二話 女の恨み
楽しそうに街を彷徨う大人たちを眺めるように、オープンの札を掛けたBar Morionの扉はうっすらと店内の灯りを漏らす。中では黒髪を背中で一つに纏めたオーナー、百目鬼が鼻歌混じりにカウンターを磨いていた。
金曜日とはいえ、まだ二十時を過ぎたばかり。この時間にバーを選ぶ人間はあまり多くないのか、百目鬼は暇を潰す事にも飽きている。在庫管理の為に酒の残量を確認するだとか、果物を切ったり氷を削ったりという雑用は、たった一人雇っている従業員の男、蛇喰が済ませてしまっている。
「暇ですね」
「いつもの事じゃないですか。俺、ここで働き始めてから満席になったとこ見た事ないですよ」
呆れたような声でそう言った蛇喰は、やれやれと小さな溜息を吐いた。随分と背の高い彼は、昔身長はいくつなのかと聞いた時に「190くらいです」と答えていた事を思い出しながら、百目鬼はぼんやりと蛇喰の顔を見る。顔を見てはいるが、彼は長く伸ばした前髪で顔の殆どを隠していた。
「髪、切らないんですか?」
「切らないと辞めさせるって話なら切りますけど」
「そういうわけでは無いですが…邪魔ではないのですか?」
純粋な疑問を口にした百目鬼に、蛇喰は何も答えない。代わりに、扉に取り付けられたカウベルが控えめにカラコロと鳴った。
そっと開かれた扉から顔を覗かせるのは、若い男性。少し疲れたような顔をしてはいるが、慣れない店に興味津々なのか、忙しなく視線を動かしていた。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
「あ……どうも」
にこやかに招き入れた百目鬼に、男性客はぺこぺこと頭を下げながら店に足を踏み入れる。見たところまだ二十代後半程度の若い男性のようで、通勤用に使っているらしいリュックを胸の前で抱きしめていた。
「お足元の籠、ご利用ください」
「ありがとうございます」
蛇喰に指し示された籠にそっとリュックを入れた男性は、まじまじと蛇喰を見て薄らと口を開く。どうせ「デカいな」と思っているのだろうが、蛇喰にとってそれはいつもの事だ。
「何をご用意しましょうか」
「えーっと……すみません、カクテルとか良く分からないんです」
自分でも何故入ってしまったのか分からないと言って、男性は困ったように眉尻を下げた。そわそわと落ち着きなく座り直す仕草をした男性は、時折何かに怯えるように自分の手を摩ったり、もぞもぞと足を動かしている。
「お任せいただいても宜しいですか?」
「はい、お願いします」
視線を百目鬼に向けず、男性はもぞもぞと動き続ける。挙動不審といっても差し支えない程動き続ける男性に、百目鬼はスッと目を細めながら口元を緩めた。
手早くドリンクを作りながら、百目鬼はちらりと蛇喰に視線を送る。口をへの字に曲げた蛇喰は何も言わないが、彼は長年この店で働いているのだ。百目鬼が今から何を言うのか、既に予想している。
「私、このバーのオーナーをしております、百目鬼どうめきと申します。お客様のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
にんまりと笑った百目鬼に、男性はきょとんとした顔をする。どうして名前を聞かれたのか分からず、答えて良いのか分からないのだろう。だが、ニコニコと笑顔を貼り付けたまま動かない百目鬼の圧に負けたのか、小さな声で「林です」と答えた。
「林様ですね。何やら素敵な物をお持ちのようです」
「は……?」
笑顔を貼り付けたままの百目鬼は、作ったばかりのジンフィズを差し出して、ちょいと林の足元を指差した。林は眉間に皺を寄せ、変な女だなと言いたげな視線を向けているのだが、横でナッツを小皿に盛り付けている蛇喰は呆れたように溜息を吐くだけだ。
「林様、もしやオカルト系のお話にご興味があるのでは?」
「いや……無いですけど」
「おや、とても素敵な物をお持ちですのに、勿体ない」
面白いですよと目を細めた百目鬼は、ずいと体を林に寄せる。二人の間にはカウンターがある為ゼロ距離とまではいかないが、黙っていれば美形の百目鬼が一気に顔を近付けたせいか、林の顔はほんのりと赤く染まった。
