三話 ゆびきり
しとしとと降る雨は、朝になってもやまないらしい。天気予報アプリでそれを知った蛇喰は、少し嫌そうに顔を顰めながら溜息を吐いた。うねった髪をちょいと摘まみ、この湿気のせいで普段よりも更に酷くなった癖を睨みつけたが、その目が他人に見える事はない。顔を隠すように長く伸ばされた前髪が、彼の顔をしっかりと隠していた。
「蛇喰くーん、ちょっと良いですか?」
「はい、何ですか」
「ちょっと肩の調子が悪いんですよ。手伝ってもらっても良いですか?」
右肩を抑えて眉根を寄せている雇い主、百目鬼は、重たそうな段ボールを床に引き摺っている。傷が付くからやめろと何度も言っているのに、彼女はにんまりと嫌な笑みを浮かべながら「か弱いので」なんて言う。
「どこに運べば良いんですか?」
「いつもの倉庫にお願いします」
「ってことは……」
「はい!私の新しいコレクションです!」
キラキラと輝くような笑顔を浮かべる百目鬼の前で、蛇喰はがっくりと肩を落として大きな溜息を吐いた。彼女の言う「コレクション」とは、曰く付きの代物ばかり。普通の感性をした人間ならば、集めようとは思わないような代物ばかりだ。
「また……これは……」
「うふふ。素敵な代物ばかりですよ」
うっとりと頬を染めている百目鬼はいつもの事だが、蛇喰の目には段ボールの隙間から漏れ出る異様な空気が黒いモヤとして見えている。これだけの量のモヤが溢れているという事は、中に入っている物は絶対に碌な物ではない。それを確信しているのに、この雇い主はこれからこれを抱えて運べと言っているのだ。
「そんなに嫌そうな顔をしないでくださいよ。私だって大切なコレクションを人に任せるなんてしたくないんですから」
ぶすっとした顔で唇を尖らせた百目鬼は、右肩をゆっくりと何度も摩る。雨の日は痛むと前に聞いた事があるが、きっと今日も痛むのだろう。
「……分かりましたよ」
ガシガシと頭を掻きながら、蛇喰は諦めて段ボールを持ち上げる。出来るだけ体から離そうと思っていたのだが、箱は思っていたよりも重かった。しっかりと体を使わなければその重さを支える事は出来ないだろう。
「何が入ってるんですか?」
「コレクションです」
「そういう事じゃなくて…」
「えーっと……多分重たいのはとある占い師の方が持っていらした水晶玉でしょうか?」
占い師と言えばこれ、というような水晶玉が入っていると言った百目鬼は、いつものように目を輝かせながらそれがどういった曰くを持っていて、どうやって手に入れたのかを蛇喰に話して聞かせる。別に聞きたくはないのだが、両手が塞がっている今は耳を塞ぐ事も出来ないし、逃げたところで百目鬼は追いかけてくる。
「あいたた……」
「大人しくしていてください」
興奮気味に腕を上げた百目鬼が痛みに顔を顰める。大人しくしている事が出来ない大人とはどうなのだろうと呆れた目を向けた蛇喰だったが、彼女の肩がこうなってしまった原因が自分にある事を思い出し、いつものような憎まれ口を叩く事は出来なくなった。
「これを置いたら戻ってきますから、これ以上肩冷やさないでくださいね」
「はいはい、よろしくお願いしますね」
絶対に傷なんてつけないでくださいね!と念押しをして、百目鬼はふらりとカウンターに入り、お湯を沸かし始める。簡単な湯たんぽを作って肩を温めるのはいつもの事だ。
それを見届け、蛇喰はいつものようにバックヤードに入る。普通の店ならば店の備品やら在庫を仕舞っているのだろうが、この店は百目鬼のコレクションがぎっしりと詰め込まれている。
「う……」
