五話 猫
「こんばんは」
カラコロとカウベルの音を響かせながら、一人の女性がひょっこりと顔を出す。
「おや、木瀬様。こんばんは」
「また来ちゃいました」
酒が苦手だと言っていた彼女は、どういうわけだか店を気に入ってくれたようで、ノンアルコールのカクテルを楽しみに時々店に顔を出す。いつも一人で来店し、一時間ほど会話を楽しんで帰っていくのだ。
「今日は何をご用意しましょうか」
「サマーデライトください」
「かしこまりました」
炭酸入りのカクテルが気に入ったようで、木瀬はネットで調べたノンアルコールカクテルを色々と頼んでは楽しんでいる。
お酒が飲めなくても夜のひと時を楽しんでもらえるのは、百目鬼にとっても嬉しい事だ。
「最近、お身体はどうですか?」
「もうすっかり!本当に、ご迷惑をおかけしました」
以前仲の良い同期から贈られた狐のお守りで酷い目に遭った木瀬は、百目鬼を恩人として見ている。ドロドロとした黒い液体は、呪ってきた相手の怨念だと教えてやった時には顔を真っ青にしていたが、セージの葉が良いと教えてやってからは懐いてくれたようだ。
「まだ少し怖いなって思う事もありますけど……結構元気にやってます」
「そうですか、それは良かった」
木瀬から以前聞いた話では、呪いを送った同僚は相変わらず傍にいるらしい。何もしていない、恨みなど抱いていないといった顔で、当たり前のように話しかけ、仲の良い同僚として傍にいる。それが恐ろしいと思いつつ、適度に距離を取りながら傍にいるそうだ。
「何か良くない事があると、また呪われたんじゃないかって不安になったりしますけど…百目鬼さんに教えてもらったセージの葉のおかげで何とかなってます」
「ふふふ…呪いなんて大層な事をする人はそう多くありませんからご安心ください」
にっこりと微笑みながら、百目鬼はドリンクの入ったグラスを木瀬に差し出す。嬉しそうに微笑んだ木瀬が一口飲み込むと、いつものように「美味しいです」と笑った。
「百目鬼さんって、オカルト系のお話詳しいですか?」
「詳しいという程ではありませんが…何かあったのですか?」
「その…私じゃないんですけどね」
一瞬口ごもった木瀬は、ゆっくりとグラスを傾けながら話し始める。
「私の幼馴染なんですけど……最近悩んでるみたいで」
「と、言いますと?」
興味を示した百目鬼に促されて話し始めた木瀬は、幼い頃から仲の良い女性の事を話し始めた。
幼馴染である沙耶という名の女性は、子供の頃から不思議な事があったらしい。自分自身に何かあるというわけではなく、自分に何か嫌な事をした人間が不幸に見舞われるという事らしい。
「気のせいだとは思うんですけど、偶然にしては何度もあるので、沙耶本人が怖がってて」
「不幸と言いますと…例えばどのような?」
「相手が怪我をしたり、病気になったり……あとは、理不尽な理由で仕事をクビになったりとか?」
「ほほう」
浮気をした元恋人は、浮気相手に刺された。職場で嫌がらせをしてきた女性は、やってもいない不正を理由にクビになった。
最近は、喧嘩をする度に夫が怪我をしたり、病気になったりするらしい。
そうなってほしいと思ったり、考えたりする事はないのに、どういうわけだか、必ずと言って良い程相手に何らかの不幸が訪れる。それが怖いと、悩んでいるそうだ。
「それはそれは……サイキックアタックというものはあるそうですが、沙耶さんという方にそのような能力があるかはわかりませんね」
「そうですよねー……すみません、何か変な相談しちゃって」
「いえ、こういったお話には興味がありますから。もし宜しければ、沙耶さんも是非当店にお誘いくださいね」
