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オリジン  作者: ふとん
11/15

 教授は、相変わらず本を読んでいた。

「やぁ。朝香」

 小さな頃から見てきた、一つも変わらない笑顔。

 朝香は彼に応えられず、盆に乗ったオムライスに視線を落とした。

 奇麗にご飯を巻いたオムライスとコンソメスープ、それにトマトジュース、デザートにプリンまでついているあたり、作り手の神経質なまでの心配りが見て取れる。

 この昼食を作った男の無愛想ぶりが思い出されて、朝香は口の端を曲げた。

 グール達の襲撃があって三日が経とうとしていた。

 静世の夏風邪は回復したが、S・S・Cはまだ熱に浮かされているようだ。

 裏切り者が出たのだ。

 モードレッドという大量殺人を繰り返している凶悪な吸血鬼が、メンバーに新しく入った吸血鬼を狙っている。S・S・C自体もモードレッドを始末する計画があったので、狙われている吸血鬼を施設に匿うことになった。しかし、逆にモードレッドの呪力の支配下にくだってしまった裏切り者が出た。

 それは仲間内による内部告発で発覚し、マイスターは決定を下した。

 呪力が消えるまで、裏切り者は監禁すると。

「今日はオムライスか。毎日、手が込んでるな」

 教授は受け渡し口に置かれた盆に手を伸ばした。

 この黒髪の吸血鬼は、朝香が物心もつかない頃から姉の静世と一緒に面倒を見てくれていた。両親を早くに亡くした朝香にとって、いわば肉親のような人だ。穏和な人柄でメンバーの誰よりも優しい。

 そんな彼が、内部告発で裏切り者として、地下施設の最奥にある独房に監禁されている。

 普段は凶悪な妖怪を一時的に閉じこめておくのに使われるだけの部屋である。

 独房と言っても鉄格子が填っているわけではなく、完全な四方体の部屋である。何の衝撃も音もない、常に五感をフルに使っている妖怪にとってはある意味で地獄のような部屋だ。静か過ぎるのである。

 だが、教授は本を読むには最適だと読み損ねていた大量の本を持ち込んで休暇を決め込んでいる。

「朝香?」

「教授のバカ!」

 通話用のマイクの音量を最大にして叫ぶと、朝香は独房を後にした。

 エレベーターに向かう途中で、静世に出会う。

「教授はどうだった?」

 もう一人、裏切り者として独房に入れられてしまった人がいる。

 静世と共に術を教えてくれた師範だ。かの美しい九尾狐の妖怪は、教授と共に育ててくれた肉親の一人である。あらゆる術に長けた人で、妖怪でありながら退魔法を今も教え続けてくれていた。

 この教授と師範の二人を告発したのも、朝香にとって肉親も同然のスペクストだった。腕白な子供がそのまま育ったような彼は、案外子供好きで小さな頃は教授やメネッセよりもスペクストと遊んだ。悪戯も喧嘩の仕方も彼から教わったが、大切なことばかり教えてくれた。

「相変わらず本ばっかり読んでる」

「そう。良かったわ」

 静世は嬉しそうに頷いた。五才も年上の姉だが、妹の立場から見ても不安になるほどお人好しなところがある。

「あの人達、三食食べなくても良いんでしょ? 何でアイツの作ったものは食べるのよ」

「あら? ヤキモチ?」

「違うわよ!」

「貴恵村さんって本当にお料理上手よね。何て言うのかしら、手際が違うわ。朝香とは」

 痛い所をつかれて朝香は押し黙る。朝香には、料理を作る才能がごっそりと抜け落ちているらしく、目玉焼きすらまともにできた試しがない。

「お洗濯もお掃除も素晴らしいわ。立派なお婿さんになれるわね」

 世の男性は嫁に完璧な家事を望むものだが、案外、男の方が家事には向いているのかもしれない。女よりマメだ。

「一ヶ月とは言わず、ずっとここに居て欲しいわね。貴恵村さん」

 静世にとってはその程度の存在なのだろうが、S・S・Cにとって、今やあの男は大きな癌だ。

 長年培ってきたS・S・Cの基盤を地震のように揺るがせている。

 エレベーターはすぐに地下三階を指した。

「朝香は貴恵村さんが嫌いなの?」

 小学生のような口調で尋ねてくる姉が、時々、堪らなく嫌になることがある。そして、ここのメンバーと一緒に朝香を育ててくれた姉に向かって、そんなことを思う自分が、「嫌いよ」

