラックホールに飛び込んだ。


 無音の浮遊は一瞬で、足が地につくと、薄暗いが確かに違う場所に立っていた。

 見上げても先が見えないほど高い柱が等間隔で並んでいる。

 八方の柱は白く見えるが、他は暗闇に閉ざされて何も見えない。

「……朝香がいないわ」

 静世は、いつもの朗らかな印象を全て拭い去ったような表情で碧眼を細めた。こうしていれば、彼女が退魔師であることを思い出す。

 優秀な退魔師とは、どんな状況にも冷徹無比でいられる人間を指すのだ。

 妹を、身を焼かれるほど心配しているにもかかわらず、彼女はそれを見事に抑え込んでいる。

 メネッセは低く呪を唱えて、青白い光源を作り出した。小さな炎玉はゆったりと辺りを照らし出す。

「違う空間に出てしまったか」

「いや、同じはずだ。干渉はあったようだが」

 数斗は石造りの柱を叩いた。その踏み出した先で、水が跳ねた。

「……水?」

 訝ったのは束の間、水が勢いよく流れ込んできた。

 あっという間にふくらはぎ辺りまで水に埋まる。

 静世が低く、呪を唱えた。プリーツのロングスカートの裾が水に浸かるのも構わず、腰に備えているウエストポーチから札を抜く。

 彼女が札を投げると、札は高速で飛び、白い柱をすり抜けた。

 二枚目に取り出した符はまだ水位を上げる水の上に浮かべて、印を結ぶ。

 札から炎が浮かんだと思うと、水が一瞬で蒸発した。

 静世はもう一度、空中で印を結ぶ。

 すると、柱の向こうから放ったはずの札が何かを捕まえて返ってきた。

 札に絡め取られているのは、複雑な光を放つ、胎児ほどもある魚である。トビウオのような淡いヒレがやけに大きく、鳥のようだ。

「ウンディーネ」

 数斗が手の平に乗せると、魚は透明な水となって消えた。

「西洋の妖精ですね。誰にも知られていないような湖や泉、川の上流に住む気まぐれで、感情の起伏の激しい妖精」

 後にのこった札を拾い上げて、静世は静かに述べた。

「見たことが?」

「いえ、文献で。まさか、こんな場所で本物を見ることになるとは思ってもみませんでしたが」

 四元素妖精は、見ること自体、なかなかできないのだ。良識さえあれば、彼等を捕まえようなどと思わない。

四元素(エレメ)妖精(ント)も大したことはありませんのね」

 女声が高い天井に響いた。

「伏せろ!」

 メネッセの声で、咄嗟にしゃがみ込むと、何かが辺りの柱を一線した。

 摩擦で上がった煙と共に、瓦礫が落ちる。一線された柱は上下にわかれている。それが視界の届く半径五メートルほど続いている。

「お久しぶりですわ。グラール閣下」

 暗闇から音もなく現れて、優雅に一礼したのは、いつかサラマンダーを連れてやってきた秘書風の女だった。

「……ハネイア、だったかな」

「光栄ですわ。閣下」

 艶然とした声は何処か毒を含んで神経を刺激する。

「今日は、君に主に招待されたはずだけど」

 女は質問には応えなかった。

「あの方に、あなたは必要ありませんわ」

 女の指先がぐにゃりと変形した。それが大きな口だと分かるのに、少し理解に苦しんだ。

 口腔が開くと、先の割れた長い舌が出て引っ込んだ。

 血色の悪い舌は、確かに蛇のものだ。口腔の後ろから鱗の頭が顔を出した。丸い目が開き、次いでぞろりとした巨体がずるずるとはい出してくる。三分の一ほど作り上がったところで、蛇は成長を止めた。