一瞬怯んだ蛇喰の目には、どんよりと暗い部屋が広がっていた。電気を点けても何となく薄暗い。出来るだけ長居したくないと本能的な恐怖を抱くその部屋は、蛇喰の苦手な場所の一つだった。
抱えていた箱をそっと床に降ろし、部屋を出ようと踵を返す。その瞬間、うずたかく積まれていた箱が転がり落ち、避ける間も無く蛇喰の頭を打ち付けた。
「うっ」
カツンと甲高い音を立て、小さな木箱が蛇喰の足元に落ちる。まずいと思った時にはもう遅い。中に入っていたそれが、蛇喰の眼前に迫り、何の抵抗も出来ないまま、蛇喰はその場に崩れ落ちた。
◆◆◆
あちこちから聞こえる男女の声。あちらこちらで楽しそうに笑う甲高い声が聞こえ、ここが歓楽街というやつである事は何となく分かる。
「う……」
痛む後頭部を摩った蛇喰がゆっくりと起き上がり、恐る恐る周囲を見回した。先程まで店の倉庫にいたはずなのに、今自分がいるのはまるで時代劇のセットのような場所。
コンクリートの床だった筈なのに、今自分が手を付いているのは舗装されていない地面であると認識した瞬間、蛇喰は顔を覆いながら溜息を吐いた。
「やっちまった……」
状況の整理をしようと周囲を見回しながら、蛇喰は自分がどう動けば良いのかを考える。
時代劇のセットのような世界。テレビや映画で見た事があるような、遊郭と呼ばれた場所の真ん中に転がっている。しかし周りを歩く人間は、地面に転がる蛇喰に目もくれない。まるで存在していないとでも言うように、誰もが蛇喰の存在を無視し、それぞれが楽しそうにひと時を過ごしているのだ。
「アンタぁ、待ってたんだよ」
「ちょいとそこの旦那、寄っといでよ」
きゃあきゃあと甲高い女たちの声が煩わしい。どうして自分がこんな場所にいて、存在を無視されているのかも理解しきれないまま、蛇喰は小さく舌打ちをした。
昔一度だけ、不思議な体験をした事がある。蛇喰がまだ幼い頃、実家の蔵にあった櫛に触れた。螺鈿で彩られたそれがとても美しく見えて、手に取って見てみたかっただけだった。
櫛に触れた途端、蛇喰は見知らぬ海辺の町に立っていた。蔵から突然移動したことに驚き、怯え、泣いている子供がいるというのに、周囲の大人たちは誰も声を掛ける事すらしなかった。
まるで、そこに子供などいないかのように。
「あの時と同じか……」
あの時はどうやって戻ったんだったか。がしがしと頭を掻きながら考え込む蛇喰は、ふいに煙草の匂いがする事に気が付いた。
クンクンと鼻を動かし、匂いの元が何処なのかを探る。匂いが強いという事は、きっと近い筈だ。
「あ……」
上を見上げた瞬間、豪華な着物と簪を身に着けた女性が窓辺にいる事に気が付いた。目元を紅で彩った派手な美人。一目で彼女がこのおかしな現象の原因である事を理解し、蛇喰は女のいる場所を目指して走り出す。
建物の中に入っても、誰も何も言わない。気が付きもしない。透明人間になった気分で、蛇喰は間取りも分からぬ建物の中を駆け抜けた。構造が分からず何度か部屋を間違え、何度か気まずい場面に出くわしたが、いちいち気にしている場合ではない。
「うお……」
ふいに耳元に響いた和楽器の音。琴や三味線のような音だとは思うのだが、あまりにも大音量だったせいで何の楽器なのかまでは分からなかった。
思わず耳を塞いで動きを止めると、建物の中が真っ暗になっている事に気が付いた。行燈が全て消え、人の気配もしない程静まり返っている。
何か起きると警戒した蛇喰の前に、長い長い廊下が続いている。ぼんやりと薄明かりが灯り、こっちに来いと誘っているように思えた。
「行きたくねぇ……」
「つれないお方」
「うっ」