 嫌いで堪らない。

 リビングに入ると、思わず足を止めた。先程、静世に嫌いだと宣言した男が、ミヤコと一緒にオムライスをつついているのだ。

 朝香と静世に気がつくと、男は笑いもせず顔を上げた。

 絵から抜け出てきたようだ。

 そう表現したのは師範だったか。確かにそう思えるような長身の男である。色白のはずの朝香が恥ずかしくなるほど白皙の容貌は、半分がサングラスに隠れている。しかし、隠れていてさえ、ひどく端正であることは整った鼻筋からも伺える。青に近い銀色の髪だが、辛うじてサングラスがあるために、男は形を潜めていられるのだ。

サングラスの奧にある、黄金色の目が露わになると、誰もが寒気を覚えざるを得ない。

人間にも妖怪にもそぐわない、異質な存在なのだ。

「ご苦労様。毎日、悪いね」

「いいえ。好きで行ってますから」

 静世は愛想良く男に応じると、ソファに腰掛けた。

「昼飯、今もってくるよ。デザートのご希望は今聞こうか」

「昨日はババロアだったから、今日はプリンあたりかしら」

「わたしも」

「そうね。ミヤちゃんはプリンが好きだったわね。私も大好きなのよ」

「勘がいいな」

「美味しいものはちゃんと分かるの。そうだ。朝香は何がいい?」

 背中にあるのは、グールが襲撃してきたときに壊されたドア。今はすっかり直されている。そう、あの男に。

「いらない」

 低く声を返すと、静世が困った顔をするのがわかった。

「食べたくない」

「あさ…」

「わかった」

 たしなめようとした静世の声を男が遮った。そして、男は朝香の隣をすり抜けて部屋を出て行った。

「……朝香」

 静世に応えられず、朝香はうつむく。

 グールが襲撃してきたあの日。

 静世の氷枕を換えに台所へ向かっていた。そして、廊下でスペクストに出会った。

 教授達が探していたことを告げると、スペクストは、今まで見たことがないような、気味の悪い笑い方をした。

 おかしい。

 そう思った時には遅かった。

 抵抗する間もなく、スペクストの腕に首を掴まれていた。

 異変に気がついた静世やメネッセに向かって、スペクストは朝香に剣をつきつけて脅したのだ。

 教授達が戻っても、静世が寝ている部屋から出てくるな、と。そして朝香にも、教授達がリビングに来て

何か尋ねても何も言うなと脅された。

 喋った時には、静世とメネッセを殺す、と。

 こけおどしではない。スペクストが本気になれば、メネッセや静世では歯が立たない。

 しばらくすると、教授達は戻ってきた。

 あの男がミヤコを連れて、リビングにやってきたのだ。

 スペクストは、グールが来たと嘘を言った。グールなど、地下施設には一匹も入っていない。

 あの鈍感な男もスペクストの異変に気がついたはずなのだ。しかし、彼はミヤコを朝香に預け、何も確かめないまま、地上へと向かっていった。

 グールの掃討が終わってから、スペクストが教授を告発した時も、あの男はスペクストを弁護した。静世やメネッセは弁護に加わらなかったが、朝香は教授を弁護した。

 モードレッドに操られているのは、スペクストだ。

 師範も一緒になって教授を弁護したが、マイスターは結局、新参者の、あの男の言葉を信じた。

 弁護した師範は教授と共に独房に入った。朝香が独房に入らなかったのは、ただ単にまだ子供だという理由からだった。

 おかしいのだ。

 全てが、あの男から狂い始めている。

 朝香は部屋を出た。


 頼みの綱の教授と師範が独房に入っている。

 争いごとの嫌いな静世が内部探査などやるわけもない。メネッセは、マイスターの命令には絶対服従だ。

ミヤコにマイスターを裏切るようなことを頼めるはずもない。

 まるで、朝香が牢獄に入っているようだ。

 自由に動いているのに、他人に動かされている錯覚。

 錯覚とは知りながら、拭いきれない違和感。

 だが、朝香は最後に残った人物の部屋の戸を叩いていた。

「スペクスト。いるの? 朝香よ」

 ノックしたドアが緩やかに動いた。

 その先を見てはならないと警告がよぎる。

 だが、好奇心と猜疑心が両立して朝香はドアを押し開いた。