 右腕に大蛇を備えたハネイアは、軽く笑った。

「ここでお帰り願えるのでしたら、道を作ってさしあげますわ」

「申し出は非常にありがたいんだがね」

 数斗は頭をかいた。

「モードレッド卿が連れて行った娘を連れて帰らないと、うるさいのがたくさんいるんだ」

「然様でございますか」

 彼女は大蛇がうねる腕を数斗達に向けた。

「一つ質問が。その蛇は?」

「両腕を無くしたわたくしにモードレッド様が下さいました」

「地竜を? 豪気なことだ」

 返事の代わりに、蛇が大きくうねった。

 鎌首が伸び、獲物を捕らえる蛇と同じように真っ直ぐに突進してくる。

 メネッセと数斗が避けて逃げるなか、ただ一人、静世が札を掲げて蛇の頭を押しとどめている。

「静世!」

 叫んだメネッセに、もう一匹の大蛇の口腔が襲いかかる。

 先を見遣れば、ハネイアの左腕からも大蛇がはい出している。メネッセは口腔を掴み上げるが、のたうち回った大蛇に振り回される。

 大蛇が飛び込んだ床は無残にめくれ上がり、柱は脆い砂糖細工のように崩れる。

 数斗は一歩引いて、残ったハネイアに向かって走り出す。

「無駄ですわ!」

 女の腹が割れた。

 そこから大蛇の首が現れる。骨の折れるような嫌な音と共に女の足は退化し、大蛇が腹這いに床を張った。ちょうど、蛇の頭あたりに女の上半身が突き出している。

 飛び退いた数斗を追って、女の上半身をつけた大蛇が赤い口を開けて軌跡に食らいつく。

 空中で方向を転換し、静世と睨み合っている蛇の腕に降りる。

 衝突するかと思えば、大蛇は上手く避け、三つ叉の蛇は首を引いた。

「あなたはあの方に必要はない。あの方に必要なのは、血と妖怪だけ」

「……何を怖がっている」

 この女は何を恐れているのか。

 目の当たりにして女の恐怖が手に取れる。

 モードレッドは、

「死ねぇっ!」

 三つ叉の蛇が一斉に数斗へと向かう。既に女は人の皮を脱いで、蛇と化している。

 憐れだ。

 いつも思うのだ。

 妖怪は何処までも憐れだ。

 たった一つのものさえ守れない。

 守ることさえ許されない。

 妖怪の世界は、弱肉強食の世界なのだ。

「貴恵村さん!」

 メネッセが叫んだ。

 彼は二匹の蛇の頭を両脇に掴んだ。

 あと一匹は何処だ。

 静世が飛んだ。

 三枚の札を投げると、札は空中で停止し、静世が印を結ぶ。

 静世の指が札に触れると二匹の大蛇は燃え上がった。

 もがいて柱を壊したが、燃え上がる炎に巻かれて灰となる。

 数斗の眼前に蛇の口が大きく開いている。

 しかし、蛇は無理矢理、圧力をかけられて口を閉じられる。腕を犠牲にし、数斗の前まで詰めてきたというのに、当の数斗に指一本触れることもできずに、空中で絡め取られている。圧力に抵抗して、凶器の牙をむき出そうとするが、逆に顎の骨を砕かれて拘束される。

 人間にはわからないのだ。

 妖怪の世界は、努力次第でどうにかなる世界ではない。冷酷なまでの実力社会である。

 数斗は大蛇の頭にわずかに残されている女の額に触れた。

 すると、女は人の顔を取り戻し、彼女は自分で驚いたように上半身を起こした。しかし、静世の術の影響だろうか。彼女の体は大蛇の頭から徐々に灰となっていく。

「わたくしは……」

「君はよく頑張った」

「……恐ろしい方でございますね。わたくしをお許し下さいますか」

 女は目を閉じた。

 狂気は消えて、死に際のくたびれた老人を思わせた。

「俺は初めから、あなたを憎んではいないよ」

 うつむいた女は、子供のように大声で泣いた。モードレッドの名を呼びながら、ようやく死ねると歓喜して、灰になっていった。

        ※


 残った残骸を静世が改めて焼いた。

 全てが消えていく中で、静世は数斗を見上げた。

「閣下?」

「貴恵村だよ」

 ポケットを探った。だが、薄手のセーターしか着ていないことを思い出して、ズボンのポケットを探る。

 ライターしか出てこない。朝に吸ったのが最後だったらしい。

「すまないが、煙草は持ち合わせていない」

 メネッセが申し訳なさそうに言うので、ライターはポケットに戻した。

「グラールなら聞いたことあります。極悪非道の凶悪吸血鬼」

「蒸し返すなよ」

 数斗は目算をつけて歩き始める。

「逆だ」

 情けないが、メネッセに呼ばれて戻る。

「七百年ぐらい前に、消息がわからなくなったって、マイスターが残念がっていました。その頃、マイスターはイギリス支部にいたそうで、もう百年早ければ、捕まえられたのに、と」