「とても良い香りのする物です。お心当たりは御座いませんか?いっそのこと、お荷物を全てカウンターに並べて頂いても構いませんが」
「は……あの、何……」
困惑している林は、助けてほしいと視線で蛇喰に訴える。だが、こうなってしまった百目鬼が何を言っても無駄だと知っている蛇喰は、諦めてくれとでも言うようにゆっくりと首を横に振りながらナッツ入りの小皿を差し出した。
「最近、林様の身の回りで不思議な事はありませんでしたか?何をやっても上手くいかない、恋人と別れた……とか」
「何で分かるんですか?」
「ふふ、秘密です」
人差し指を口元に当てて笑う百目鬼は、そこだけ見れば相当の美人だ。百目鬼がどういう女か知っている蛇喰は何とも思わないが、そうではない林は一層顔を赤くして黙り込んだ。
「お寂しいのでしょう?長年連れ添った恋人と離れてしまわれて……」
「……二か月くらい前に、振られました」
ぽつぽつと話し始めた林が言うに、元恋人とは学生時代からの仲だったそうだ。
そろそろ結婚を視野に入れ、一緒に住もうと約束をして新居を探していた。なかなか二人の気に入る物件が見つからず、先に進めないと困っているうちに元恋人からの連絡が少なくなり、会ってもつまらなそうな顔をされたり、そっけなくなり……そのうち終わりにしたいと言われ、あっけなく去っていったのだと、林は声を震わせながら言った。
「いつまでも待たせていたからいけないんですよ。俺がもっと譲歩して、彼女の要望に寄り添っていれば、もしかしたら今頃二人で暮らしていたかもしれないのに」
後悔しているのか、林はグラスを傾けながら力なく笑う。寂しそうに口元を緩め、スマホの画面を撫でている姿に、百目鬼は小さく息を漏らして胸に手を当てた。まるで海外ドラマの女優がやりそうな仕草だが、美人がやると様になってしまうのだから不思議なものだ。
「何度か連絡してみたんですけど、今はもう返事もくれなくて。諦めるしかないって分かってはいるんですけど、どうしても……忘れられないんです」
「それだけ深く愛されていたのですね」
「そう、ですね。今でも戻って来てくれないかなって思います」
項垂れた林を、バーテンダー二人組がじっと見つめる。百目鬼は悲しそうな顔を作っているのだが、蛇喰は違う。前髪で隠れているせいで殆ど見えていないが、彼の顔は心底嫌そうな顔をして、眉間に深々と皺が寄っている。
「臭い」
「え……?」
「酷い匂いだ」
鼻を腕で抑えた蛇喰は、込み上げてきた吐き気を堪えるように息を詰める。顔を背けて嫌そうにしている蛇喰が感じている匂いは、林には分からない。自分が臭いと言われていると思っているのか、自分の腕をスンスンと嗅いでいた。
「ええ、本当に素晴らしい香りです。まるで真夏のキッチンに鶏肉を出したままにした日の夜のような……」
うっとりとした顔でスンスンと鼻を動かす百目鬼を呆けた顔で見つめる林に、「お気になさらず」と一言告げた蛇喰は、カウンターからするりと抜け出して大股で歩くと、すぐさま店の扉にクローズの札を掛けた。
「え?え?」
「林様、先にお詫び申し上げます」
「は?あ、ちょっと!」
蛇喰の動きに注目していた林は、いつの間にか隣に立っていた百目鬼に驚き声を上げる。深々と頭を下げた百目鬼は、先程林が籠に入れたリュックを持ち上げ、全く躊躇する事無く中身を全て床にぶちまけた。バラバラと散らばる私物を慌てて集めようと床に這いつくばった林に構うことなく、蛇喰はリュックの中に腕を突っ込み、最後にはバサバサと音を立てて振った。
「何するんですか!」
林が怒るのは当たり前の事だ。彼は腕に抱えられるだけの私物を集め、百目鬼が持っているリュックを取り返そうと腕を伸ばす。しかし、百目鬼はくるりと背中を向けてリュックを振り回し続けた。
「何なんだこの店は!」
そう怒鳴った林の足元に、カツンと小さな音を立てながら、小さな石が転がり落ちた。
「見つけました!」
