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オリジン  作者: ふとん
10/15

「朝香。そんな面白いお話を聞いてきたの? 私も行けば良かったわ」

「夏風邪引くなんて静世姉が悪いのよ。お陰で死ぬかもしれなかったんだから」

「でも私が行っても、死ぬかもしれなかったわね。そっちの方が良かった?」

「そういうこと言ってるんじゃないの」

 リビングでタオルをたたんでいる数斗の隣で繰り広げられる姉妹漫才はヒートアップしていく。その飛び火を避けるためにたたんだ洗濯物を持ってソファを立った。だが、やってきたユエに阻まれる。

「精が出ますね」

「そうなのよ。ユンちゃん。貴恵村さんってすごくマメなの。器用貧乏なのかしら」

 矛先をこちらに向けた静世が身もフタもないことを言ってくれる。

仕事の間に好きなことをしてよいと言われているが、特に趣味を持たない数斗は何となく自炊しているのだ。それにスペクストがまず便乗し、静世が風邪をこじらせて寝込み、朝香がバイトでやってきた。ついでに鞠やユエ、ミヤコが顔を出す。気がつけば、食事時には必ず台所に立っていたのだ。

 ユエは苦笑しながら、ソファに残っていた洗濯物を糊の利いた長袖ワイシャツの腕に抱え上げた。数斗以外のメンバーの中では彼が一番、身奇麗でマメだ。数斗と同じようにバイザーで目を隠したこの男は今日も神経質なほど奇麗になでつけたオールバックである。

「これは何処へ?」

 始めはこんなことは各自ですることだと渋い顔をしていたユエだが、ようやく趣味のない人間がいることが理解できたようだ。彼の場合、研究が趣味のようなものらしい。

「全部、洗濯部屋に。自分の服は勝手に取っていくから」

「あら。私も手伝うわ」

 ふらふらと部屋着姿の静世が立ち上がろうとする。まだ熱があるのだ。

「アンタは寝てなさい。あとでリゾットと桃を持っていく」

 静世は少しだけ目を瞬かせてから、珍しく素直に頷く。

「………はい」

 応えだけ聞いて、リビングを出た。

「静世が、貴方にはやけに素直だ」

 ドアの向こうに声が聞こえなくなってから、ユエは苦笑した。

「冗談じゃない。あの姉妹、俺を漫才でストレス死させる気だ」

 廊下を横切り、幾つかのドアを通りすぎる。ここには、S・S・Cのメンバーしか住んでいない。部屋は一人一つずつ与えられていて、この階の部屋は静世や朝香など、女性陣の部屋がある。数斗やユエの部屋は上の階だ。

「あの姉妹は仲がとても良い。彼女達は両親を早くに亡くしていますから」

「じゃぁ、あの静世が親代わり?」

「彼女達は十歳にも満たない頃、ここに保護され、ここで育ちました。私たちが親のようなものでしょうか」

「どおりで、妖怪に抵抗がない。特に吸血鬼に」

 ユエは青白い顔を緩めた。

 この男にしては珍しいことだ。

「……全く抵抗がないわけではないのですよ。彼女達は両親を妖怪に殺されている」

 よくあることだ。

「ご存じでしょう。退魔師は妖怪にひどく嫌われている。……彼女たちは目の前で両親を殺されたようです。だから、ここに来たときはひどいものだった」

「人間の人生は短いから。憎悪も持続しないんだ」

「うらやましい。そんな風に生きられたら、と思いますよ」

「意外とロマンチストだな。人間になりたいクチか」

 人間の中に、妖怪になりたがる物好きがいるのと同じほど、妖怪の中にも人間になりたがる者がいる。理由は様々だが、大体は恋人と同じ種族になりたがるのだ。交雑種の問題は何処でも同じように問題となる。