にっこりと微笑みながらそう言った百目鬼に木瀬が返事をする前に、カラコロとカウベルの音を鳴らしながら買い出しに行っていた蛇喰が戻ってくる。重たい袋を二つも抱えて入ってきた蛇喰は、木瀬に向かって小さな声で「いらっしゃいませ」と声を掛けた。
「おかえり蛇喰くん」
「戻りました。ライムを忘れるなんて勘弁してください」
「あはは、ごめんね」
うっかりしていたよと笑った百目鬼の前で、木瀬はまじまじと蛇喰の顔を見る。少し長い前髪で目元が隠れているが、整った顔をしている事は何となく分かる。
「蛇喰さんってスタイル良いですよね。モデルさんとかやってます?」
「いえ、俺はそういうの興味無いので」
「勿体ない」
困ったように笑った蛇喰は、それ以上会話を続けたくないのか買って来たばかりのライムを切り始める。店内に爽やかな香りが漂い、仕事で疲れた心を癒してくれるような気がした。
「いらっしゃいませ」
再び鳴ったカウベルの音に、百目鬼と蛇喰が揃って声を上げる。入って来たのは若い男性で、小さく会釈をしていた。
「こちらへどうぞ。何をお作りしましょうか?」
百目鬼が促した席に腰を下ろした男性は、カクテルの名前が分からないと困ったように呟く。そういう客は多くいる事を教えてやりながら、好みの味や酒に強いか弱いのか、幾つか質問をした。
「あんまり甘いのは苦手です。そんなに強くも無いんですけど…」
「炭酸はお好きですか?」
「好きです」
「マリブコーラは如何でしょう。度数もあまり高くないですし、コーラがお好きでしたら飲みやすいかと」
にっこりと微笑みながら提案した百目鬼に、男性は安心したような顔で頷いた。きっと、こういう場に慣れていないのだろう。
「ところでお客様、お名前をお伺いしても?」
「え?あ、須藤と言います」
「須藤様ですね。私オーナーの百目鬼と申します」
手を動かしながら喋り続ける百目鬼に気圧されている須藤を横目に見ながら、木瀬はちびりとグラスを傾ける。何度かこの店に訪れているが、百目鬼が自分から客の名前を聞く姿を初めて見た。
常連相手に名前を呼んでいる姿は見た事があるが、そうでない客は「お客様」と呼んでいるのが常だからだ。
「須藤様、何か思い詰めていらっしゃる様子ですね」
出来上がったばかりのマリブコークを差し出し、百目鬼は心配そうな顔を作ってずいとカウンターに身を寄せる。須藤は少し体を引いたが、少し迷ってから口を開いた。
「その…彼女がいるんですけど、最近様子がおかしくて」
「ほうほう」
「猫みたいになるんです」
それはベッドの中で、という話じゃなかろうなとよこしまな事を考えながら、木瀬は二人の会話に耳を傾けた。ただ聞くだけならば、怒られる事は無いだろう。
「一緒に住んでるんですけど……ソファーに爪を立てて引っ掻いたり、真夜中に突然シャーッて言ったり……それが、威嚇してる猫みたいに見えるんです」
相当思い詰めていたのか、須藤はぽろぽろと涙を零しながら震える声で話し続ける。
交際して一年になる彼女とは、三ヶ月程前から同棲をし始めた。最初は何事も無く平和に生活していたのだが、一月程前から様子がおかしくなった。
昼間は殆どの時間を眠って過ごし、会社にも行けなくなった。代わりに、夜になると活動し始め、突然何も無い場所に向かって猫が威嚇するような声を向けるようになった。
バランスよく野菜もしっかり食べる人だったのに、肉や魚を生で食べるようになった。
長風呂するのが好きな人だったのに、今は水を嫌がって殆ど風呂に入らない。まるで毛づくろいをするように体を舐めるせいで、今の彼女は酷い姿をしているそうだ。
「会社は暫く休みなさいと言ってくれて、今の彼女は休職扱いになってます。でも、本当にどうしてしまったのか……」
