王家から下賜された首飾り
エイブリーと共に執務室に入った途端、カロラインの体から力が抜けた。ふらついた体をエイブリーが危なげなく支える。カロラインは彼の手を借りて、長椅子に腰を下ろした。
「手が震えている」
エイブリーはカロラインの隣に腰を下ろすと、両手で彼女の手を包み込んだ。カロラインは自分が震えているとは思っていなかったので、自分自身の反応に驚いてしまう。父親の暴力には慣れたと思っていたが、ここしばらく幸せだったから恐怖が大きくなったようだ。
「今日は殴られなかったのに」
「カロライン、いつも手をあげられていたのかい? 抵抗したことはないのか?」
エイブリーはぎゅっと力強く彼女の手を握りしめた。間近に覗き込まれて、カロラインの方が困ってしまう。
「だってわたしではお父さまを止めることはできないし、抵抗すると暴力が倍以上になってしまうから」
「……そうだったのか。言ってくれたらいつだって助けに行ったのに」
エイブリーはカロラインの言葉だけで、今までどんな経験をしてきたのか理解したようだった。その顔には苦悩の色が浮かんでいる。どれほど大切に思ってくれているのか、それだけでもわかる。
四年前にガートルードが死んでから、カロラインのことを心から心配してくれるのはブロンテ侯爵家の人たちだけだ。中でもエイブリーは妹のようにかわいがってくれていた。
幼い頃、まだ幸せだった頃はブロンテ侯爵家に遊びに行くとエイブリーの後ろについて回ったものだ。そんな懐かしい思い出と共に、ガートルードが亡くなってから豹変したようなジェイデンが思い出される。
初めてジェイデンに殴られたのは一体いつだったか。
愛されていないことは知っていた。でも、手をあげられたのはガートルードが死んでからだ。
「わたし、エイブリー兄さまには知られたくなかったの」
カロライン自身、情けない状況を知られたくなくて隠していた部分もある。それにまだ家長に従うべきという文化は貴族の中には根強く残っているため、騒いだところで逆にきつい躾をされる可能性もあった。
エイブリーは大きく息を吐くと、後悔を振り払うように首を左右に振った。
「本当にどうしようもない男だ。君の父親でなければ――」
「わたしは父親とは思っていないわ。わたしにとって家族はお母さまだけ」
「ザガリーもだろう?」
場を明るくするためか、揶揄うように付け加えられて、血の気の引いた顔にぱっと朱の色が散る。その恥ずかしそうな様子を見て、エイブリーは声をあげて笑った。
「おやおや、随分と愛されているようだね。彼は君を大切にしてくれているようだ」
「もちろんよ」
カロラインはこれだけははっきりと言えると、大きく頷いた。
「そうだろうね。ここ、愛されている証があるよ」
そう言いながら、エイブリーは自分の首筋をとんとんと叩く。その仕草がよくわからなくて、カロラインは目を丸くしながら自分の首に手を置いた。
「ここ?」
「そう、赤くなっている。わざわざ見えるところにつけるなんて、君の夫は嫉妬深い男のようだ」
「え!」
何を言われているのか、ようやく気が付いてカロラインは慌てた。恥ずかしさに耳の裏まで真っ赤にした。その初々しい様子に、エイブリーは笑みを浮かべた。
「幸せそうで何よりだよ」
恥ずかしさと幸せだと叫びたい気持ちでいっぱいになっていると、ノックもなく扉が開いた。
「カロライン! 大丈夫か?」
飛び込んできたのはザガリーだった。突然の帰宅に、カロラインは腰を浮かす。
「ザガリー、今日は仕事で遅くなると」
「街でクレイ子爵家の家紋の入った馬車を見たと聞いて戻ってきたんだ」
「まあ、それだけで? 仕事は大丈夫なの?」
ザガリーに近づけば、彼はぎゅっと強く抱きしめた。
「執事長から君の父親が来たと聞いた。なにもなかったのか?」
「ええ。丁度、エイブリー兄さまが来てくださって」
「君に手をあげようとしたのか!」
恐ろしいほどの剣幕に、カロラインは目を瞬いた。ザガリーはいつも穏やかで紳士的な態度を取ってきた。だから、いつだって冷静だと思っていた。
「ザガリー、落ち着きなよ」
怖い顔をしているザガリーにエイブリーがおかしそうに笑う。ザガリーはその時になってようやくエイブリーに目を向けた。
「二、三発殴っておいたんだろうな?」
「物騒だね。無傷で帰したよ。あれでも一応カロラインの父親だから」
ザガリーは忌々しそうに舌打ちをした。
「次は殴ってもいいだろうか?」
「君がその場にいたのならね」
カロラインは二人のやりとりに、はらはらする。
「そこまでしなくても」
「心配しなくても、叔父上はすでに当主じゃない。正当な理由であれば、殴ってもザガリーは罪には問われないよ」