「私はおかしいでしょうか」

 そんなことを生真面目に聞いてくる奴が変わり者だ。数斗は思わず失笑した。

「長く生きるのは飽きるものだから。人間として生きてみるのも面白いだろうな」

 今度はユエの方が笑い出した。

「貴方も変わり者だ」

「よく言われるよ」

 刹那を鮮烈に生きてみたいというのは、妖怪の無い物ねだりだ。だから、せめて人間と関わって命の煌めきのようなものを目の当たりにしたい。そんな興味本位から人間社会に進出する妖怪は案外多い。住処の減少も社会進出の理由の一つではあるが、悠久の時を過ごす、一時の退屈しのぎなのだ。一瞬の人生をこれでもかというほど峻烈に生きる人間というものに出会ってしまったのだから。

「教授!」

 ちょうど洗濯部屋に洗濯物を片づけて出てきたところで、甲高い声に呼びかけられた。

 走り寄ってくるのは鞠である。いつもの上等なパンツスーツが今日は何処か着崩れて見えた。

「どうしたんだ、鞠」

 彼女の慌てた様子につられたのか、ユエは表情を正す。

「た、大変なの……」

「あの」

 数斗は話をとばっちりで聞く前に、口を挟んだ。

「俺はここに居た方がいいの? 用がないならキッチンに行くから」

 冷や汗さえかいていた鞠の表情が少し緩んだ。

「できれば、ここに居て欲しいわ」

 巻き込む気か。

 数斗が廊下の壁にもたれたのを同意ととって、鞠はユエに向かった。

「ミヤコがいなくなったわ」

「ミヤコが? 発作じゃないのか」

「違うわ。まだ一ヶ月も経っていないし」

「じゃぁ、何か手がかりは? 辺りに本当にいないのか?」

「わからない……。ミヤコにはとにかく外に出るなとマイスターが仰っていたから……。彼女がマイスターとの約束を破ったことはないわ」

 落ち着かない様子で、鞠は髪をかきあげる。

「私はここのところずっと出かけていたから、彼女のことはメネッセかスペクストに任せていたの。でも、今日になって、やっと片づいたから様子を見に行ったら……」

 ユエは狼狽える彼女と一緒になって、どうしようもなく視線を巡らせた。

「とにかく、メネッセとスペクストに話を。それからここに異常がなかったか調べて…」

「そんな悠長なことで本当に大丈夫? ミヤコにもしものことがあったら、私は……」

「一つ、提案が」

 小学生の生徒がよくするように、数斗が手を挙げて二人に呼びかけた。鞠が訝る。

「何……?」

「何か手がかりを見つけないことには探せるものも探せないのでは。だったら、大人しく地道な捜査から割り出していくのが妥当だ」

「……その真意は?」

「静世にリゾットを作って桃缶を開けなくちゃならない。その後でなら幾らでも探しに行くよ」

 なるほど、とユエは頷く。

「貴方にとって、優先順位が違うわけだ」

 数斗は呆れて首を振った。

「俺は約束した順に片づけていくんだ。公平だろ」


        ※


 ミヤコの部屋には何もなかった。

 ベッドもなければ椅子もない。ただ、数冊の本と一抱えはあるクッションが置いてあるだけだ。

「……リビングで入り浸るわけだ」

 物見遊山で眺めながら、数斗は呟く。

 ミヤコは普段、何も喋らない。しかし、リビングで洗濯物をたたんでいれば手伝うし、キッチンに来て

は皮むきを手伝った。一人娘ならさぞ可愛がられているはずなのに、どうして数斗の手伝いをしていくのかが不思議だった。

「駄目だわ……。スペクストもいない」

 部屋に入ってきた鞠は深く溜息をついた。

 数斗がリゾットを作っている間、鞠とユエの二人でメネッセやスペクストに事情を話しに行ったらしいが、スペクストだけが見つからないという。

「メネッセは、最近はスペクストがミヤコの面倒を見ていたっていうのよ」

 スペクストは、がさつな男だが存外に子供好きでもあるらしい。

「二人で一緒に出て行った可能性は?」

「それなら、スペクストは必ず私か師範に知らせる。無断で居なくなったことはない……。というより、何の反応もなく、ここを抜けられるはずはない」

 この地下施設には所狭しとセンサーが取り付けられている。指紋センサーはドアには必ず取り付けられており、あらかじめ入力された個人データを元に、本人確認が始終行われている。