キラキラと目を輝かせた百目鬼は、林よりも早く石を拾い上げようと床に這いつくばる。細い手でしっかりと石を握りしめ、ほうと小さく息を漏らして嬉しそうにしているのだが、先程まで振り回していたリュックは床に投げ捨てられていた。
「林様、大変申し訳ございませんでした」
林に深々と頭を下げ、百目鬼が放り投げたリュックを拾い上げた蛇喰は、一つ一つ丁寧に床にぶちまけられた荷物をリュックに戻していく。床に這いつくばったままの蛇喰を軽く蹴飛ばすのはいつもの事だった。
「林様、最近川に行きませんでしたか?」
「行ってませんけど……」
じとりと百目鬼を睨みつける林は、百目鬼の言葉を否定する。すっかり嫌われてしまったというのに、百目鬼は一切気にしていないようで、ゆっくりと立ち上がり、掌に転がした小石を林に見せ付けた。
「身近な方で、これを拾った方がいらっしゃる筈です。お心当たりは?」
「……甥っ子、だと思います」
林が言うに、少し前に兄が妻と子供を連れて実家に遊びに来たそうだ。その時林のリュックに興味を示したのはまだ幼い甥っ子で、触っているのを見つけて軽く叱ったそうだ。
「では、甥御さんにお伝えください。石は持ち帰ってはいけませんよ、と」
「その前に、他人の荷物を床にぶちまけてはいけないという常識を身に着けてはいかがですか」
正論を言い放った林をさらりと無視をして、百目鬼は嬉しそうな顔をしながら小石に頬を摺り寄せる。荷物を詰め終えた蛇喰は再び頭を下げながら林にリュックを持たせ、百目鬼の脇腹を小突いた。
「大変失礼いたしました。これが欲しくて」
これ、と言って小石を突いた瞬間、林の鼻に突き刺すような異臭が届く。思わず鼻と口元を抑えたが、込み上げてくる吐き気に耐える為に呼吸を詰める事しか出来ない林は、何が起きたのかを把握できていない。
「素晴らしい!とても強い力を持っているようです。甥御さん、よくご無事でしたね」
「うえ……」
「林様、無理せず吐いて構いませんよ」
蛇喰が差し出した袋の中に、先程飲んだばかりの酒をぶちまけ、林はうっすらと涙の浮かんだ目で百目鬼を見つめる。この強烈な匂いを全く感じていないかのような彼女が信じられないのだ。
「あの人、鼻どうなってるんですか?」
「頭がおかしいんです」
小躍りしている百目鬼を呆れた目で見た蛇喰は、カウンターの中に腕を伸ばし、ミネラルウォーターが入ったボトルを林に手渡した。
「石は宿りやすいんです。旅先で綺麗な石を見つけても、持ち帰ったりしてはいけませんと、甥御さんに伝えてください」
「は……?」
「見ていれば分かります。あの人やらかすので」
じりじりと警戒するように林の前に立った蛇喰は、百目鬼が小石に向かってフッと息を吹き掛ける姿を見た。
その瞬間、店内に漂っていた腐臭が一層強くなり、蛇喰の背後で林がもう一度胃袋の中身をひっくり返す。
「こんばんは、良い夜ですね」
うっとりとした声色でそう言った百目鬼の手元から、黒いモヤが噴き出している。それがゆっくりと人の形を成し、黒い人影がゆらゆらと動き、徐々に百目鬼の顔を覆っていく。
「ひ……!何ですかあれ!」
「幽霊ってやつです」
怯えた声を上げる林の問いに、蛇喰は何てことは無いといった声色で答える。
蛇喰の目にはもう少し鮮明に「幽霊」の姿が見えているのだが、とても口で説明できない程酷い姿をしている。それを丁寧に説明してやる理由も無く、簡単に幽霊とだけ説明をしたのだが、たったそれだけの言葉で林は冷静さを失い、吐きながら喚き続けた。
「おやおや……それは苦しかったですね。ですが、あの方は無関係ですから巻き込んではいけませんよ。え?それは嫉妬というやつです」
まるで独り言を喋り続けているように見えるが、百目鬼の目の前にはこの世の全てを恨むような形相をした女が立っている。その姿が林に見える事はないのだが、それを気にする事無く喋り続ける百目鬼は、この世の存在ではなくなった女性を憐れむように、時折小さな溜息を吐きながら話をし続けた。
「八つ当たりはいけませんよ。林様は何も関係無いのですから。それ程までに恨みが深いのでしたら、私が良い方をご紹介いたしましょう」
