いつかは対峙しなくてはいけない相手
結婚して十日ほど。
毎日が忙しくありながらも、充実している。色あせていた日々が色を付け、何を見ても生き生きとしていた。
カロラインは母が亡くなってから初めて幸せだと感じる日々を送っていた。ザガリーは商会の仕事があるにもかかわらず、爵位を受け継いだカロラインを手助けして色々と助言してくれる。
領地管理をしていた母が亡くなってから、主家である侯爵家から優秀な土地管理人が派遣された。だが、母の生前は口を出してこなかった父も子爵家当主代理という立場になった途端に好き勝手し始めた。この四年間、管理人の力が発揮できたのは本当に最小限だ。崩壊しないようによく頑張っていたが、それも限界にきていた。
結婚して借金がなくなり、爵位も継いだ。父親がどれほど怒鳴ろうが喚こうが、何一つ自由になることはない。大きな問題を起こさないのであれば、領地の片隅に不自由なく生活させるぐらいの情はある。
「カロライン」
ぼんやりと今日の予定を考えていたカロラインにザガリーが声をかけた。ザガリーはすでに出かける準備を終えていた。
慌てて立ち上がり、ザガリーの側に寄る。
「今日は遅くなるかもしれない。先に夜は食べていてほしい」
「接待?」
「そうだな。カロラインと結婚してから、貴族からの引き合いが多くなってきている」
狙っていた通りに販路が開かれたようだ。カロラインとしても役に立てているのなら嬉しい。自然と微笑みが浮かんだ。
「あまり無理しないでね」
「カロラインも。立て直しは時間がかかるものだから焦ることはない。じっくりとしていけばいい」
お互いに労わる言葉を交わす。ザガリーは上機嫌に妻の唇にキスを落とした。触れるだけのキスでは満足できなかったのか、もう一度と呟き、熱のこもったキスをする。カロラインはうっとりと夫のキスに酔い、彼に体を預けた。
「それじゃあ、離れられなくなる前に行ってくる」
「行っていらっしゃい」
カロラインは彼を見送ると、自分の仕事をするために執務室へと向かった。
◆
穏やかな朝を迎えたというのに、今日は波乱の日だったようだ。
昼を過ぎたころ、けたたましい声と共にやってきたのは父であるジェイデンとその妻だ。カロラインはジェイデンに愛情を抱いたことはない。
不思議と幼いころから自分の父親だという男を父と認識することができなかった。それは母親への冷たい態度があったのもあるが、カロラインに対して少しの優しさも見せなかったからかもしれない。
両親は決して仲のいい夫婦ではなかった。それに原因は自分にあるような気もしていた。カロラインは何一つジェイデンに似たところがない。母に似たと言われればその通りなのだが、ジェイデンは特にカロラインの目の色が気に入らないらしい。
ことあるごとに母親は鮮やかな緑の瞳を褒めていたが、逆にジェイデンはその目を見るたびに憎々し気に顔を歪めることがあった。
好かれていない事実はとても辛く、時々母親に泣きついたものだ。そのたびにカロラインの瞳はブロンテ侯爵家ゆかりのもので、とても綺麗だと慰めた。
そんな昔のことを思い出し、もやもやした気持ちが湧き出てくる。愛情を与えられなかったこともそうだが、母親が死んだあとすぐに古くから愛人だった後妻を連れてきたものだから、カロラインの父親に向ける感情はひどく冷たい。
「カロラインはいるか!」
数か月ぶりに聞く怒鳴り声に、カロラインはため息をついた。執務室からでも聞こえるほどみっともなく喚いているジェイデンに頭が痛くなってくる。結婚して新しく雇われた使用人もいるのだから、品位を下げるようなことはしてほしくない。
「カロライン様、どうなさいますか?」
執務室にいた執事長が怒りをほんの少しだけにじませた表情でカロラインの指示を待つ。
「来てしまったものは仕方がないわ。出迎えてちょうだい」
「本日はエイブリー様のご訪問がありますがどうなさいますか?」
「お兄さまの方はそのままで。簡単には帰らないでしょうから、お兄さまが来てくれた方が助かるもの」
今日は子爵位を継いだことによる諸々の書類をエイブリーが持ってくる。エイブリーが責任をもって手続きをすると宣言した通り、カロラインが何かをすることはなかった。本家の人間であるエイブリーが行うことで、ジェイデンとも直接対決せずに来た。
これから起こる嵐を思い、憂鬱になる。だが逃げるわけにもいかない。いずれ対峙する日は来るわけで、それが今日になったということ。