 それが、忽然と消えているのだ。

「行方はわからないのか?」

「静世が得意なんだけど……」

 彼女は、一見元気そうでもまだ熱がある。術を使うことはできない。

「そういえば、あの姉妹、両親を早くに亡くしたと言っていたな」

「ええ」

 ユエを顧みる。

「どうやって術を覚えた?」

「マイスターと鞠に師事したのです。才能はありますから」

「なら、鞠が術を使うことは?」

「……できないわ。探索している人数が今、多すぎるの」

「しょうがない。探しに行くか」

 数斗は何気なく手にとっていた本をクッションの側に置いて、ドアへ向かった。

「待って。何処に行ったかもわからないのに……」

 鞠が急いで追いついてきた。

「ここで待ってても同じなんだろ? じゃぁ手分けして探した方が無難じゃないか」

「発作かもしれないの」

「発作? 病気なのか?」

 鞠はユエと顔を見合わせる。

「ミヤコの発作は、狼族特有のものです」

 ユエはためらいなく数斗を見遣った。

「月に一度、狼の姿に変身するのです。変身すると、彼女は意識を失い、本能のままに人を襲うことがあるのです。それを、私たちは発作と呼んでいます。ミヤコはその前後によく行方不明になります。貴方に会った時もちょうどその変身の時でした」

「今回もその発作?」

「いや……。以前の発作からまだ一ヶ月も経っていない。……説明のつかないことが多すぎる…」

 ユエはそのまま顔をしかめて考え込む。数斗は手を振った。

「じゃぁ、アンタはここに残ってアキラに伝えてくれ。俺はとりあえず探してみる」

「……私も行こう」

「誰かがアキラに知らせた方がいいだろう。瀬戸さんが残るのか?」

「私も行くわ」

 鞠は眉根を寄せたまま、応えた。「胸騒ぎがするの。危ないって分かっているのに朝香や静世に任せておけないわ」

 親心というやつなのだろうか。

「なら決まりだ。三人で行こうか」

 ミヤコの部屋を出ると、廊下でメネッセがスーツ姿の彫像のように壁際に立っていた。

「教授」

「メネッセ。できるだけ、朝香と静世の側にいてくれ。不測の事態だ。何が起こるかわからない」

「教授。マイスターに連絡は?」

「私から入れておこう。あなたは朝香と静世を頼みます」

「わかった」

 頷いたものの、メネッセはまだ何かを言いたげに立ち止まる。数斗が目の前に立って目配せしてやると、頷いた。

「スペクストに気をつけて」

 数斗は笑って少し高いメネッセの肩を叩いた。

「ありがとう」

 そう。ミヤコの行方はスペクストが知っている。

        ※

 雨が降っている。曇天の隙間を縫うように雨粒が走り、大地に命をもたらしている。

「大丈夫なの?」

 鞠が心配そうに尋ねてきたのは当然で、吸血鬼は流れる川や雨が苦手と言われている。

「俺は特別だから」

「混ざり者だから?」

 とはいえ、濡れるのは嫌がって数斗は傘を差した。

 地下へ続くエレベーターの入り口の屋根から臨む薄闇の雨模様は、むしろ歓迎すべき天気だ。しかし、着ている黒コートが湿気を吸い込み、重くなってきていた。

「車を出してくるわ」

 鞠はそう言って先に神社の階段を駆け下りていった。

「アンタは大丈夫なのか?」

 のんびりと男二人で境内を歩き始めて、ユエをサングラス越しに見遣った。皮ジャケットを羽織ったユエは、混ざり者ではない吸血鬼のためか、いつも青白い顔がさらに青ざめている。

「貴方ほど元気ではないが、平気ですよ。これでも、少しは長生きしている」

 雨が苦手というのは吸血鬼全てに当てはまらない。長く生きていれば対処法もある。

「そうか。いや、失礼だったな」

 ユエが首を振った。

「私は、人間から吸血鬼になった洗礼者です。雨や川には多少の耐久がある。それだけのことです」

「アンタは親が良かったんだな。それに洗礼者でも苦手な者は苦手だ。これはもう、生まれ持っての性質みたいなものだから」

 傘に跳ね返る雨音が少しずつ弱まってきている。もうすぐ上がるのだろう。境内を出て、数斗達は長い階段を下り始めた。

「……貴方はもしかして純種(ノーブル・レイス)のご子息?」

「……古い言葉を知ってるな」

 ノーブル・レイスは吸血鬼と吸血鬼の間に希に生まれる、純粋培養の吸血鬼のことを指す。元々、出生率の低い吸血鬼である。昨今の“親”殺しや居住環境の制限によってその人口は一パーセントにも満たないと言われている。