 粗野な性格でありながら、ベッドと椅子しかない殺風景な部屋に、見慣れた青髪の男と、見慣れない白髪の男が居た。

 白いコート、白い髪、禍々しい紅玉の眼。

 全て、スペクストが倒れた日に見た、あの日のままだった。

 凶兆を喜ぶかのような柔和な笑みを浮かべた白髪の男は、椅子に腰掛けて長い足を組んでいる。

「どうしました? お嬢さん」

 よく透るテノールは、心地よさの裏に腐敗臭を漂わせている。

 スペクストは淡く微笑んだまま、朝香を振り返る。

 何もかもが幻影に見えるというのに、男の赤い眼だけが爛々と煌めいている。

「私でよければ、ご相談に乗りましょうか」

 朝香は自分が正しかったのだと、確信した。

        ※


 錆のつかない刀である。

 世に生み出されてから二千年余り。妖怪の血を吸い続け、それ自体が妖怪のように生き続けている刀である。

 実際、刃こぼれもなく、折れることもない。

 朝香は刀を鞘に収めた。

 この日本刀を持たされたのは、わずか五才の時だった。

 両親の形見だと、静世がずっと持っていたのだが、静世にはこの刀は扱えないから、と朝香が持つことになった。

 そのとき、既に朝香と静世は師範に師事しており、この刀のことはほとんど何も知らないと言っていい。

 幾ら齢二千年を超える妖狐とは言っても、退魔師が秘伝として伝える刀の由来までは知らない。

 朝香は何も知らないまま妖怪を斬り、葬ってきた。

 だが、ふと刀と同調するときがある。刀が自分となり、自分が刀となる瞬間が。

 その刹那だけ、刀の全てを知り尽くしている自分がいる。

 静世は、朝香が何よりも呪という魔力に近いと言った。妖刀と同化できる、呪に同化してしまう体質なのだと。

 呪は、人間が作り出した欲を具現化する得体の知れない力である。

 呪と同調しやすいということは、退魔師としては優秀になるだろうが、人間としては危うい存在になる。

 退魔師として、誰よりも優秀な姉が断言した。

 あなたは退魔師に向いていない。


 朝香は眼を開けた。

「一人かい?」

 白髪の男と、スペクストが境内の闇に紛れて立っている。

 この神社自体が、静世の結界だったが、本殿が崩れた今ではスペクストでも壊せるほど弱っていたのだろう。

「最初から、S・S・Cを狙ってここへ来たの?」

 白髪の男、モードレッドは首を振った。

「私の長年の戦術だよ。滞在先では、優雅に過ごしたいからね。悪魔払いの類には少し長いバカンスに行ってもらうんだ」

 この男が居座った国では、退魔師がほぼ全滅している。

「日本は良い国だ。私たちの仲間は多いし、闇が多くて住みやすい。それに、彼も見つけることができたしね」

 モードレッドの白いコートが闇夜に映えた。

「あんな出来損ないの吸血鬼に何の価値があるの?」

「君は約束を破った」

 低く、歌うような声だ。だが、底知れぬ針を含んで、朝香を貫く。

「彼をここへ連れてきてくれるという約束を」

 鞘を握った手が汗ばんだ。

 そのくせ、Tシャツ一枚では寒いほどの寒気が肌を伝う。

「でも、いいか。期待はしていなかったから」

 底冷えするほど怒っているかと思えば、今度はいとも簡単に笑ってみせる。

 まるで月の話を太陽の話で返すようなものだ。

モードレッドは、自分でも不安定な精神状態を操作することができないのだ。

「いいかい。世間知らずのお嬢さん。カズト・キエムラという吸血鬼は、素晴らしい吸血鬼だよ。まさしく、原種(オリジナル・シン)と呼ぶにふさわしい」

 モードレッドは満天のライトを抱く舞台役者さながらに両腕を広げた。

「紀元前から生き長らえてきた父を持ち、彼自身もキリスト生誕以前から生きている。ローマ、パルティア、ササン、暗黒時代、彼はまさに吸血鬼として王となった。思い通りに人を殺し、血に酔った。あの時代は誰が死んでもおかしくなかったのだよ。ただ、美しくなりたいというだけで若い女の血を浴びたという貴婦人もいた。気に入らないというだけで死刑にし、死人を逆さにつるして血を飲んだ貴族もいた。彼は吸血鬼の社会でも、人間社会でも公爵という位さえ手に入れている」

