六話 無自覚の呪い
この世には、科学で説明できない不思議な事が沢山ある。
現代人は何でも科学で説明できないと信じない、不可思議な事など無いという人間が多いように思うが、かつては科学で説明できない事象は当たり前にあって、神々や悪霊の仕業であると信じられていた。
「おはようございます、珠姫様、ぶちちゃん」
にっこりと微笑んだ百目鬼は、白米を盛った茶碗と水を入れたお椀、猫用の餌と水入りの平皿を乗せた盆を手にして店の中をゆったりと歩く。
所謂お供え物というやつなのだが、神棚に供えるというわけではなく、店の片隅にちょこんと置くだけ。
「え、珠姫様パンの気分なんですか?困りましたね、今日はパン無いんです」
困ったように眉尻を下げた百目鬼は、今はこれで我慢してほしいと誰もいない空間に向かって拝み倒す。普通の人間には見えない存在が、百目鬼にはしっかりと見えているのだ。
豪華な着物を着た女性が、不服そうな目を百目鬼に向けている。従業員である蛇喰と共にこの店に来た、小刀に宿った霊。彼女はちょっとしたお願いさえ聞いていれば大人しく、店の守り神のような存在になっていた。
「ええ!珠姫様のおかげで私の望むお客様が多くいらっしゃいます!感謝しておりますとも!ですがこれから店の準備をしなければなりませんし、姫様御所望のパンは今日は手に入らないかと……」
勘弁してくださいと顔の前で両手を合わせる百目鬼の後ろで、パンと派手な音を立ててグラスが割れた。誰も近くにいないのに、まるで弾け飛ぶかのように割れたのだ。
これはマズいと、百目鬼の背中に嫌な汗が伝う。怒った顔で睨みつけてくる珠姫が望んでいるパンは、近所のベーカリーで販売されているクロワッサン。あれは朝一番に並ばなければ手に入らないもので、もう夕方を過ぎたこの時間では絶対に手に入らないものだ。
「おはようございます。……何してるんですか、二人共」
呑気な声で挨拶をしながら入っていた蛇喰は、珠姫の背中越しに懇願ポーズのまま半泣きになっている百目鬼を見て、呆れたような顔をする。
今一大事なんですと騒いだら、蛇喰は助けてくれるだろうか。そんな事を考えた百目鬼を無視して、蛇喰は静かに珠姫の元へ歩み寄った。
「珠姫、欲しいからってわざわざ枕元に立たないでください。おかげで寝不足ですよ」
不機嫌そうな顔をした蛇喰が、今は神のように見えた。
「あー!グラス割れてるじゃないですか!そういうのやめてくれって言ってるじゃないですか!」
ぎゃんぎゃんと文句を言いながら、蛇喰は珠姫の為に買って来たパンと、コンビニのサラダを皿に盛り始める。ついでにお茶も用意して、珠姫お気に入りの席にそれを置くと、割れたまま落ちているグラスを片付け始めた。
「どうしたぶち。お前も飯もらったんじゃないのか?」
掃除をしながら話しかける蛇喰の足元には、ぶち模様の猫が擦り寄っている。すっかり懐いた様子の猫を羨ましそうに見ながら、百目鬼はその場にしゃがみ込んでうじうじと落ち込んだ。
普段食事の用意をしたり、世話を焼いているのは百目鬼だ。だというのに、蛇喰にばかり懐くのが羨ましくてたまらない。
「ぶちちゃん、私の方に来てくれても良いじゃありませんか。ちゅ~る買って来たのは私ですよ?」
「好きな味じゃないそうですよ。ぶちが好きなのはささみ味です」
掃除を終え、破片を袋に纏めた蛇喰は、若干のどや顔をしながらポケットに入れていたちゅ~るを取り出す。足元にいたぶちがにゃあにゃあと大きな声で鳴きながらそれをくれ!と大騒ぎをする姿を見ているうちに、百目鬼は悔しさのあまり言葉にならない感情をどう処理すべきか分からなくなってきた。
「た、珠姫様!どうしたら私に懐いてくれると思いますか?!」
蛇喰特製プレートの前で座っていた珠姫は、興味無さげに百目鬼にちらりと視線を向けただけで、何も答えてはくれない。知らぬとそっぽを向いて、そのままスッと消えてしまったのだった。
「酷い……私これでもオーナーなんですが……」
「だったらオーナーらしくしてください。威厳も何も無いんだから。な、ぶち」
常人には見えない猫を可愛がりながら、蛇喰はふふんと鼻で笑う。もし今すぐに客が来たら、この店の二人は頭がおかしいと思われるだろう。ネットの口コミに書かれてしまったら、客足が遠のいてしまう。
「さて、開店までもう少ししか無いんですからしっかりしてください。あとそれ、食べてくださいね」