「それに、今じゃ“高貴な種族”なんて誰も使わないよ」

原種(オリジナル・シン)、ですか? キリスト教の原罪と同じ名前なんて、冒涜です」

「neighborhood」

 小雨になりつつある雨の間隙に薄い雲が覗いている。階段に覆い被さる林から落ちる水滴はすでにほとんどない。

「 “遠い隣人”っていうのがある」

「……聞いたことがありません」

 ユエは不可解なことを聞いたとでも言うように眉根を寄せる。数斗は面白半分で講釈を垂れた。

「オリジナル・シンは半端者がつけた名前だろ。大昔はエミグラント、なんて呼んでたらしいけど」

「エミグラント……? 亡命者、ですか?」

「吸血鬼は、古いだけが取り柄の種族だからな。呼び方は色々ある」

「……マイスターは貴方を、“存在”と呼んだ」

 苔むした階段は雨に濡れて随分と滑りやすくなっている。凹凸の少ない路面は滑り止めの少ない革靴をスケート靴にしたがっているようだ。

「私などよりずっと長く生きておられるマイスターが、存在と呼んだ。それはどういう意味だったのですか」

 靴音が階段で震動する。

「半端者は、確かにより力の強い者の血を求める傾向がある。しかし、モードレッドほど長く生きた半端者も珍しい。それだけに、既に子爵ほどの力はあるでしょう。なのに、まだ貴方の力を欲しがっている」