何を言っているのか、言葉の意味を理解出来ていない林は、強すぎる腐臭にクラクラとする頭をなんとか支えながら黙って立っている蛇喰に視線を向ける。しれっとした顔で、なんてことは無さそうな顔をしている事が不思議で仕方なかった。
「あの方は、恋人に酷い裏切りをされたそうです。可哀想に」
「え……?」
「貴方も同じだ、と言っています。身の振り方には気を付けた方が宜しいかと」
淡々とそう言った蛇喰は、そろそろ大人しくさせてくれと言いたげに百目鬼の名を呼んだ。モヤに覆われた百目鬼はやや不服そうだが、小石を掌でパンと音を立てながら叩くと、モヤは一瞬で小石の中に吸い込まれて消えた。
店の中はまだ酷い匂いでいっぱいで、蛇喰は店の換気扇を最大にしたり、窓やドアを開いたりと、せっせと換気をし始める。へなへなと体の力を抜いた林は、愛おしそうに小石を撫でている百目鬼を見つめ、ぽかんとした表情を向けた。
「この素敵な石、私に譲ってはいただけませんか?」
「へ……?」
「女性の怨念が詰まった石、とても素敵な一品でしょう?是非、私のコレクションに加えたいのですよ」
ニコニコと嬉しそうな顔をした百目鬼が、ゆっくりと林に向かって歩み寄る。見た目だけは綺麗な女が、うっとりと目を蕩けさせ、うっすらと頬を染めた表情で歩み寄れば、普通の男性ならばぽうっとなっても仕方がない。しかし林は、つい先程までの異様な雰囲気を纏った百目鬼を目にしたばかりで、とてもそんな気分にはなれなかった。
「林様が恋人とお別れになったのは、この素敵な石のせいですよ。この素敵な石を私に譲ってくだされば、恋人も戻ってくるかも……しれませんね?」
「あの、好きにしてもらって構わないです。自分の荷物に入っていた事にも気が付かないくらいなので!」
「そうですか!それでは、有難く私のコレクションに加えさせていただきます。本日のお代はこちらで」
こちら、と言って掌に転がした小石を見せる百目鬼の表情が、まるで蛇のように見えたのは自分の気のせいなのか。それとも、先程の異様な雰囲気を纏った姿を見てしまったせいなのか。自問自答を続ける林に興味が無くなったのか、百目鬼はフンフンと鼻歌を歌いながらカウンターの中へと引っ込んで行った。
◆◆◆
カラコロと控えめなカウベルの音が響く。まだ店を開くには随分早い時間に、蛇喰は重たい箱を抱えてドアの隙間に体を捻じ込む。少しくらい手伝ってくれても良いはずなのに、オーナーである百目鬼はちらりと視線を向けるだけだった。
「戻りました」
「はい、おかえりなさい」
「またその石見てるんですか」
「ええ。素晴らしい程の怨念ですから。見ていて清々しいですよ」
うふふ、と小さく笑った百目鬼は、先日手に入れたばかりの小石を手にくるくるとその場で回る。石を持って喜んでいるだけでもどうかしているというのに、その石には恋人に裏切られた末命を絶った女性の怨念が籠っているのだから、どうしてそれを持って小躍り出来るのか、蛇喰には分からない。
「相変わらず、変人というかなんと言うか」
「誉め言葉ですよ」
にんまりと笑った百目鬼は、店の支度をする気になったようで、小石をポケットに突っ込んでから箱の中を覗き込む。ライムやらレモンなどの他、業務用のナッツなどが詰められた箱を抱えている蛇喰としては、正直置いてから覗き込んでほしいのだが、百目鬼に何を言ったところで意味は無い。どうせ、「男の子は力持ちですから」なんてふざけた事を言うだけだ。
「そういえば、林さんを見かけました。女性と歩いていましたよ」
「そうですか。仲直り出来たのだとしたら、素敵な事です」
買い物をしている最中に見かけただけだが、先日見た時よりも随分と顔色も良く、嬉しそうに微笑みながら歩いていた。隣を歩いていた女性も柔らかく微笑んでおり、仲睦まじい二人はこれから先も手を繋いで歩いて行くのだろう。
「……ま、亡くなった方よりも生きている人間の方が恐ろしく、おぞましいのですけれど」
ぽつりと呟いた百目鬼の言葉が意味している事を理解出来なかった蛇喰は、小さく首を傾げながらカウンターに箱を置く。
トントンと腰を叩いた蛇喰の視線の先で、エプロンの紐を締め直した百目鬼がにんまりと笑った。