「また味のしない食事……」
「当たり前でしょう、珠姫様が食べたんだから」
何を今更と言いたげな顔をして、蛇喰は破片を入れた袋を持ち上げてカウンターを出る。
外のゴミ捨て場に捨てに行くのだと理解して、百目鬼は諦めたように溜息を吐きながら、珠姫の為に用意された食事に手を付けた。
いつもの通り、全く味のしない食事。面白くない感情が、更に膨れ上がったような気がした。
◆◆◆
「こんばんはー」
「お邪魔します……」
「いらっしゃいませ」
カラコロとカウベルの音をさせ、二人の女性が店に入ってきた。すっかり常連となってしまった木瀬と、もう一人は初めて見る顔だ。
「この間お話した沙耶です。連れてきちゃいました」
「町田沙耶と言います。はじめまして」
「いらっしゃいませ、町田様。私オーナーの百目鬼と申します」
あっちは蛇喰と付け足した百目鬼は、少し離れた場所で男性客の相手をしている蛇喰を指差した。今日は珍しく客が多い。店を開いてからずっと誰かしらの相手をしている。
きっと、食べたかったものを食べられて満足した珠姫のおかげだろう。彼女は怨霊だが、機嫌さえ良ければ客を呼び寄せてくれるのだ。
「何飲む?」
「カクテルなんて分かんないよ……ビールとか、ありますか?」
「ええ、勿論。木瀬様は何をご用意しましょうか」
「サマーデライトください」
「ふふ、お気に召したのですね」
せっせとドリンクの用意をする百目鬼は、コソコソと小声で話す二人を横目で見る。
幼い頃からの仲なのだから、仲が良くて当たり前。顔を寄せて回りに気を使って話している姿を見ているうちに、ふと町田が何かを目で追っている事に気が付いた。
百目鬼が町田の視線の先を見ると、そこにはぶちが歩いている。ゆらゆらと二股の尻尾を揺らしながら歩いている猫は、普通の人間には見えない筈。それを目で追っているという事は、町田は視える側の人間という事だろう。
「……見えますか」
「え……」
「猫、見えますか?」
「オーナーさんも、見えるんですか?」
「ええ。可愛らしいでしょう?当店の看板猫です」
猫又が看板猫の店はそう無いだろう。にんまりと嬉しそうに笑った百目鬼に少し引いたような顔をした町田の隣で、木瀬は首を傾げた。猫なんていないと呟く木瀬には、見えていないのだろう。
「お待たせいたしました」
コースターを置き、その上にそれぞれの注文品を置く。乾杯とグラスを合わせた女性二人は、一口飲んで息を吐くと、ちらりと百目鬼に視線を向ける。
「あの……この間お話した事、なんですけど」
「はい。町田様の周りで起きる不思議な事のお話ですね」
話を振った木瀬の隣で、町田は気まずそうな、何とも言えない顔をしている。百目鬼はにこにこと笑みを絶やさず話の続きを促して、木瀬に小突かれた町田がゆっくりと口を開いた。
「私、人を不幸にしてしまうんです」
幼い頃、意地悪をしてくる男の子がいた。あの子は嫌い、意地悪だから。そんな事を考えていたある日、男の子は階段から落ちて足の骨を折る大怪我をした。楽しみにしていた遠足の前日で、男の子は遠足には行けなかった。
「一番古い記憶ではその男の子の件なんです。でも、もしかしたら他にもあったかも……」
「偶然では?」
「私もそう思っていたんですけど……あまりにも重なりすぎて、怖くなって」
きっと気のせい、偶然が重なり合っただけ。そう思うようにしているのだが、三年程前に結婚した夫の事が気になって仕方がないのだという。
「夫と喧嘩をすると、必ず夫は怪我をしたり、病気になったりするんです」
結婚して初めて大喧嘩をした時、町田は一晩家出をした。気持ちが落ち着いて帰宅したのだが、二日後に夫は事故に遭った。大した怪我もなく、入院するような事も無かったが、誰かに押されたんだと言って取り乱していたそうだ。
「駅前の交差点だったので、もしかしたら本当に誰かがぶつかったりしたのかなって思ってるんですけど……次に喧嘩した時、今度は病気になったんです」
まだ二十代だという町田の夫は、喧嘩をした翌日から帯状疱疹を発症したらしい。もっと年を重ねた人間なら発症してもおかしくはないが、二十代となると少々珍しい。
なかなか治らず、一か月程苦しんだのだと言って、町田はちびりとビールを飲んだ。
「最近は、奥歯が無くなりました」
はあ、と大きな溜息を吐いた町田は、夫の奥歯が突然砕け、二本も抜いた事を話してくれた。