「きっかけはあったのですか?」
「分かりません。僕が仕事から帰ったら既におかしくなっていて……」
号泣といっても良い程激しく泣き始めた須藤に同情したのか、蛇喰がそっとティッシュを差し出した。百目鬼は腕を組み、興味深そうな顔をして話の続きはまだかとワクワクしている。
「その日、彼女さんは何をしていたのですか?」
「彼女はシフト制なので仕事が休みで……友達と出かけてくるって言ってました」
「では、帰宅後におかしくなってしまったのかもしれないですね。何処に行くかは聞きましたか?」
「占いに行くって……」
ひぐひぐとしゃくり上げながらそう言った須藤は、落ち着こうとしているのかグラスを傾けて一口飲んだ。
冷たいドリンクで少しだけ落ち着きを取り戻したのか、須藤は貰ったティッシュで鼻をかみ、丸めたティッシュをスーツのポケットに押し込んだ。
「すみません、突然こんな話をして」
「いえいえ!大変興味深いお話です!」
どんよりと暗い表情をしている須藤とは対照的に、百目鬼の表情はキラキラと輝いている。隣で聞いている蛇喰は呆れたように溜息を吐きながら切りたてのライムをタッパーに詰め込んでいるが、何を言っても百目鬼が話を聞かない事が分かっているのか、止めようとはしなかった。
「話を聞いていただいて少しすっきりしました。そろそろ帰ります」
「はい、またのお越しをお待ちしております」
会計を済ませた須田は、店に来た時よりも少し晴れやかな顔をして頭を下げる。来た時と同じようにカラコロとカウベルの音を響かせて、扉の向こうに消えて行った。
「木瀬様」
「はい!」
「お代わりは如何ですか?」
「あ……えっと、同じ物ください!」
話を盗み聞きしているうちに、グラスの中が空になっていたらしい。慌てて同じ物を注文した木瀬だったが、何となく盗み聞きしていた事を咎められたような気分で落ち着かない。
百目鬼も蛇喰も何も言わないが、話に首を突っ込んでくるなと言いたげな視線を向けている。
「あの……本当にあるんですかね?さっきの人みたいなオカルト話って」
「ふふふ、この世には科学で証明出来ない不思議な事が沢山あるのですよ。木瀬様ご自身が体験されたでしょう?」
もう一杯のサマーデライトを差し出した百目鬼はいつも通りにっこりと微笑む。言葉の通り、木瀬はその身をもって非科学的な事を経験した。仲良しだと思っていた相手から贈られたお守りから、真っ黒なモヤが噴き出し、それに首を絞められるという経験を。
◆◆◆
それはいつも通りの夜の事だった。血相を変えた男性が扉を壊さん勢いで店に飛び込んできたのだ。
「おや、須藤様。いらっしゃいませ」
「助けてください!」
「はい?」
血相を変えて飛び込んできたのは、恋人が猫のようになると言っていた須藤だった。真っ青な顔をしているが、その頬には深々と爪で引っ掻かれたような傷が出来ている。うっすらと血が滲み、何とも痛そうだ。
「彼女がおかしくなって……」
「蛇喰くん、救急箱持ってきてくれる?」
「はい」
店の奥にいた蛇喰が驚いたように目を見開いていたが、言われた通りすぐさま救急箱を持って戻ってきた。中に入っているのはちょっとした薬や消毒液、絆創膏程度だが、何もしないよりはマシだろう。
「水です、良かったら」
氷の浮いた水を差し出した蛇喰は、間近で見た傷に顔を顰める。痛みを想像してしまったのだろう。須藤はボロボロと涙を零し、何があったのかをぽつぽつと話し始めた。
仕事を終えて帰宅すると、恋人は須藤に向かって威嚇してきたのだと言う。今まで空に向かって威嚇する事はあっても、須藤に威嚇をしたり、敵意を向ける事は無かったそうだ。