 傘はもう必要ないかもしれない。

 数斗は傘を閉じた。すると、小枝から落ちてきた雫が頬に当たった。

「貴方は、何者だ」

 つまらない質問だ。だが、非常に興味深い疑問でもある。

 階段ももう終わりだ。

「俺が聞きたいよ」

 数斗は最後の一段を下りた。

「どうかしたの?」

 愛車らしい外車の前に鞠が立っている。

「俺が何者かって話だよ」

 数斗は返事を待たず、たたんだ傘を先に放り込んで後部座席に乗り込む。

 続いてユエが助手席に、鞠が運転席に乗った。

 低いエンジン音が車内にも響き、タイヤがわずかに砂利を蹴る。

「私も知りたいわ」

 鞠がハンドルを切った。国道に乗り上げる前に車を止める。

「今はミヤコを探すんだろ。なら東へ」

「東?」

 助手席のユエが振り返ってくる。

「勘だよ。勘。闇雲に探すより良いだろ」

「そんな……。街は西ですよ」

「賭ける? アンタが勝ったら俺の正体を考えてみよう」

「ふざけないで下さい」

 ユエは不機嫌に顔をしかめるが、鞠は笑った。

「では、東から」

 車は東に向かって、動き出した。

 東側は何処までも深い森が続く山脈地帯だ。名ばかりの国道が敷かれてはいるが、車の通りはほとんどない。

 雨上がりの霧が山間を駆け上がっている。引いていく雨雲の隙間から陽光が差し込んで、霧と雲を照らした。

「アキラは何か言ったのか?」

 ユエはフロントガラスの先を見つめたまま、息をつく。

「いいえ。ただ、随意にせよと」

 気苦労の多いことだ。

「任せてくださっているのよ」

 鞠がスピードを上げた。

「危険な場所に行くのは、私たちだから」

「おいおい。そんなに出していいのか?」

 百キロを超えて、警告ランプがついた。ただでさえ曲線道路が多い道で、速度を上げるのは自殺行為だ。

「……後ろから何かがついてきてるわ」

 不穏当な冗談を言える状況でもない。バックミラーを覗くと、確かに何かがこちらと並走しようかという勢いで追いついてきている。

 車でもバイクでもない。煙のような霧をまとった空気の固まりである。それがジェット噴射の如く国道を疾走しているのだ。

 こちらは百キロをとうに超えて走っているというのに、固まりはゆっくりとだが、確実に距離を詰めている。

「あれに心当たりは?」

「あれば、こんなに驚きはしません」

 ユエは車の取っ手を掴んで苦々しく呻いた。

「そもそも、私はこういったジェットコースターのような乗り物が嫌いなのです」

「恨み言は後ろの奴に言ってくれ」

 数斗は後部座席に置いてある傘を持った。

「上の奴にも」

 三人ともスピードに乗った車のドアを蹴り開けた。そしてそのまま外に飛び降りる。

 次瞬。

 慣性で走る車の屋根に巨岩が突き刺さった。

屋根からひしゃげた車はそれでもよろよろと道路を走って行く。

 何処からか狙って落とされたとしか思えないようなタイミングの良さである。

 その次の瞬間。

皮膚を突き破りそうな強風が三人を襲った。分散した風は体を殴りつけ、もう少しで倒れかけた。しかし、目も開けられない突風は十秒ほどで通り過ぎたため、膝をつかずに済んだ。

 続いて、爆音が百メートルほど先の曲線で鳴り響く。乗り捨てた車がガードレールに衝突したらしい。

 体の重心を確認しながら立つと、道路の向こうに爆炎が見えた。

「……ちょっとしたアクション映画だな」

 のんきな感想を述べる間もなく、頭の上で空気が収縮し始めた。煙を上げて真空になり、一陣の突風を放つ。

 咄嗟に身をよじると、間近にあったガードレールとアスファルトが真っ二つに割れていた。

 かけ声も相談もないまま、三人は目の前のガードレールを飛び越えた。ガードレールの下は崖になっており、その下は鬱蒼とした森である。

 崖を滑り降りて、今度は木々の間をすり抜ける。樹陰を通り過ぎると小枝が鋭い破裂音と共に落ちてくる。しかしそれは予兆で、次は見えない大鎌が木の幹ごと切り倒す。

 一歩踏み出すと、不自然なことに邪魔になるほど生えていた草木がない。怪訝に思うのも束の間、地面がひとりでにうねり始める。

 飛び退いて枝につかまり、その枝に飛び乗る。だが、そこに奇妙な羽根を持つ人の頭ほどの球体が通り過ぎ、太い枝を切り落とした。

 切り落とされた枝の上を踏み台にして、更に上の枝に飛び乗る。

「大丈夫?」

 鞠も木の上に逃げたようだ。しかし、羽音を聞きつけて振り返らずに次の枝に飛び移る。

 轟音が木々を揺らした。思わず顧みると、ユエが空飛ぶ球体に向かって腕を突き出している。その爪が瞬時にコンバットナイフほどにまで伸び、追いかけてくる球体を切り捨てた。斬られた瞬間に、球体は大きな爆発音をたてているのだ。

 追いかけてくる球体の数は見る間に減っていく。しかし、彼が乗っていた枝を複数の球体の羽根が鋭く切り裂き、落とされる。バランスを崩したユエに向かって、残っていた球体、十数体が群がっていく。

「教授!」

 数斗と並走していた鞠がさすがに枝を蹴った。彼女が地面に降りた途端、草木の消えた地面が波打ったかと思うと粘土のようにうねった。

 鞠が咄嗟に飛び上がると、巨人の手のような形に地面が姿を変えて、彼女の足先を掴んだ。

 同時に数斗が乗っていた木が揺れ始める。しっかりと根を抱いていたはずの地面が底なし沼のように溶け始めている。数斗は鞠が乗っていた木に飛び移り、低い枝から鞠の腕を掴んだ。