「今更だけど、めっちゃ喧嘩するじゃん」
「うーん……私は旦那の事大好きなんだけどね。向こうは喧嘩するとすぐ離婚!とかなんとか言うんだよね」
「モラハラじゃん……何で別れないの?」
どう思います?と百目鬼に話を振った木瀬の後ろに目を向けている百目鬼は、うっすらと口元を緩めながら小さく頭を下げる。
誰かいるのかと振り返った木瀬の目には何も映らない。誰もいない、静かに閉じられている扉があるだけだった。
「あの……?」
「ありがとうございました。またお越しください」
「うん、また来るよ」
ひらひらと手を振って店を出て行く男性客を案内している蛇喰が、そっと扉を開く。カラコロとカウベルの音が響き、町田がぴくりと何かに反応するように体を揺らした。
「あ……ごめん、帰らなきゃ」
「え?今来たばっかりじゃん」
「ごめん、旦那が帰ってこいって」
スマホを見せた町田は、困ったように眉尻を下げる。どこにいる?とメッセージが送られてきており、それを見た木瀬は心底嫌そうな顔をしてべえ、と舌を出す。
「束縛までされてるの?」
「違う違う、いつもいるのにいないから、どこにいるの?ってだけ。あと、昨日喧嘩したから今日は一緒にいようかなって……」
誘ってくれたのにごめんと言い残し、町田は百目鬼と木瀬に頭を下げて出て行った。
不満気な顔をしている木瀬は何となく寂しそうにしているが、じっと扉を見つめ続ける百目鬼は、にんまりと口元を緩めたままだった。
◆◆◆
一度店に来た客が、ある日突然飛び込んでくる……というのは、この店ではよくある事。
今日も飛び込んできた客を迎え入れ、百目鬼はニマニマとした笑みを押し隠しながら、狼狽えている町田に水を差し出した。
「どうされたのです?」
「あの……分からないんです。でも、ここに来なくちゃって思って……」
カタカタと震えている町田は、落ち着きなく視線を動かし続ける。見ている先には見えない筈の猫がいて、眠たそうに欠伸をしていた。
「私……私、やっぱりおかしいのかも」
「おかしい、ですか」
「だって、呪いなんてあるわけないし……」
ブツブツとありえない、非現実的だと呟き続ける町田は、無意識なのか爪を噛む。綺麗に整えられた爪が欠けてしまうのが勿体ないと思ったが、今の百目鬼はそれよりも気になる事がある。
町田の背後にぼんやりと立っている、若い女性が気になって仕方がない。
まるで巫女のような、何かの儀式用の服に見えるものを着ている女性は、顔を面布で隠している。この世の者ではない事はすぐに分かる。ただ、正体は分からない。
良い存在なのか、それとも悪い存在なのか、それすら分からない。ただ静かに佇んでいるという事は、悪いものではないのだろう。
「蛇喰くん、札掛けてきてください」
「はい」
すぐにクローズの札を掛けた蛇喰は、少し嫌そうな顔で町田の後ろを見つめる。彼がそんな顔をするという事は、ただの霊ではないのだろう。
「何があったのですか?」
「あ……また、喧嘩しちゃったんです。それで、離婚だってまた言われて……」
ガタガタと震えている町田は、以前店に来たあの日に喧嘩をしたらしい。今日から数えて一週間前の事なのだが、町田の夫は現在入院中だそうだ。
「何度も言われて、私もカッとなってしまって……離婚届け貰ったんです。自分の欄埋めて、何してるんだろう?って思って……そしたら電話があって、旦那が仕事中に大怪我をしたって」
わっと顔を覆って泣き出した町田の言葉を何とか理解しようと頭を動かし、百目鬼は困ったように視線をうろつかせる。
蛇喰にちらりと視線を向けると、既に百目鬼がやってほしい事をやってくれているようだ。
「……はい、わかりました」
目を閉じていた蛇喰は、ふうと小さく息を吐いて、冷えた水を一口飲む。疲れたと体の力を抜くと、今度は日本酒を塩と一緒に町田の前に置いた。
「貴方のではありません。触れないで」
「え……?」
「貴方の守護霊というか……まあ、素敵な方が背中にいらっしゃるんです。その方へのお供えです」
淡々と説明する蛇喰が怖いのか、町田はどういう事かと百目鬼に視線を向ける。
しかし、百目鬼は蛇喰にどういう事なのか説明しろとせっつく様に腰の辺りをつんつんと突いた。
「守り神みたいな方ですね。町田様が嫌な思いをしたり、悲しい思いをすると神様が怒るんです。そうして、相手に良くない事を起こす。先日いらした際も凄かったから」