威嚇するだけならまだしも、今日は突然飛び掛かり、噛み付いたり引っ掻いたりと大暴れをし、たまらず玄関から逃げ出したそうだ。
「では、彼女さんはご自宅に?」
「その筈です。もう……どうしたら良いのか」
顔を覆って泣き出した須藤の前で、百目鬼は小さく「ふむ」と声を漏らす。視線はちらりと蛇喰の方を向いており、見られている蛇喰もまた、小さく「はあ」と声を漏らした。
「これは私よりも蛇喰くんの方が良いだろうね」
「言われると思いましたよ…」
「須藤様、ご自宅まで案内していただけませんか?」
「え…?」
突然の言葉に困惑したのか、須藤は涙で濡れた顔をゆっくりと上げる。途端に視界いっぱいに広がる百目鬼の満面の笑みに言葉を失っていたが、有無を言わせぬその表情に、こくりと黙って頷いた。
「支度をしますので少々お待ちください。大丈夫、怖い事はありませんよ」
フンフンと鼻歌を歌いながら地下へ降りていく百目鬼を見つめながら、須藤は呆けたように口を開く。これから何が起きるのか分かっていないのだ。
何故この店に駆け込んでしまったのか分からない。ただ、ここに来ればどうにかなると希望を持ってしまったのだ。少しだけ冷静になった今は、この人達に何を言っているのだろうと首を傾げたくなる。だが、百目鬼は恋人が猫のようになるという話を茶化さずに聞いてくれた。この人ならば、きっと真面目に話を聞いてくれる、そう思っていた。
◆◆◆
真っ青な顔をした須藤が案内してくれたのは、店からそう離れていない場所にあるマンションだった。扉に鍵を差し込み、ガチャンと音を立てて開錠した途端、それは起きた。
「おっと」
ダン、と響き渡る大きな音。きっと近隣の住民たちは何事かと様子を伺いに来るだろう。これから先も暫くの間この物件に住み続けるのなら、なるべく静かに、早く事を済ませた方が良さそうだ。
「彼女さんでしょうかね?少し手荒になりますが……蛇喰くん、頼んだよ」
「はい」
少し下がりましょうと言って、百目鬼は須藤の腕を引きながら三歩下がる。扉が開いた瞬間恋人が飛び出してくる事を警戒したのだが、蛇喰はあっさりと飛び出してきた体を受け止め、そのまま奥まで押し込んだ。
「すみません、靴を脱ぎますので少しお時間ください」
蛇喰は申し訳なさそうな声でそう言うが、興奮しているのか飛び掛かってきた女性は暴れながら蛇喰を引っ掻こうと藻掻いている。だが、体格差故かどれだけ女性が藻掻いたところで意味を成さないのだが、愛する女性が変わり果てた姿で暴れている姿を見ているだけで、須藤は涙が溢れて止まらないようだ。
「秋保……」
「秋保さんと仰るのですね。こんばんは、私Bar Morionのオーナー、百目鬼と申します。そちらは従業員の蛇喰。突然お邪魔して申し訳ございません」
聞こえているのかいないのかも分からないが、百目鬼は当たり前のように挨拶をする。蛇喰に押さえつけられ動けない秋保と呼ばれた女性は、怒り狂った獣のような声を上げて見慣れぬバーテンダー二人組を威嚇する。
「さて……蛇喰くん、君にも見えているね?」
「はい、猫ですね。大きいな」
須藤には見えていない猫の姿。百目鬼と蛇喰に見えている猫は、黒いモヤが集まり、猫の形を成した物だ。よく見れば尻尾が二股に別れており、所謂猫又のようになっている。
「返せ、と怒っています」
「何か大切なものを取り返しに来たのかな?それがどんな物なのか教えておくれ」
優しい声色で語り掛ける百目鬼の前で、秋保は僅かに落ち着きを取り戻したように動きを止めた。まだ唸る声は聞こえるが、蛇喰を攻撃するような素振りは無かった。
「ふむ。須藤様、秋保さんの荷物はどちらに?例の占いに行った時の荷物が怪しいと思うのですが」
「それならあっちに……」