 地面に引き込まれようとしている彼女の腕を辛うじて掴んだが、彼女の半身はすでに泥の中だ。

 泥は蟻地獄のように彼女の体に絡みつき、ずぶずぶと音をたててその粘度を増していく。

 ふいに、熱を感じて手を離した。

 気づいた時には鞠の腕を放している。

 再び掴もうとするが、彼女には届かない。

 鞠は沈み込む泥に手のひらを当てた。

 すると泥から煙が上がった。瞬時に焼け焦げた砂に変わる。

 鞠が目を閉じる。

 だがすぐに開いた。

 しかし、彼女の焦げ茶色の瞳は、青白い銀に変わって白々とした眼光を携えている。

 彼女が息を吸い込んだ。

 すでに泥は彼女の胸まで捉えている。

 しかし、鞠は胸襟いっぱいに空気を吸い込み、吐いた。

 吐き出したのは二酸化炭素ではない。

 青白い炎である。

 炎は彼女の周りを覆っていた泥を舐め尽くし、既に水のようになっていた地面を焦がす。焼かれた地面からは高温の水蒸気が上がり、雨上がりのひんやりした空気を一掃した。ひやされた水蒸気が小さな雫となって葉に着く頃には、泥は既になかった。代わりに辺りを埋めているのは乾いた砂である。

 数斗が降り立つと、砂漠の砂のように軽く足が沈んだ。

 この砂漠を作り上げた張本人はようやく砂から這い上がったところだった。

 助かったというのに何故か不機嫌な彼女に顔を向けると、鞠は砂のついた長い髪を肩から払った。

「靴を片方なくしたの。砂に埋まってしまったわ」

 上等なハイヒールが片方ない。それに数斗の着ているコートが何着買えるかわからないようなスーツが泥だらけだ。クリーニングに出しても、元通り着れるかどうか。

 とりあえず息をつくと、羽音が耳をついた。

 音源を見つけると、あの羽根のついた球体である。高速で動く羽根で木を切り倒しながら向かってくる。

 だが、道半ばで球体は爆発した。

 その小さな爆炎からはナイフが伸びている。

 否。

 長く伸びすぎた爪である。

「……散々な目に遭いましたね」

 指に残った煙を払って溜息をついたのは、ユエだった。

 煤汚れて所々服を斬られてはいるが、真っ直ぐ立っている。彼は煩わしそうに乱れて落ちてきたらしい、長めの前髪をかきあげた。バイザーをかけ直し、ようやく顔をあげる。

「いったい、何だったんでしょうか」

 数斗は足下の砂漠に何かの尻尾を見つけて引き抜いた。

 それは、小さな蛇だった。

 マムシにも満たないようなこの蛇は、すでに死んでいるようだが鱗はアコヤガイのように複雑な色合いで光っている。

「……ノームか」

 欧州の地下に暮らす土の妖精である。穏和な気性で、その上臆病なため滅多に人を襲うことなどない。

 ちょうど蛇の耳の後ろに、二本の牙痕がある。既に噛まれて死んでいたようだ。

「日本にはいない妖精ね…」

 顔をしかめた鞠に蛇を押しつけ、数斗は視線を巡らせた。

「あ、ちょ、ちょっと!」

 慌てる彼女を無視して、木の上にぶら下がっている物体を見つけて枝に飛びついた。

 幾らか枝を渡って木の頂上近くで、ぶら下がっていたのは薄緑色の鳥である。長い尾のこの鳥も既に死んでいる。

 鳥の死体を抱えて飛び降り、地面に近いところで枝に捕まった。

「それは?」

 死体をユエに持たせて、数斗は再び地面に降りた。

「シルフ」

 やはり欧州の海や森、草原に住む、何に対しても友好的な妖精である。ひとたび怒らせると烈火の如く怒り狂うが、サラマンダーとは違い、時間が経てば忘れてくれるお人好しだ。