椅子から立ち上がると、侍女がカロラインの身なりを整えた。心配そうな顔をする侍女に大丈夫だと伝え、背筋を伸ばした。
執務室から玄関ホールに向かえば、姦しい声で話す男女がいる。見た目はともかく、これが本当に貴族の血を継いでいる人間の振る舞いなのかと思うほど、品位を感じない。
使用人に詰め寄っていたジェイデンにカロラインは貼付けたような笑顔を見せた。
「まあ、お父さま。先触れもなくやってきて、どうなさったの?」
「どうしただと?! それはこちらのセリフだ! 何故お前が女子爵になっているんだ!」
どうやら自分が子爵代理でなくなったことを知ったらしい。領地からこの王都まで休みなく馬車を飛ばしてきたとしても、3日ほどかかる。通達を受けてから、焦ってこちらにやってきたのだろう。
「わたしが結婚して成人として認められたからですわ」
淡々とした口調で告げれば、ジェイデンが怒りでぶるりと体を震わせた。
「そんな身勝手なことが許されると思っているのか!」
「許されるから継承できたのです。お父さまが子爵代理でいられたのは、わたしが成人していなかったからよ」
「なんだと!? お前は親に逆らうのか!」
なんという頭の悪さ。
自分の父親だと信じたくない。頭の出来はどうであれ、若い頃は貴族の中でも上位に入るほど美しい容姿をしていたようだが、その容貌もすっかり衰えている。贅沢で怠惰な生活は彼の体を太らせ、顔は脂ぎっていた。
政略結婚といえども母親がどうしてこの男を夫に選んだのかがわからないぐらい、魅力など一欠けらもなかった。凶暴な男を前にして怯む気持ちを奮い立たせながら、ジェイデンの目を見てきっぱりと言い切る。
「貴方を父親だと思ったことは一度もありません」
「この……!」
怒りに任せてジェイデンが拳を振り上げた。体を鍛えたり労働したりしない男であったが、力は強く殴られると腫れてしまうほど。それは今までの経験から知っていた。だが、逃げれば狂ったように殴ってくるので、カロラインは歯を食いしばり衝撃に備えた。
「あがっ……!」
だが、痛みに声を上げたのはジェイデンの方だった。恐る恐る目を開けてみれば、エイブリーがジェイデンの腕をねじり上げていた。
「エイブリー兄さま」
「もしかしたらと思って早めに来たんだが……」
呆れを滲ませてエイブリーが呟く。
「離せ! これは家族の問題だ。部外者はすっこんでいろ!」
掴まれた腕の自由を取り戻そうと父親が暴れる。エイブリーは暴れるジェイデンの腕を突き放した。その反動でジェイデンがよろめく。
「叔父上、流石に暴力は見逃せませんよ」
「貴様が謀ったのか!」
「謀っただなんて人聞きの悪い。正当な持ち主であるカロラインに継承させただけです。だってあなたの爵位じゃないですからね」
エイブリーはいつものように人当たりのいい笑顔で言い放った。ジェイデンは怒りのあまり、顔をどす黒く染めた。だが殴りかかるのは不利だと思っているのか、握りしめた拳はぶるぶる震えている。
「どいつもこいつも!」
「ところで叔父上。叔母上の首飾りがなくなっているのですが、心当たりはありませんか」
「首飾りだと?」
「ええ。叔母上の肖像画に描かれているものですよ。できればカロラインのお披露目に使いたいと考えています」
カロラインはエイブリーの説明で、執務室に飾ってある母親の肖像画を思い出した。広く開いた胸元に大ぶりの緑の宝石を使った首飾りを着けていた。
「覚えていないでしょうか? カロラインの瞳の色によく似た濃い緑色の宝石が嵌った首飾りです。叔母上の宝飾品類は後妻がほとんど持っていったと報告を受けているのであなた方の手元にあるはずなんですが」
「緑色の宝石……」
そう呟いてからジェイデンは突然顔色を悪くした。
「おい、帰るぞ!」
「あなた? ここにわたしたちも住むんじゃないの?」
「うるさい! お前は黙っていろ!」
後妻に怒鳴ると、ジェイデンは飛び出すようにして出ていった。どこに帰るのかはわからないが、この屋敷に滞在させるつもりはなかったので、余計な面倒にならなくて有難い。
「……やっぱり売り払っているのかしら」
「そうだろうな。子爵家の借金はすさまじい額だったから。よくもまあ、支払い能力のないクレイ子爵家にあれほどの金を貸し付けたものだ」
エイブリーは肩を竦めた。
「これからも気を付けてほしい。あの調子だともう一度やってきそうだからね」
「ありがとう。助かったわ」
「あまりにも想像通りの反応で笑える」
カロラインはほっとした笑顔を見せると、エイブリーを執務室へと案内した。