 教授がいればさぞ驚いただろう。

教授は百年、有力な吸血鬼の元で修行した後、七百年かかって伯爵となった。

「人違いじゃないの? 貴恵村なんて日本名じゃない」

「彼の本名はグラール」

 顔をしかめた朝香を面白がるように、モードレッドは笑みを深めた。

「グラールは命をさずけるものという意味だよ。物知らずのお嬢さん。彼は文字通り、私に私の望むものを渡してくれるはずだ」

 モードレッドは夢から覚めない子供のように天を仰いだ。

「七百年前には既に歴史の表舞台からあっさり消えてしまった彼を捜すのは百年かかったよ。まさか日本の片隅で余生を過ごしているなんて思いもしなかったからね。でもようやく私の望みは叶えられる」

 すうと赤い瞳が降りてきた。

「だから、君はもう死んでいいんだ」

 脊椎を駆けずる震えで、朝香は思わず刀を抜いた。

 ほとんど反射で抜いた刀は切っ先が揺れて、鍔がカタカタと鳴る。

「スペクスト。この子を殺すんだ」

 戦意さえ喪失させるような声だった。

 今まで身じろぎもしなかったスペクストが初めてモードレッドを顧みた。

「このような娘に構わず、モードレッド様は彼の方の元へ」

「聞こえなかったのか」

 モードレッドが囁く。悪魔でもこうまで残酷に耳打ちできないだろう。

「私のためにこの娘を殺しておくれ。スペクスト」

 スペクストは逡巡するようにしばらく沈黙したが、やがて肩の巨剣を抜いた。

 軽薄な半袖シャツに似合わない、無表情な眼が朝香を捉えた。

 やはり、と朝香は自分で納得した。

 退魔師に向かないと言った姉の言葉は正しかった。

 朝香は同情してしまうのだ。

 敵であるはずの妖怪に同情し、剣先を鈍らせる。鈍らせた結果、命を落とすのだ。

 現に今、朝香は自分を殺そうとしているモードレッドにさえ同情している。世を呪い、自分を呪っている彼にさえ憐れみをおぼえてしまう。スペクストには、刀を向けることさえ躊躇する。