 鳥も蛇と同じように首に牙痕がある。

「サラマンダーにノーム、シルフ……。どれも捕まえるのが難しいと言われている妖精だな」

「我々、吸血鬼でもなかなかお目にかかれない妖精ですよ」

 そう言ったユエの手にあったシルフの体から突風が巻き起こった。それは死体に絡め取り、やがて死体自体も風となって消えた。

 鞠が持っていた蛇も、土塊となって草木の下に消えた。

「……火で燃やすなんて、悪いことをしてしまったわね」

「狐火は、まやかしの火だと聞いたが、アンタの火は本物だったのか?」

 尋ねると、鞠は薄く笑んだ。

「幻の火は元々使える火だけれど、私は術と合わせて使うから、実際の火と変わらないの」

「彼女は私より長生きの九尾狐ですから、大抵のことはできます」

 隣から解説を入れたユエを、鞠は睨んだ。

「人を年増みたいに言わないでよ。私は、れっきとした神社の守り主なんだから」

「あの神社の?」

「そうです。確か、もうかれこれ二千年……」

「あの神社に来たのは千八百年前よ!」

 大声で大真面目に応えてから、乗せられたことを悟った鞠は、気まずそうに眉根を寄せた。

「……とにかく帰りましょう。私たちがこの調子だと、朝香達がどうなっているか心配だわ」

「ミヤコを探しに来たのに?」

「でも……」

 鞠は爪を噛む。

どうしようもない。手を打てば打つほど先手を打たれているのだ。ここから急いで帰ったとしても恐らく後手に回っている。

「それでも……」

 言いかけた鞠は息を呑んだ。

 微かな、獣の声を聞きつけたのだ。

 それは低く、しかしこちらに近づいてくる。

 シルフに切り取られた枝葉が鳴った。

 振り返ると、いつか見た銀色の狼がのっそりと茂みからこちらを窺っている。

 その物静かな瞳に数斗は見覚えがあった。

「ミヤコ」

 呼びかけると狼は唸った。険しい顔つきで身を沈める。

 獣特有の敏捷な体を伸縮させ、地面を蹴った。

 人型では歩きにくい草木の林をいとも容易く突っ切り、名前を呼んだ数斗に向かって大きな口腔を開けた。

「貴恵村さん!」

 飛び出してくる鞠を制止して、数斗は動かなかった。

 狼も立ち止まった。

 惑うように口を閉じる。

「帰ろう。ミヤコ」

 戸惑っていた禍々しいまでに大きな狼は、数斗の前で頭を垂れた。

 この狼、間近で見ると仔馬ほどの大きさがある。

 ちょうど額の辺りを撫でると、光沢のある銀の毛がふわりと指間を流れた。

 すると、次瞬にはそれが黒髪となった。

 黒髪は伸びて、銀色の毛は抜け落ち、手足は縮む。長い毛の間から白い手足が覗き、突きだした鼻は収縮し、目を閉じた少女の顔になった。

 十二、三歳の少女である。

 漆黒の表情が淡い瞳が見開く。

「……わたしは……」

 数斗は顔をしかめて、コートを脱ぐと少女に被せた。

 狼から変身を遂げたミヤコは、丸裸だった。

「着なさい。静世の二の舞になるから」

「あ……はい。でも……」

 数斗自身に童女趣味はないが、何処で変態吸血鬼が見ているか分からない。偏見だとは思うが、変態の考えていることは理解できない。

「あなたが風邪をひきます」

「………そうかもね」

 数斗は薄手のシャツ一枚である。ミヤコは、吸血鬼が寒がりであることもよく知っているようだ。ともすれば、風が吹いただけで鼻水が出るほど体が弱い。

「でも、俺はいいから。着てなさい」

 言った矢先に大きなくしゃみが出た。

「本当に大丈夫ですか……?」

 ユエや鞠も心配そうに眺めてくるが、どうしようもない。

「ミヤコは俺が背負うよ。コートごと背負っていれば、湯たんぽ代わりになるだろ」

 そう言うと、珍しくミヤコが笑って頷いた。

        ※

 ミヤコは何も覚えてはいなかった。ただ、最後に話をしたのはスペクストだという。

「スペクストが……?」

 国道を歩きながら、鞠は細い顎に指をあてた。

「急いで帰った方がいい」

 ユエが真面目顔で提案する。

「この中で、誰か瞬間移動の方法を知っているのか?」

 苛つくように鞠は顔をしかめる。

「どうすればいいのよ」

「どうもこうも。帰ればいいんだ」

 数斗も苛々と、眼前の道を睨みつけた。

 既に二時間以上、同じ道にいるのだ。