怖いですと続けた蛇喰が言うに、町田の後ろに憑いているのは、町田専属の守り神のような存在らしい。
嫌な事をしてきた相手には容赦しないが、逆に嬉しい事、幸せだと思う事をしてくれた相手には恩返しをしてくれる存在なのだそうだ。
「流石蛇喰くん!私ではお姿は見えてもお話は出来なくて困っていたんです」
「俺だって結構苦労してます。精神力削られすぎて疲れるったら……」
ぐいぐいと自分の肩を揉んだ蛇喰は、スッと表情を消し去り町田に向かって言った。
「ご主人、次は死にます」
「え……?」
「守り神様……と呼びますね。守り神様が怒ってます。私の可愛い子を悲しませる人間はいらないって」
「どういう事ですか?」
わけが分からないと眉間に皺を寄せている町田は、蛇喰を睨みつける。
「そのままの意味です。ご主人は貴方と揉める度に離婚を持ち出す。貴方が離婚したくないと縋りつくって分かっているから、喧嘩を終わらせる為だけに脅しの様に言うんです。でも、その度に貴方は深く傷付いている。守り神様はそれが許せない」
そうですね?と視線を町田の背中に向け、蛇喰は呆れたように両手を腰に当てた。
「同じ男として情けないというか、何というか」
「ふふふ、独身の私たちには分からない苦労なのかもしれませんよ」
「独身でも、簡単に離婚なんて言っちゃ駄目だって事くらい分かりますよ。そんな簡単な事じゃないんだから」
やいやいと話す独身コンビの前で、町田は困惑した顔のまま、目の前に置かれた酒を見つめた。店の照明がキラキラと反射しているだけのはずなのに、ぼんやりと自分ではない誰かの姿が映ったような気がした。
「夫が改心したら、幸せに暮らせるんでしょうか?」
「無理だと思います」
きっぱりと言ったのは百目鬼だった。
口元はゆったりと緩んでいるが、その目は酷く冷たい。ぞくりと背中が泡立つような視線を町田に向け、細く、長く息を吐いた。
「人間は変わりません。自らの行いを恥じ、反省したとしても、変わるのは表面的な部分だけ。考えてもみてください。ご主人が本当に反省すると、貴方は思いますか?」
静かに問いかけた百目鬼に、町田は静かに首を横に振った。自分でも分かっているのだろう。これ以上夫と一緒にいても、幸せにはなれないと。
「お子さんがいないのなら、早くお別れになった方が良いかもしれません。貴方だって、
ご主人が死んでしまうのは嫌でしょう?」
「嫌です……」
「でしたら、なるべく早めに離れてあげてください。貴方にその気が無くても、守り神様は許さない。殺してしまいます」
ゆっくりと振り向いた町田の目には、何も映らない。誰もいない、静かな空間がそこにあるだけ。
「……今までの事は、偶然だと思いたかった」
「偶然ではありません。守り神様が貴方の代わりに怒っています」
有難い事ですと呟いた蛇喰は、じっと町田の後ろを見つめ続ける。
ゆらりと動いた巫女姿の女性は、ゆっくりとした動きで注がれた日本酒に顔を突っ込む。ゆっくりと顔が動き、起き上がった時には、注がれていた筈の日本酒は無くなっている。
「え……」
「神様、気に入ってくれたみたいです。日本酒、時々お部屋に置いてみてくださいね」
「ちなみに……町田様の神様は、私の願いも叶えてくださったりは……」
わくわくと期待するような顔をした百目鬼の前で、巫女姿の女性はふいと横を向く。面で隠れた顔がどんな表情をしているのかは分からないが、顔を向けている先には猫又のぶちがいる。ゆったりと座り、ゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
「嫌みたいですね」
「く……少し期待していたのに!」
心底悔しそうな顔をして震える百目鬼は、ぽかんとしている町田に気が付いて、こほんと小さく咳払いをした。
「町田様の周りで起こる事は、貴方のせいではなく、貴方の後ろにいらっしゃる神様の御業です。貴方のせいではありませんので、あまり気になさらない方が良いですよ」
「呪いが怖いのなら、あまり人と関わらないようにするか、神様との付き合い方を覚えるかです。頑張って」
死ぬまでその神様は傍にいる。今までも、これからも。
そう言ったバーテンダー二人の前で、呆けた顔の町田はぎゅっと唇を噛みしめた。
◆◆◆