玄関前でいつまでも揉めているわけにはいかない。蛇喰が小さく詫びながら廊下の奥、リビングまで秋保の体を運んだ。
須藤と百目鬼も続いてリビングに入った瞬間、百目鬼は嫌そうに眉根を寄せた。
「……酷い部屋ですね」
秋保が暴れたせいなのか、部屋の中は荒れている。カーテンが外れていたり、テーブルが薙ぎ倒されたりしているのだが、百目鬼の言う「酷い」はそういう意味の言葉ではない。
空気が淀んでいるのだ。須藤は何も感じていないようだが、この部屋にはむせ返る程の獣臭が漂っている。
「部屋は後で何とかしてあげましょうね」
「あの、多分これだと思います」
リビングの片隅に転がっていた小さな鞄を差し出した須藤は、未だに蛇喰に押さえつけられている秋保を怯えた目で見つめる。
彼の知っている秋保とは全く違う、荒々しく怒り狂った獣のような姿。彼女が元の秋保に戻ったとしても、須藤の脳裏には獣のような姿になってしまった秋保が残るだろう。
暴れないように押さえつけている蛇喰は、今後二人が元のように仲良く生活を共にする事が出来るのかを案じている。嬉々とした顔で鞄の中を漁っている百目鬼はそういった事を全く気にしない。
「ありました!」
取ったどーと嬉しそうな顔をして拳を天井に向かって上げた百目鬼は、にんまりと笑いながら掌に転がる小さな鈴を須藤に見せ付ける。
「これが原因です」
「鈴……ですか?」
ちり、と小さな音を立てた鈴は、百目鬼の掌の中で鈍く光る。見たところ随分古い物のようで、どうして秋保がそんなものを持っているのか分からないと、須藤は小さく首を振った。
「蛇喰くん、パス!」
ニコニコと楽しそうな顔をした百目鬼は、大人しくなった秋保の前で蛇喰に小さな鈴を手渡した。受け取った蛇喰がそっと目を閉じると、彼の目の前には彼の知らない記憶が浮かび上がった。
皺だらけの誰かの手。その手がそっと伸びてくる。何かを撫でているような動きのその手がフッと消えた。
次に見えたのは大きな箱だった。真っ白な箱の周りに沢山の人間が集まっている。着ている服は皆黒く、それが誰かの葬式である事は分かった。
更に浮かんだのは古ぼけた座布団。そこに横たわっているのか、世界は全て傾いている。徐々に暗くなっていく世界は、今蛇喰に様々な光景を見せている猫の最期の記憶なのだろう。
「……お前の飼い主から貰った、大切な鈴なんだな」
ぽつりと呟いた蛇喰の前で、「にゃあ」と猫が鳴いた。その瞬間、秋保の体から力が抜け、そのまま床に倒れ伏す。
頭を打たないように蛇喰が優しく支えたが、須藤はまだ怯えているのか動けないままだ。
「どういう経緯で鈴がここに来たのかは分からないが、お前の宝物だったんだな。返すよ」
空に向かって話続ける蛇喰は、優しく微笑みながら右手に乗せた鈴を差し出した。須藤には何も見えないが、先程よりも鮮明に、可愛らしいぶち模様の猫が浮かんでいるのだ。尻尾の先が二股に別れた、可愛らしい老猫が。
「待った!」
返そうとした瞬間、その手を百目鬼が止める。勿体ない事をするんじゃないと蛇喰を睨みつけた百目鬼は、猫に向かってキラキラとした目を向けて言った。
「猫さん、うちの看板猫になりませんか!」
猫は何も答えない。ゆらゆらと尻尾を揺らし、金色の瞳を静かに百目鬼に向けるだけだ。隣で聞いている蛇喰は呆れたように溜息を吐いているが、雇い主が何を言っても聞き入れない女である事は知っている。
「憧れてたんですよ、看板猫!でも私猫アレルギーで……霊体なら症状出ないし丁度良いと思いませんか?」
「…普通の人には見えないんで、看板猫にはならないかと」
「そこはもう私の気分的なアレなので構いません。どうです、猫さん?貴方が来てくれるのなら、その鈴はお店に飾らせていただきますよ。一番温かくて過ごしやすい所にね」