「………そりゃ、残念でした」

 メネッセが炎玉で示す方向に歩き出す。

「俺も、聞いたことがある」

 静世に続いて、メネッセまで呟き始めた。いい加減、勘弁してほしい。

「グランドマスターのご子息が、凶行の限りを尽くして行方をくらましてしまったという話だ」

 間違ってはいない。

 今にして思えば、若気の至りというものだ。

「グランドマスターの? 本当ですか?」

「あのな。アレの息子なんて何人いると思ってんだ。百三十二人いるんだぞ?」

「全員とお知り合いなんですか?」

「……不本意ながら」

 両親の次にタチの悪い兄弟達が思い出されて、顔をしかめた。多くは語りたくもない。

「でも吸血鬼なんて、兄弟意識は薄いから。何やってるかまでは知らない」

 炎玉が先行し、暗闇を照らしていくが、辺りは柱ばかりだ。天井に向かって、三人分の靴音が反響する。

「そうなんですか? 朝香は可愛いですよ。あの口うるさいところとか」

 本人が聞けば、力いっぱい異論を唱えるだろう。

 数斗も、可愛いところと口うるさいところが同列にしていいものかどうか判断に苦しむ。

「俺たちにしてみれば、朝香と静世は娘のようなものだから、何をしようとどちらも可愛いが」

 メネッセが真っ直ぐ静世を見て生真面目に言うので、静世の顔が赤くなった。

 恥ずかしい連中だ。

 炎玉が止まった。

 扉がある。

 青白く光っている観音開きの扉は、見上げると先の見えないほど高い。

 メネッセが押してみるが、扉は開かない。

 仕方なく数斗が押すと、恐ろしく素直に動いた。

「見た目より馬鹿力なんですね」

 静世がいつもの調子で言うので、数斗はひきしめていた表情が脱力していくのを感じた。

 開いた扉の奧に踏み出すと、鏡のような床面が遠くまで続いていた。

 黒光りする部屋である。

 黒い壁面の他には柱すら見あたらない。

 その最奥に、白コートに身を包んだ、白い髪の男が、こんな場所では質素に見えるような一脚の木製椅子に座っている。

 その隣の床に、朝香が寝かされていた。

「ようこそ」

 五十メートルほど離れているだろうか。だが、男の声は耳の側で聞いているのではないかというほど、よく聞こえた。

 扉が重さに任せて閉じた。

「ハネイアは死にましたか」

「ああ」

「死にましたか……」

 溜息をついて、男は椅子から立ち上がった。

「そういえば、自己紹介が遅れておりました。わたくしはモードレッド。人で在ったときは裁判官を務めておりましたが、今は子爵を名乗らせていただいております」

 モードレッドは手を差し出した。

 すると、数斗達の目の前に三脚の椅子が浮かんできた。

「遠くから失礼を」

 静世達は不審な目で椅子を眺めていたが、数斗が座ると倣って座った。

 再び椅子に腰掛けたモードレッドは自嘲気味に顔を歪めた。

「お恥ずかしいことです。五百歳を数えるというのに、昼間に思うように動くことができない」

 血を主食にしている吸血鬼は夜行性の性格が強い。それに、昼間に動ける吸血鬼の絶対数は少ない。