 戦いにきたことを後悔する。

 スペクストがその素晴らしい跳躍力をもって地を蹴った。

 一瞬のうちに勝負は決まる。

 朝香は切っ先をゆっくりと降ろしていった。

 鼓動が早い。

 それでいて、スペクストの茶瞳の奧まではっきりと碧眼が捉えている。

 巨剣が眼前に迫った。

 脅威に面しても眼を閉じないように、スペクストに教えられた通りに朝香は眼を閉じなかった。

 だからこそか。

 亜麻色の前髪を数本とらえただけで、巨剣が額をかすり、向きを変えたのをはっきりと見た。

 気がつけば、スペクストの背が朝香の目の前にある。

 わけもわからないまま、茫然と彼を見上げる。

 スペクストは険しい表情で、モードレッドを睨むと、巨剣を両手に持ち替えた。

「主従ごっこは、ここまでにさせてもらうぜ」

 冷や汗混じりに苦笑するスペクストを見遣って、モードレッドはゆったりと微笑んだ。

「せっかく、仲間を裏切らせてグールの手引きまでさせたのに」

「別に裏切っちゃいない」

「……裏切っていない?」

 思わず声が出た。それはいったいどういうことなのだろうか。

「ああ。初めのうちは本当に術にかかってたけどな。お宅より、ウチのボスの方が性格悪かったらしいぜ」

「そのようだ」

 何を二人は笑っているのだろうか。

 朝香は初めから間違っていたのだろうか。

 初めから誰も操られてなどおらず、誰も騙されてなどいなかった。

 否。

 朝香ただ一人がだまされていた。

 誰を恨む必要も、誰を憎む必要もなかったのだ。

「やっぱり、ちゃんと刻印を残しておくべきだね。簡易的な術は脆すぎる」

 スペクストは剣を握りなおした。

「そりゃゴメンだ」

 モードレッドの靴が高らかに鳴る。

 重い足音が境内に響く。彼が歩けば、日本の神社もロンドンの旧市街に見える。

 彼は本当に狂ってしまったのだろうか。

 人は、残酷な光景に興奮をおぼえるという。興奮は快楽となる。記憶する動物の人は、覚えた快楽を忘れない。繰り返し、刺激と称した興奮を欲しがるのである。

 それは、両親の形見を抜き続ける朝香の高揚感と似ているのかもしれない。

 妖怪を恐ろしいと思い、憐れだと思う反面、彼等との戦いに快楽を見出してはいないだろうか。

「朝香! 起きてるか? 起きてるなら立って逃げろ!」

 スペクストが名を呼んでいる。

 朝香は刀を握りなおした。

 快楽だと感じていても、それが大切な人を守れるのだとしたら、朝香は刀を何度でも抜く。

「二人で切り込めば、二人で逃げられるかもしれないわ」

 立ち上がる。

 前を見て、敵を見据える。

「無駄だ」

 モードレッドが、白い軌跡を残して消えた。

「スペクスト!」

 それはただの勘。

 同調するという、ただ一つの特性を持ってし得た、直感だった。

 そう。

飛び出したのは全くの偶然だった。

「朝香!」

 吐息が首筋を濡らしている。

 激痛で刀を取り落とした。

 顔のすぐ横で白い髪がゆらゆらと揺れている。

 噛まれたのか。

 結論づければ簡単な結末だ。

 呪の力が首筋から入ってくる。だが、それは途中で弱まり、消えた。

 モードレッドが牙を引き抜いたのだ。

 朝香は支えを失って、その場に崩れ落ちた。

 抱き留めてくれたのはスペクストだろうか。

 辛うじて開いている視界の奧で、モードレッドの困惑した顔が見えた。

 しかし、それも束の間で、すぐに元の狂気の笑みにすり替わる。

「またお会いしよう」

 白いコートがはためくと、実体は幻になって、霞のように消えていった。

「朝香!」

 頬を叩く。いつものスペクストだ。

「……良かった」

「良くない! このバカ娘!」

 何でこんなことをしたんだ、とスペクストは朝香の頭の上で呟いた。

「朝香……!」

「……静世姉」

 自分でも驚くほど舌が絡んでいる。肩が熱い。

「どうしてお姉ちゃんに相談しないの? 朝香のバカ!」

 珍しく怒っている。でも、

「……泣くか怒るかどっちかにしてよ」

「どうしよう! 血が止まらないわ」

 いつもの静世だ。

「笑うほど痛いのか?」

 嫌な声と共に、焼けるような痛みの肩がぐっと何かで押しつけられた。薄く眼を開くと、誰かの上着のようだった。

 血塗れになるから、よせばいいのに。

「ユエ。治せるか?」

「動脈を切っている。血を止めなければ……」

「ごめんね。ごめんなさい」

 白い指先が頬に触れた。

「……師範?」

「こんな目に遭わせてごめんなさい」

 師範が泣いている。朝香まで涙腺が緩んできた。

「……ごめんなさい」

 声を出すと、煩わしそうな声が降ってきた。

「謝るなら後にしろ」

 不機嫌な声は珍しい。そういえば、この男から感情のある言葉を聞いたことがなかった。いつもやる気のない声ばかり。それが嫌いだった。

「……良かった……」

 意識が白濁していく。

 それでも、自分が少しだけ泣いているのは分かった。

「……私だけが、だまされてたのね……」

 涙が頬を伝った。

「……良かった……」

 誰も憎まずに済んで。

 頭がふわりと浮いた。

 火照った首筋にひやりとする吐息がかかった。

 低い声は優しくまとわりついて、熱を奪っていく。

 その代わり、体の奧に熱を残して、深く吸い込まれていく。

 意識まで吸い込まれ、それきり、朝香の感覚は途切れた。




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