どうかな?と猫に向かって手を合わせた百目鬼に、猫はゴロゴロと小さく喉を鳴らす。
「来てくれるみたいですよ」
「やった!というわけですので須藤様、この鈴は頂戴します。構いませんか?」
「え?ええ…どうぞ」
意味が分からないと困惑している須藤は、倒れ込んだまま動かない秋保と、大喜びしている百目鬼を交互に見た。
「あー…取り敢えず部屋と秋保さんをどうにかしましょうか。須藤さんすみませんが、お風呂沸かしていただけますか?」
詳しい事は今から説明しますと、蛇喰は須藤に向かって頭を下げた。鈴を握って小躍りしている百目鬼は大惨事の部屋をどうにかする役目を完全に任せるつもりのようで、ふわふわと浮いている猫に頬擦りを繰り返すのだった。
◆◆◆
「いらっしゃいませ」
カラコロと鳴るカウベルの音と、男女二人の優しい声。穏やかなBGMが流れる店に、男女二人組の客が顔を出した。
「須藤様、秋保様、いらっしゃいませ」
「百目鬼さん、蛇喰さん、その節は本当にありがとうございました」
深々と頭を下げた須藤と秋保は、晴れやかな顔をしているように見える。須藤の頬にはまだうっすらと傷が残っているものの、以前店に来た時よりも顔色が良い。
「秋保様、お身体はどうでしょう?」
「まだお風呂が苦手ですが、元気になりました。全然覚えていないんですけれど……」
困った顔をして笑う秋保は、おっとりと笑うとても穏やかな女性だ。見えない猫を連れて帰ったあの日、秋保は蛇喰が用意した塩と酒を混ぜた風呂に頭まで突っ込まれた。少々荒療治となったが、意識を取り戻した秋保は目をぱちくりとさせながら「良太くん」と声を漏らしたのだ。
何があったのか簡単な説明をしてやると、秋保は占いから帰って以降の記憶がない事が分かった。例の鈴は、占い師からラッキーアイテムとして渡されたものだそうだ。
どうして占い師が鈴を持っていたのかは分からない。一緒に行った友人もラッキーアイテムとして小さな手鏡を貰ったそうだが、そちらの友人には何も無いそうだ。
「猫ちゃん、いますか?」
「秋保さんの足元にいます。挨拶してるのかな……すりすりしてますよ」
長身の男の口から出る「すりすり」という言葉は何となく面白いが、百目鬼の目にも秋保の足に体を摺り寄せる猫の姿が見えている。
「ああ、分かった。ごめんなさいって言ってます。怖い思いをさせたから」
「猫ちゃん……良いよ、気にしないで。私はもう元気だから」
秋保の目にも猫は見えていないが、足元を見下ろしながら優しく微笑む。須藤も同じように秋保の足元を見つめているが、表情は少々固い。
「おや、秋保さんその指輪……」
「へへ……結婚する事になりました」
照れ臭そうに笑った秋保は、百目鬼と蛇喰に向かって左手を見せる。薬指に嵌った真新しい指輪は、この先の人生を共に歩むと約束の証なのだろう。
「お幸せに」
優しく口元を緩めた蛇喰がそう言うと、百目鬼はパンと掌を合わせてウキウキとグラスを用意し始めた。
「お祝いにご馳走させてください」
「いやいや、悪いです…」
「須藤さん、この人話聞かないので断っても無駄です」
コソコソと忠告した蛇喰は、二人の前にナッツとチョコレートを盛りつけた小皿を置いて小さく笑った。
「いつまでもお二人が共に歩まれますように」
穏やかにそう笑った百目鬼は、恥ずかしそうにはにかむ恋人たちにオレンジ色の液体で満たされた小さなグラスを差し出した。
Bar Morionの夜はまだ長い。幸福な二人の門出を祝う店の片隅で、古い鈴がちりんと小さく鳴った。
最後のカクテルはサイドカーという名前のカクテルをイメージして書いています。花言葉とかカクテル言葉大好き