 いくら車を全力疾走で飛ばしたと言っても、せいぜい一時間程度の道のりのはずだが、いくら歩いてもたどりつかないのだ。

「幻術をかけられているのでしょうか」

「見ればわかる」

 歩くだけ無駄なので、鞠以外は立ち止まって霧の流れる同じ道を眺めている。

「誰よ。こんな場所に術をかけるなんて」

 鞠はジッとしているのが嫌なのかウロウロと動き回る。

「モードレッドか……スペクスト」

 ユエの言葉に、鞠が余計に苛々と眉根を寄せた。

「スペクストが? どうして?」

「わかりません」

 ユエにはっきりと言われて、鞠は黙り込んだ。彼女も可能性を考えていたのだ。だから尚更、不機嫌になる。

「あなたも考えて。貴恵村さん」

 そう鞠に睨まれて、隣に立っていたミヤコが背中に隠れた。

「とりあえず、道を開くか」

 いい加減、面倒だ。

 手のひらを正面にかざした。すると、暗幕を掴むような感触が指先に触れる。触れた先を数斗は掴んで無造作に引っ張り込んだ。

 バサリと紙芝居のように風景が変わる。

「……境内」

 ミヤコが小さく声を漏らした。

確かにここは道路の真ん中ではなく、境内の中である。湿気を含んだ森林が静かにたたずんでいる。

瞬間移動ではないが、近区域、自分の知っている場所ならば空間を移動することができる。元々は逃走用に身につけた術だったが、案外、用法はあるものだ。

 数斗は肩を回した。

「何かいるな」

 訳も分からず、辺りを見回していたユエと鞠が表情を堅くした。

「貴恵村さん」

「はい?」

「ミヤコを連れて、先に行って!」

 鞠が叫ぶと同時に、林の中から人間達がそぞろ出てきた。

 いずれも生気がなく、幽鬼のように、二十人以上が境内の周辺を取り囲む。そして、一斉に飛び上がった。

 死人形である。

 生きている間は決して使わなかった筋力を精一杯使って、彼等は異常な跳躍で一足飛びに襲いかかってくる。

 数斗はミヤコを背負うと、走り出す。追っ手がこちらに注意を向けるが、ユエに横面を殴られて昏倒した。

 地下へ続くエレベーターにはグールの手は伸びていない。

 今まで背中にしがみついていたミヤコが顔を上げた。

「スペクストが変」

 エレベーターは地下三階を告げた。

 廊下には誰もいない。

 数斗はミヤコを連れてリビングに向かった。

 だが、ドアノブを回そうとして、止める。

 次瞬。

 ドアごと何かが突き刺さった。

 幅広の剣先である。

 深く突き刺された巨剣は破裂音と共にドアを突き破り、大穴を開けた。

 その穴から何者かが飛び出し、剣を薙いだ。

 轟音が鳴る。

 剣先が方向を変えて、正確に数斗の喉元を指した。

「……数斗?」

 剣を突きつけていた青髪の男が、顔を上げる。

「……スペクスト。また鞠に怒られるぞ」

 顔を歪めると、スペクストは巨剣を引いて肩に担いだ。

「いやぁ。悪い、悪い。今さっきまでグール共がウロウロしてたんだよ」

「その割に死体がないな」

「全部外に放り出した。くさいだろ?」

「そうだな……。そういえば、朝香達は?」

「朝香ならそこに」

 スペクストに指されて、リビングを覗くと、朝香がソファの隅に座っている。

「朝香」

 呼びかけると、彼女は弾かれたように振り返る。ひどく怯えた顔だ。

 彼女は何かを言いかけて口を開くが、返事の代わりにミヤコをリビングに入れた。

「やっと見つけたんだ。服を着せてやってくれ」

 そのまま数斗は踵を返して部屋を出た。

「メネッセと静世は?」

「別の部屋で一緒に居るよ」

 スペクストはそう応えてから、手招きした。少し耳を傾けると、彼は低い声を出した

「裏切り者がいる」

 目を向けると、神妙な顔でスペクストは頷いた。

「教授だ」

「……ユエが?」

「グールが吐いた。今、ユエは?」

「どうするつもりなんだ?」

 スペクストは珍しく応えに迷って押し黙る。

「捕まえるなら何処かに閉じこめておけばいい。吸血鬼に操られているなら、呪力影響の無い場所で解呪する必要がある」

 提案すると、スペクストは巨剣の柄を握りしめた。


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