思わず呟いた独り言に返事があるとは思わなかった。飛び跳ねた心臓を抑えながら振り返ってみても、そこには誰もいない。あるのは真っ暗な空間だけだ。
「何だってんだよ……」
行きたくない。行きたくはないのだが、行かねば何も進まない。心底嫌そうな顔をした蛇喰は、そろそろとした足取りで灯りを目指して歩く。
時々子供の笑い声や、男の低い笑い声が聞こえる。普段ならば聞こえる筈のない声に驚いたりはしないのだが、今は少々状況が違う。
何か来るかもしれないという緊張状態が、徐々に蛇喰の機嫌を損ねていく。
「……旦那は、何処の誰だい」
光に近付くと、そこには先程窓辺で煙管を燻らせていた女がいた。目をぱちくりと瞬かせ、不思議そうな顔をしている女は、誰が案内したのだと不満げに呟いた。
「アンタ、誰だ」
「誰とは何だい。アンタこそ、まずは自分が名乗るって常識を持ち合わせてないのかい?」
不愉快そうに眉根を寄せた女は、先程と同じように煙管を咥え、煙を蛇喰に向かって吹き掛けた。ふふんと鼻を鳴らし、蛇喰を馬鹿にしているように見えるが、蛇喰はただ静かに「蛇喰」とだけ名乗った。
「貴方のお名前は」
「ふふん、多少は話が分かるらしいね。あたしは藤青。この店一番の花魁さ」
にんまりと笑った藤青という名の花魁は、不思議そうに蛇喰を頭の先からつま先までじろじろと観察するように視線を向ける。
「随分大きい旦那だね。その服、外つ国の人かい?」
「とつ……ああ、いや、俺は純日本人だ」
「ふうん……?」
もう一度煙を吸い込んだ藤青は、今度は蛇喰にかからないように煙を吐く。先程のあれは、威嚇のつもりだったのだろう。
「俺も聞きたい。これはアンタがやったのか?」
「これ?」
「俺を呼んだのはアンタか?」
「呼んでなんかいないさ。アタシが呼びたいのはあの人だけ……」
フッと、藤青の目は寂しそうに影を落とす。
その瞬間、藤青の姿は煙のように消え、その代わりに映画のように様々な光景が流れて消えた。
赤い金魚がゆらゆらと泳ぐ。色鮮やかな毬がコロコロと転がる。
—何で!どうして来てくれないんだい!
—嫌だよ、あたしが抱かれたいのはアンタだけなのに……。
—嘘吐き
「うっ……!」
耳元で囁かれた「嘘吐き」という言葉。それと同時に後頭部を殴りつけられたような衝撃が蛇喰を襲う。ぐらぐらと揺れる視界。痛みのせいか呼吸すら出来ず、蛇喰はその場に崩れ落ちる。
「あたしだけって言ったじゃないのさ……迎えに来るって、身請けするって言ったじゃないのさあ!」
「う……」
ガンガンと痛む頭を押さえ、蛇喰はゆっくりと顔を上げる。先程までのにんまりと美しく笑う女はどこにもいない。今いるのは、怒りに顔を歪ませる藤青だけだ。
「あたしの気持ち、知ってるじゃないのさ」
ゆらりと体を揺らす藤青は、ゆっくりと蛇喰に顔を近付ける。綺麗な顔をしている筈なのに、怒りと絶望に染まったその顔は、とても恐ろしく思えた。
それ以上藤青の言葉を聞きとる事は出来ない。だが、何か呟き続けているようで、低い声が静かに響いた。
「藤青さん……俺、は」
はた、と思い出した蛇喰は口を閉ざす。
あの時、頭に降ってきた箱の中身を思い出したのだ。
あの箱に入っていたのは、人間の小指だ。
「貴方の指、だったんですね」
蛇喰の言葉が聞こえたのか、藤青はぴたりと動きを止める。口を閉ざし、じっと恨めしそうな目を蛇喰に向けた藤青を見つめながら、蛇喰はゆっくりと言葉を紡いだ。
「指を切り落とす程、愛した人がいるんですね」
深く、深く愛した男がいた。
自ら指を切り落とし、変わらぬ愛を示す事までした。
それ程深く人を愛する事が出来る、愛情深い女性が、涙に濡れた顔でこちらを見つめている。