「私は、五百年前、一人の吸血鬼と出会いました。その頃の私は、神の裁きによって女達を殺していく裁判官の職に疑問を持ち、教会を脱会して、魔術に自分の生きる意味を見出していました。私は永遠の命をテーマに研究を繰り返していたのです。しかし、研究すれば研究するほど不可能だということがわかり、挫折しかけていたのです。そんな私に、吸血鬼は様々な知識を与えてくれました。魔術の摂理、妖怪の世界の話……その目新しい話の中にあなたのお話があった。私の生きていた時代より遡り、二百年前にはすでに姿を消していたあなたと、彼女は兄弟だと話してくれました。私はそんな不思議で奇妙な話にのめり込んでいくうちに、特に吸血鬼の、彼女の話が魅力的に思えてきたのです。私は、吸血鬼になりたくなったのです。私は彼女に頼み込みました。ですが、彼女はしきたりがあるから、と断り続けました。彼女は、吸血鬼の暗く、長い生ける悪夢を知っていたのです。当時の私にはわかるはずもありません。ある日、私は彼女を教会に呼び出し、手首を切りました。このままでは私は死ぬと彼女を脅したのです。優しい彼女は、私を吸血鬼にしました。しかし、私を吸血鬼にした後すぐ、彼女が病身だと私は知った。吸血鬼にとって、血は薬にもなるが毒にもなる。彼女にとって、血は毒となってしまった。……彼女と過ごしたのはほんの十年ほどでした。十年目に、彼女は死に、私は有力な貴族の家人になることもなく、国を放浪しました。その間、私は病身に苦しむ人、人生に絶望している人々を吸血鬼にすることで救おうとしてきました。その結果、私は大量殺人を生みました。私は、あまりに無知だった。洗礼者の約半数が血の契約により、血の味を覚えてしまうということも、血に酔い、血のみを不必要に求めてしまうことも、知らなかったのです。今更、ここで、今まで殺してきた人々に悔いようとは思いません。私はただ死にたくなかった。ただ、それだけなのです」

 モードレッドは深く息を吐いた。

「私には、吸血鬼という種族がどういうものなのかわからなかった。幾人かの吸血鬼の知人から教わりもしたが、人間と同じように、その存在理由がわからない」

 見極めようとしているのだ。

「だから、あなたと話をしてみたくなった。そして、百年以上かけてあなたを捜し、こうして話すことができた」

 二つの種族の狭間を見極めようとしている。

「いざ目の当たりにしてみると、私はただ単に、話を聞いてくれる相手が欲しかっただけのような気もしてきます」

 期待は往々にして裏切られるものだ。

「あなたの問いに、俺は答えられない」

 モードレッドは思わぬことを聞いたように、顔を上げた。

「答えるべき答えがないからだ」

「……あなたでも……あなたほど、長く生きていてもわからない……」

「老人が全て正しい答えを持っているわけじゃない。個々人の経験は限られている。いくら長く生きていたからといって、答えは見つかる物ではないし、恐らく一つの答えはない。無数に存在する可能性の中から見つけ出す他に方法がない。だから、吸血鬼の名前は一呼称ではない」