カラコロとカウベルの音が響く。ひょっこりと顔を出したのは、少し落ち込んだ様子の木瀬だった。
「こんばんは……」
「いらっしゃいませ。どうかされたのですか?」
いつも通り椅子に腰かけた木瀬は、いつものようにドリンクを頼んでから話し始めた。
「沙耶の旦那さん、亡くなったんです」
「そうですか」
隣でライムを切っていた蛇喰がちらりと此方に視線を向ける。黙って話を聞いているところを見るに、興味はあるが関わりたくはないのだろう。
「階段から落ちて入院していたってお話は、この間沙耶がしていたと思うんですけど。あの後、病室でまた喧嘩になったそうなんです」
見舞いに行った町田が体調はどうかと尋ねると、「お前と結婚してから碌な事が無い!」と叫ばれたそうだ。
大した怪我もしておらず、すぐに退院できる筈だったのに、その日の夜に容体が急変し、そのまま亡くなったそうだ。
全身検査をしており、脳にも異常は無いと言われていたのに、突然脳出血を起こして亡くなった。そう話した町田と、今は連絡が取れないそうだ。
「何度連絡しても返事が無くて、家に行ってみたんですけど……誰もいないんです。突然引っ越したみたいで、沙耶のご両親にも連絡してみたんですけど、連絡取れないって言われて……」
心配そうな顔をして、うっすらと目尻に涙を溜めている木瀬の前で、百目鬼は静かにグラスをかき混ぜる。
「……これは私の想像ですが」
一度言葉を区切り、いつものように木瀬の前にグラスを置いた。百目鬼の隣に蛇喰が立つと、小皿に盛り付けたチョコレートを差し出し、百目鬼の言葉を引き継ぐように、優しい声色で言う。
「傷付けるのが怖いから、離れたんじゃないでしょうか」
「え……?」
「本当にご主人が亡くなってしまったから、怖くなったのでしょう。もし、貴方と揉めてしまったら、少しでも嫌な気分になってしまったら、貴方の事も傷付けてしまうかもしれない。それが怖いんですよ、きっと」
優しい人だから、怖くなって姿を消す事を選んだのでしょうと続け、蛇喰はまた元の位置に戻って行った。
言葉を横取りされた百目鬼は少しだけ不服そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて木瀬を慰める。
「まだまだ人生は長いです。もしかしたら、気持ちが落ち着いた頃に寂しくなって戻って来られるかもしれませんよ?」
「そう……でしょうか」
「ええ、きっと。木瀬様とは長いお付き合いなのでしょう?これまで、町田様と喧嘩をしてしまったり、良くない事があったりしましたか?」
百目鬼の問いに、木瀬はふるふると首を横に振る。それならきっと大丈夫だと微笑んだ百目鬼は、店の隅でじっとこちらを見ている女性に視線を向けた。
「蛇喰くん、珠姫様がお呼びですよ」
「分かってます」
「たまひめ?」
「当店の守り神様です。素敵なお着物をお召しの、美しい方です」
「へえ……」
また変な事を言いだしたと口元を引き攣らせた木瀬に、百目鬼は思い出したように掌を合わせて言った。
「木瀬様、大阪に行った事はありませんか?」
「一度だけ旅行に行った事がありますけど……」
「おすすめの場所をご存知ありませんか?今度行ってみようと思うのですが、行った事のある方におすすめを聞いてみたくて」
にっこりと微笑んでいる百目鬼に、木瀬は少し考えながら口を開く。
鉄板焼きが美味しいお店で、窓の外に大阪城が見えるのだという。
「高いビルなので、大阪城を上から見る事が出来るんです」
「お、珠姫様のお気に召したようです。店名などは覚えていらっしゃいますか?」
「どうだったかなあ……」
スマホを弄り始めた木瀬の後ろに、珠姫がゆっくりと近付いた。それに気付いていない木瀬はスマホに夢中になっているのだが、落ち込んでいた気分は少し落ち着いたようだ。
「いらっしゃいませ」
カラコロと鳴ったカウベルの音に反応した蛇喰が新しい客を招き入れる。
ソワソワとした様子で入ってきた男性客の相手をしながら、蛇喰はもう少し先になるであろう大阪旅行の事を考えて、小さな溜息を吐いた。
東京から大阪まで車で何時間かかるのだろう。百目鬼はどうせ、助手席で眠ってしまうのだろう。一人で長時間運転しなければならず、珠姫の相手をしなければならない事に辟易としながら、逃れられない運命を嘆きたい気分を堪えながら、蛇喰はオーダーされたカクテルを作り始めるのだった。