「悲しい思いをされたのですね。貴方の指は、遠い未来に残っています。小さな桐箱に収められ、大切に保管されていました」
頭に降ってきた小箱は、百目鬼がとある古い名家から譲り受けてきたものだった。
数世代前の当主が死ぬまで誰にも触れさせる事無く保管していた物で、触れた者の命を奪う恐ろしい呪物なのだと、百目鬼は目を輝かせていた。
「何があったかは知りませんが……少なくとも、貴方の想い人は貴方の事を愛していたのではないですか?」
「アンタに何が分かるっていうのさ!」
喚く藤青はぶんぶんと腕を振り回す。まるで駄々を捏ねる子供のようにも見えるその動きをじっと見つめながら、蛇喰は静かに言葉を続けた。
「想い人が妻を迎えた……とかですかね?それとも、迎えに来てくれなかった?」
「……あたしは、ただ……あの人の妻になって、幸せになりたかっただけなのに」
静かに涙を零す藤青は、ストンとその場に座り込む。しくしくと顔を覆って泣いているが、左手の小指は無かった。
「ああ、成程。身請けする約束をしていたのに、相手の方は妻を娶り、二度と貴方に会いに来なかった。裏切られたと思ったのですね」
泣いている藤青の後ろに浮かぶ映像。映像の中でも藤青は泣いており、小さな子供が二人必死に慰めている。
「貴方の記憶ですね。可哀想に、寂しかったですね」
裏切られたと思った藤青は、徐々に弱って死んでいった。美しかった藤青は老婆のように姿を変え、薄くボロボロの布団で静かに一人きりで息を引き取った。そんな映像を見た蛇喰は、目の前で泣き続けている藤青の肩にそっと触れた。
「俺にこれを見せてどうしたかったんですか?俺をここに呼んでどうしたかったんですか?」
「あ、あたし……」
優しく問いかける蛇喰の、藤青はゆっくりと顔を上げる。その顔は先程までの恐ろしい顔ではなく、美しい泣き顔だった。
「ごめんよ、アンタは関係無いのにね」
ふっと口元を緩めた藤青が、バイバイと小さく手を振った。小指の無い左手で。
◆◆◆
「……くん、蛇喰くん!」
「う……?」
「何してるんですか、全くもう」
クラクラと揺れる頭を抱えながら、蛇喰はゆっくりと体を起こす。目の前に不満げな顔をしている百目鬼がいるという事は、何とか上手い事戻って来られたのだろう。
「いつまでも戻ってこないから見に来てみれば……」
「すみません、呼ばれてしまったようで」
後頭部を摩った蛇喰の視線の先に、床に転がった小指がある。箱に戻してやろうとそっと摘まんだ瞬間、小指は土くれのようにボロボロと崩れ落ち、形を失った。
「あー!何するんですか!」
「しまおうとしただけですよ。ま、誤解が解けたというか、吹っ切れたというか……」
掃除をしなくてはと立ち上がった蛇喰は、半泣きで床にへたり込んでいる百目鬼の背中をじっと見つめる。
しくしくと泣いている姿が、藤青の泣いている姿と被って見えた。泣いている理由があまりにも違うが、泣いている女性の背中というのは同じだ。
「……肩、また痛みますよ」
「うう……今は胸が痛いです」
「はいはい」
呆れた声を漏らす蛇喰の鼻に、ふわりと香った煙草の匂いは、気のせいなのだろうか。
「ああもう!肩は痛いしお気に入りが台無しになるし!今日はお店閉めますよ!」
「給料はきっちり出してくださいね」
「守銭奴!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ百目鬼をあしらいながら、蛇喰は土くれになってしまった指を箒で掃く。ゴミ箱にサッと捨てて何となく手を合わせてみると、耳元で女の笑い声が聞こえたような気がした。