 答えは自分で作り出しても良いのだ。そうして、それが答えになっていく。

「ノーブル・レイス。ノーブル・ブラッド。オリジナル・シン。一番、古い呼称はエミグラントだと言われている」

「……移住民?」

「そう。自らを移住民と呼んでいる辺り、吸血鬼は案外、宇宙人だったのかもな。だが、時代を幾つも渡って、こう呼んだ奴もいる」

 遠く離れた存在でありながら、似ている種族を、彼は皮肉と愛着を込めてこう呼んだ。

「フェルン・ナハバール。遠い隣人。吸血鬼は人間の遠くて近い、隣人なのだと」

「……遠い隣人…」

「実際のところ、その人にも吸血鬼と人間の分かれ目なんて見えていない。本当は一つの種族だったんじゃないかって説もある」

 モードレッドは額に手を当てた。

「同じ種族……? では、私は間違っていなかったのか?」

 自問しながら、モードレッドは笑い声を上げる。

「ハハハハハハハ……! やはり、あなたは素晴らしい。私の欲しい答えを渡してくれた。……あとは」

 モードレッドは立ち上がり、床の朝香の首に手をかけた。

「あなたが私の血肉となってくれさえすればいい!」

「朝香!」

 静世が十枚以上の札を投げた。

 普段、口にすることもない呪を大声で張り上げる。

「解!」

 札は突風のように空間を切り裂き、モードレッドを襲撃する。だが、圧倒的な破壊力の札を、モードレッドはいとも簡単に掴み取った。

「児戯だな」

 それで怯む静世ではない。今度は持っていた札を全てばらまいたのだ。

 札はちょうど球形を作って並び、静世の触れた札が鳥のように散開する。

 その札に青白いプラズマが宿った。

 静世と同じように駆け出したメネッセが目に見える静電気を飛ばしている。その形相が険しくなると、人の皮がむけて、額から角が生えだした。

 雷を帯びた札の鳥が一斉に羽ばたいた。

 白髪の吸血鬼目指してプラズマを放ち、遊撃する。

 静世は眉を吊り上げた。

「……あなたの“親”、病身の吸血鬼なんて言ってたけど、本当は、あなたが殺したのね」

 さすがに立ち上がったモードレッドは嘘のように杖を取り出した。

 歯をむき出して、嗤う(わら)。

「そう」

 杖の先についている馬の彫像を回して、するすると柄を引いていく。

 現れたのは一振りの細剣である。

黒魔術(ソーサリー)の基本は、食物から力を取り込むこと。……私は彼女を殺し、喰った」

 向かってくる鳥を一太刀して、突き破った。一線し、薙ぎ払うと鳥はただの紙切れに戻っていく。

 モードレッドは優雅に地面を蹴った。

 鳥は雷で迎え撃つが、あっさりと切り捨てられてモードレッドを打ち落とすことができない。

 白い凶器が降り立ったのは札を操る静世の正面。

 残った札を静世は集めるが間に合わない。

 その前に、巨漢が立ち塞がる。既に角がこめかみからも突き出たメネッセである。

 メネッセは唸りを上げて拳をモードレッド目掛けて振り下ろす。

 だが、彼は穿ったのは鏡面の床。

 飛び散った破片の先から凶剣が頭上から放たれる。

 倒れるメネッセの裏から、飛び出したのは札である。

 札はモードレッドの全身に張り付いて動きを封じてしまう。振り下ろした剣ごと、ミイラの包帯のように巻き付いて床にモードレッドを封じる。

 息をついた静世は数斗を見遣った。

 数斗は、座っていた椅子から一歩も動いていないのだ。

 静世は数斗を冷ややかに睨みつけた。だが、何も言わずにメネッセの傷具合を見に行った。

 メネッセは左肩を切られてはいたが、重症ではない。

「さわるな。俺の血は毒だと言ってあるはずだ」

 静世の手を払って、メネッセは自分の左肩を掴んだまま、床に膝をつく。

 静世は床に倒れたままの朝香に駆け寄っていった。

 鏡面の部屋の不気味な静けさ野中で、静世の靴音が響く。

 数斗は思わず立ち上がった。

 今、何時だ。

「メネッセ、今何時だ!」

 弾かれたようにメネッセも辛うじてついていた腕時計を見遣る。

「午後七時……!」

 日は完全に落ちた。

「静世! やめろ!」

 静世の手が朝香の肩に触れた。

 朝香が起きあがる。

 鈍い音がした。

「……あ…」

 長く伸びすぎた、ナイフのような爪が静世の腹に突き刺さっている。

 その爪は、彼女と同じような細い指から伸びている。

「…朝香……?」

 静世は自分を突き刺している朝香を引き寄せた。

 爪が深く突き刺さる。

 内蔵が傷つくほど刺さったらしく、静世は血を吐いた。

「朝香……」

 朝香は目を開いてはいるが、碧眼に光はない。

「朝香……」

 静世は呪のように続けて、妹の名前を呼ぶ。

 数斗は急いで駆け寄った。

 血臭が鼻をつく。

 頭痛が額を突き抜ける。

「やめろ! 静世! 今ここで、朝香が起きたら……」

 静世の声が届いてしまったのか。

「……し、静世姉さん……?」

 朝香は自分を抱く静世を、わけもわからず見遣る。

「朝香……」

 だが、自分の手に気がついて朝香はこれ以上ないほど顔を歪めた。

 自分の指先が自分の姉を刺しているのだ。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「……落ち着きなさい。朝香」