エイブリーの言葉に、ザガリーが冷静さを取り戻した。
「カロラインの爵位継承手続きが終わったのか」
「そう。今日はその書類を届けに来たんだ。たまたまだったけど、カロラインの助けになってよかったよ」
エイブリーはそう言って持ってきた鞄から書類を取り出す。ザガリーとカロラインは並んでエイブリーの向かいの席に座った。
「これで手続きは完了だ。あとは陛下への謁見とお披露目の夜会だな」
「ええ、ありがとう」
カロラインは書類を受け取り、一枚一枚中を確認した。こうして確認することで、次第に当主になったのだという現実を実感する。
「謁見も夜会もブロンテ侯爵家が後ろ盾になって準備を行うから任せておけばいい」
「でも、これ以上やってもらうわけには」
「母上がカロラインのために色々張り切るだろうから、気にすることはない」
エイブリーの母であるブロンテ侯爵夫人は幼い頃からカロラインを可愛がってくれた人だ。ガートルードが亡くなった時も泣き続けるカロラインを優しく慰めてくれた。そんな彼女がカロラインのために力を尽くすのは目に見えている。
「謁見とお披露目の夜会か。新しいドレスを作らなくては。いつになるんだ?」
「日にちはまだ決まっていないけど、だいたい三か月後かな」
「三か月か……今から仕立てれば間に合うな」
ザガリーがドレスを作るつもりでいることに気が付いて、カロラインは慌てて彼の腕を引っ張った。
「ザガリー、袖を通していないものが沢山あるわ」
「そうかもしれないが、俺が君に贈りたいんだ」
この件については譲るつもりはないのか、はっきりと言い切った。だが今までも沢山のお金を出してもらいることを考えると、カロラインは素直に頷けない。
「作ってもらえばいいじゃないか。これからどんどん貴族の付き合いが増えていくから、新しく作っても無駄にはならないだろう」
「エイブリー兄さま、そういうことは言わないでください」
「堅実なのはいいことだが、金をかける時にはかけないと」
「そうかもしれませんが……」
気が進まない顔をしても、すでに二人の中では決定らしい。理由が理由だけに反論がしづらく、カロラインはため息をついた。
「さて、そろそろ僕は帰るよ」
エイブリーはそう言って立ち上がる。見送りのために、二人も席を立った。
「今日は本当にありがとう。おかげで助かりました」
「うん。間に合ってよかったよ。叔父上には色々聞きたいこともあるから、こちらで確保する。君は本当に何もしなくていいから」
「よろしくお願いします」
エイブリーは笑顔でカロラインの感謝を受け入れる。
「そうそう、言い忘れるところだった」
エイブリーは足を止めて、仲良く並ぶ二人を振り返った。
「叔母上の肖像画に描かれている首飾り。あれ、叔母上が爵位継承の時に王家から下賜されたものなんだ」
「え?」
王家からの下賜品と聞いて、ザガリーも流石に固まった。カロラインは動かない頭を無理やり動かしてとりあえず聞いた。
「何のお話?」
「さっき叔父上にも話した首飾りだよ。あの首飾りは当主の証と言っていいぐらい特別なものなんだ。カロラインが正式な継承者だと示すためにも、謁見とお披露目会で身に着ける必要がある」
すっかり伝えるのを忘れていたよ、とははははとエイブリーは笑う。
「お、お兄さま、お母さまの宝石類はすべてお父さまに取り上げられてしまっていて」
「うん、知っているよ。これから大変なことになりそうだ」
他人事のような口ぶりでエイブリーは言った。
「何故、王家の下賜品がクレイ子爵家に?」
「別にクレイ子爵家だけが特別ということじゃない。女性が爵位を継承した時に与えられる。確実に女性当主の生んだ子供へ継承されるようにという意味がある。だからカロラインには付けてもらわないといけない」
「お披露目で身につけない場合、我が家は何か罰が下されるのですか?」
恐る恐るカロラインが聞けば、エイブリーは首を左右に振った。
「その点は大丈夫だ。だけど叔母上は数少ない女性当主だった。王家から与えられていることを知る人は多い。つけていない場合、この家の評価が下がるだけだ」
言葉を濁していたが、カロラインにはエイブリーが何を想像したのかわかってしまった。ただでさえ、評判の悪い子爵家だ。困窮して大切な継承の証すら手放したとなれば、うるさく言われるだろう。
「……お父さま」
慌てて帰っていった父の様子に、カロラインは呻いた。絶対にあれは売りに出している。そして二束三文で買いたたかれている。
卒倒しなかったことを誰かに褒めてもらいたいとカロラインは心の底から思った。