 静世は自分に突き刺さっている朝香の腕を掴んだ。肉が余計に切られて、血臭が濃くなった。

 このままでは、数斗の方が発狂して役に立たなくなってしまう。

「朝香!」

 静世に呼ばれ、朝香は泣きながら姉を凝視した。

「……いい? ゆっくりと、そっと引いてちょうだい」

 静世は朝香の腕を掴んで、ゆっくりと自分の腹から爪を引き抜いた。

 爪は役割を終えたと思ったのか、すぐさま元通りになり、あとには血塗れの朝香の右手が残った。

「わ、私……」

「落ち着きなさい……。朝香……」

 静世はすでに気力だけで意識を保っている。

 やってきたメネッセが近くに座った。彼の手は自分の血にまみれていて、静世達をさわれないのだ。

 鬼の血は人間を殺す。

 朝香は静世を抱きかかえた。

「お、お姉ちゃん……私…」

「よく聞け。アンタは今、人間でもなく、吸血鬼でもない」

 数斗はセーターを脱いだ。

 静世が腹を押さえつけているごとセーターを巻き付ける。数斗はまたシャツ一枚になってしまった。

「これを動かすな。いいな」

 メネッセに言い置いて、朝香に向き直る。

「俺がアンタに呪をかけているが、最後は本人がしっかりしてないと最悪、アンタは吸血鬼になる」

 朝香は息を呑んだが、ぎこちなく頷いた。

「だから、アンタは人間でいたいとずっと思ってろ。姉さんを刺したくなんてなかったんだろ?」

「……私……」

 数斗は朝香に服を掴まれて瞬いた。

「……私、姉さんが嫌いになるときがあるの。そういうので殺してしまったりすることある?」

 血塗れの手で掴まれた白いシャツは、瞬く間に血で汚れた。

 少しためらって、数斗は朝香の手を握った。

「ない。だから、アンタは人間でいるんだ」

 朝香の手をはがす。

 彼女は静世の体を抱きかかえた。

「……お姉ちゃんを助けて」

 こんな時に不謹慎だとは思うが、くしゃみが出そうになった。

「風邪をひかないうちに片づける」

 シャツ一枚はさすがに寒い。

「風邪の心配などなさらなくても良い場所を、知っていますよ」

 甘ったるい腐敗臭のする声である。

 振り返ると、数斗達が座らされていた場所に少し前に、先ほど静世が捉えたはずの吸血鬼がまるで平気な様子で、すっかり身形を整えて立っている。

「朝香を操ったな?」

「さすがに私も危なかったので。難しいことでしたが、そちらのお嬢さんを使わせていただきました」

「……また面倒くさいことを……」

「お陰で面白い悲劇が見られました。お楽しみいただけましたでしょう?」

「変態と一緒にするな」

 言って、数斗は大きなくしゃみをしてしまう。ついでに鼻水まで出そうになる。

「同じじゃないですか。いいえ、あなたの方が変わった方だ。酔狂で人を殺したり、助けたり。敵ばかりを増やしますよ」

「そういうアンタは敵か? 味方か?」

「私は敵でも味方でもありませんよ。あなたの捕食者です!」

 モードレッドは剣を引き抜き、跳躍した。

 数斗はその場から一歩、二歩進み、同じように跳躍する。

 モードレッドが剣を突きだしてくる。数斗は身をかわす。交わしてそのまま剣線を避けると、モードレッドの後ろに立つ。

「目的は何だ?」

「私の興味は、初めからあなたの血だ」

 モードレッドは振り抜きざまに踏みだし、逆袈裟切り。

 それを交わして、軽く後ろに飛ぶ。

 続いてモードレッドは床と平行に跳躍して呪をかけた剣で空中を薙ぐ。真空の鎌が生まれて追撃してくる。

「ムダムダ」

 手を差し出して、かまいたちに触れる(・・・)。風を分解して、ただの微風に戻してみせた。

 予想通り、モードレッドは疑問符を顔に浮かべて数斗を睨みつけた。

 これが数斗にとって、一番特別な特技だった。

 物質の元素に触れる力。未だかつて、この能力を使えるのは実父ぐらいしか見たことがない。

 大いに驚いてもらわなくては。

 モードレッドは剣先を床に這わせ、摩擦で炎を起こす。

 それに呪をかけて、炎は派手な竜の形を象った。そのまま、竜はのたうち、数斗目指して突進してくる。

 それを瞬時に自分で吐いた二酸化炭素で閉じこめて、数斗の眼前で竜は霧散した。

 それも束の間、明らかに人工的な津波が高い天井に届くほどの高さで押し寄せる。

 数斗はポケットに入っていたライターを取り出した。その間に酸素と反応させ、水を全て消し去る。水に乗じていたモードレッドを空中に見つけて、ライターに火をつけて投げた。

 水素爆発。

 部屋全体を総べるほどの爆炎が上がる。

 さすがに全ての火炎を避けきれなかったモードレッドは、体中から焼け焦げたと思しき煙を上げて床に降り立つ。

 細剣の柄を握りしめて、改めて数斗を睨んでくる。

 モードレッドの体が揺らめいた。

 そして、消える。

 だが、出てくるところは分かっている。

 後ろ。

 寸瞬前まで頭があった場所に剣が突き出された。

 半身を引くと、袈裟切りがくる。

 体を傾けてやり過ごし、逆に逃げる。間髪入れず飛んできた蹴りを避けて、後ろに飛ぶ。

 間合いがとれると、モードレッドは追ってはこなかった。

「……なぜ、そんなことができる……元素を動かすなんて……」

 知らなかったわりに勘がいい。普通は、数斗を魔法使い扱いしてくれるのだ。

「血筋。俺は純種(ノーブル・ブラッド)じゃないから」

「そんな術を扱える種族は聞いたことがない!」

「悪いけどさ。アンタと俺じゃ、生きてる世界が違うんだ」

 モードレッドは不審に顔を歪める。

「信じるかどうかわからないけど。俺の母親は人間とノーブル・ブラッドのハーフと人間の間に生まれたクオーターで、親父はノーブル・ブラッドと魔族のハーフと神族と人間のハーフの間に生まれたクオーターなんだよ。だから、俺は人間とノーブル・ブラッドと神族と魔族の血が混ざってる雑種中の雑種。つまり、俺のひいジイさんかバアさんがノーブル・ブラッド、神族、魔族、人間の四種族にまたがってるわけ。人間の曾祖父母はさすがにいないけど、魔族と神族とノーブル・ブラッドはまだ生きてるかな」

 案の定、モードレッドは余計に顔をしかめた。

「神? 魔族? そんなものが居るわけないだろう! あんなものは偶像に過ぎない!」

「だから、世界が違うんだって。第一、何でこんなややこしい嘘をつかないといけないんだ」

 数斗は肩を竦める。

「だからといって……」

「信じろとはいわない。無理はするな」

「無理? 私は常識の通用しない場所で生きていきた! それを……」

「確かに、人間の世界は常識が通用しないな。アンタは誰よりも人間らしいよ」

 欲に忠実で正直な人間そのものだ。モードレッドは剣を取り落とした。

「……人間らしい……? 私が?」

「――憐れだな」

 妖怪とは憐れな生き物だ。

 否。

 長く生きていても、何の答えも見いだせない者は憐れだ。

「五百年生きて、そんなことも考えなかったのか? アンタは無駄に長く生きすぎたようだ」

 膝をついたモードレッドに、数斗は興味を失って部屋の奥で様子見ている朝香達に視線を移した。

 静世の容態は良くはないはずだ。

「――殺せ」

 聞き逃してしまうような声だった。

 数斗は溜息をついた。

「そこまでしてやる義理はない」

 ふと思い出す。

 自分も、こうして誰かに殺してもらうことを望んだことがあった。

 そうして、やはりそこまでしてやる義理はないと断られたのだ。

 お前は愚かに生きろと。

「……アンタ、ミネルバを殺したと言ったな」

「……その名は……」

「俺の兄弟だ。確かに病気で死んで、砂漠で焼いた。……思い出したよ。アンタが俺に、妹のことを知らせてくれたんだ。今と違って貧相なガキだったから、わからなかった」

 サングラスを外して、モードレッドを顧みた。モードレッドの目が見る間に見開かれた。

「覚えはないか?」

「……あなたは、ミスタ・シュリブクス……?」

 五百年も前のことだ。

 妹の一人が危篤だというので、駆けつけると、傍らに一人の男がいた。ミネルバが病気になってしまったのは自分のせいだと泣いたその男は、確かにモードレッドと名乗った。

 まだ吸血鬼としては若かったミネルバが残した、最初で最後の洗礼者(こども)

「ミネルバは悔やんでいた。アンタを洗礼したことを」

 モードレッドは半ば茫然と、数斗を見上げた。

「会えて良かったよ」

 手を差し出すと、しばらく不思議そうにモードレッドは眺めていたが、やがて数斗の手にしがみつくように握り替えした。

「……私も、あなたにもう一度会えて良かった……」

そして、何百年ぶりかの感謝を祈る。

「……神に…ミネルバに感謝します」




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