猛烈な怒り
カロラインは絶望した後、猛烈な怒りが腹の底から湧き上がってきた。
請求書はすべて確認し、借金返済は完了している。そしてザガリーとの結婚は最短であったが、きちんと手続きをしていた。それが訳の分からない借用書の写しだけで覆そうとしている。
「お父さまは今どこにいるの?」
「叔父上はうちの領地の辺境にある鉱山だな」
「……まあ、いつの間に」
てっきりどこかの屋敷に監禁されていると思っていたが、もっとひどい場所に行かされていたようだ。興味がなかったから、エイブリーにすべて任せていた。エイブリーは軽く肩を竦めた。
「カロラインに教えたら、温情をかけると思ったから言わなかった。ザガリーは知っているぞ」
「後妻はお父さまと一緒なの?」
「彼女は修道院の下働きだな」
部屋に押し込めて監視するよりも、疲れさせた方が考える時間がないからいいそうだ。それに犯罪を犯した者や借金の返済ができなかった者が働く場所のため、炭鉱や修道院の下働きにはしっかりと監視の目がある。
「そんなところにいるなら、今すぐ話を聞けないわね」
「領地にいる父上に事情を聞いてもらうように連絡しよう」
怒りを叩きつけたい相手はすでに遠い場所にいる。大きく息を吐いて、荒ぶる気持ちを落ち着かせた。
「ちょっと、いいだろうか」
カロラインが落ち着いたところを見計らって、ロング伯爵が声をかけてきた。
「この書類だが。ジェイデン殿のサインがあるから契約書としては正式なものになる。ただ、爵位を持つ貴族の婚約は国王の承認がいるため、結果的にこの契約は無効だ」
どういうことか、すぐに理解できなかった。頭が上手く働かないカロラインにロング伯爵夫人が優しく説明する。
「ただの貴族の娘ならば契約は成立してしまうけれども、あなたは女子爵の継嗣だったわ。他の国に家を乗っ取られないようにきちんと結婚する相手は国で精査されるの」
「あ!」
「お二人の結婚がきちんと認められているのなら、あなたのお父さまがその商人と契約した時に国へ届けを出していないのだわ。しっかりとした書類を作れば、大抵は通るのだけど。きっとあなたのお父さまは知らなかったのね」
わかりやすい説明に、カロラインの体から力が抜けた。
「安心するのはまだ早いよ。ザガリーは貴族の制度については知識が弱い」
「そうよね、早くザガリーに教えないと」
「同じことが起こらないように、確実に潰さなくてはいけないからね。色々と手を回さないと……」
エイブリーは思案気に唇に指をあてた。カロラインは今すぐにでもザガリーの所に行きたかった。焦れた様子に、ブロンテ侯爵夫人が笑った。
「カロラインはザガリーが心配で待っていられそうにないみたい。あの男と国への確認はわたくしの方で進めるわ。だから二人はザガリーを迎えに行きなさい」
「いいのですか?」
「ええ。こちらとしても他国の商人に喧嘩を売られたのと同じですからね」
うふふふとブロンテ侯爵夫人は怖い笑いを漏らす。ロング伯爵は面白いものを見つけたように目を細め、にんまりと笑う。
「ブロンテ侯爵夫人がそのつもりなら、こちらもお手伝いしましょう」
「お願いね。期待しているわ」
貴族社会で生きてきた人たちの恐ろしさを垣間見て、カロラインは背筋を伸ばした。爵位を継承していたが、カロラインにはこういったやり取りはできない。
「さて、話は決まったことだし、我々も準備しようか」
エイブリーはカロラインの青ざめた顔を見て、苦笑した。
◆
馬車の車輪が耳障りな大きな音を立てて回る。王都を出てしまうと、道が整備されていないのか、がたがたと揺れが大きくなる。馬車が左右に揺れると、カロラインも一緒に体を揺らした。
王都を出発してすでに数時間。
昨日の茶会の後に急いで出かける準備をして、明け方前、まだ暗いうちに出発した。
王都の門を出るまでは良かった。道はきちんと整備され、スピードも街中ということでゆっくりだった。だが、王都を出た途端、馬車はありえないほどのスピードを出した。
外を楽しむ暇もなく、がたがたと揺れる馬車の中で必死に倒れないように体を支える。ブロンテ侯爵家が用意した馬車であるからそれなりに乗り心地の良いはずなのに、体は跳ね、座っていられない。
ガタンとひときわ大きく揺れて、カロラインは倒れてしまわないようにお腹に力を入れた。それでも支えきれずに、体が座面に倒れ込む。
「きゃあ」
「奥様、大丈夫ですか!?」
「ええ。ありがとう」
横に座るアンの手を掴むと、なんとか体勢を整えた。
カロラインの付き添いとして一緒に乗っていたリントン商会の従業員であるアンもまた、カロラインと変わらないほど顔色を真っ白にしている。自分だけではないと、慰めながらちらりと目の前に座るエイブリーを見た。
こういう移動に慣れているのか、彼は涼しい顔をして書類をめくっていた。この振動に酔ってしまいそうなのに、その上書類の細かな文字を見ている。恨めしそうな視線を感じたのか、エイブリーが書類から顔をあげる。
「もう少しで休憩だよ。二人とも顔色が悪い。少し長めに休憩しようか」
にっこりと茶会で振りまかれるような美しい笑みを向けられて、カロラインは無性に苛立った。何か言ってやろうと考え込む。
「エイブリー様、そろそろ休憩です」
御者を務めていた護衛が声をかけてきた。彼はどこか楽し気で、こういった走りに慣れているようだ。カロラインは休憩の合図に、ほっと息を吐いた。馬車は徐々にスピードを緩めていき、ようやく体を椅子に預けることができた。
「よ、よかったです……揺れすぎて自分がバラバラになるかと思いました」
「アンは買い付けによく一緒に行くと聞いていたけど……」
「確かに買い付けは毎月行きますけど! 大体ゆっくりした日程が組まれていて、こんな風には飛ばさないです」
旅慣れている経験を買われて、今回、カロラインの付き添いとして選ばれていた。カロラインは年に数回、領地を往復する程度しか経験がなく、当然、カロライン付きの侍女も同じだ。今回はザガリーの交渉の場にまで踏み込むつもりでいるので、彼のやり方に慣れたアンを連れてきた。
しかし、そのアンにしてもこうして限界までスピードをあげての移動は初めてのようだ。
馬車が止まったので、カロラインは窓から外を見た。
王都から繋がるこの道にはいくつかの休憩場所があって、宿や食事ところなど必要なものが揃っている。その中で、ザガリーが懇意にしている宿屋の前で止まった。
扉が開き、エイブリーが先に降りた。
「ほら、手を」
エイブリーの助けを借りながら、カロラインはふらつく体で外に出た。揺れない地面にカロラインは大きく息を吐いた。
「足元に気をつけて」
「飛ばしてほしいとは言ったけど、目が回るかと思ったわ」
カロラインは弱々しい声で文句を言った。側で聞いていた護衛はそんな抗議もからからと笑い飛ばす。
「奥様の知っているスピードで移動したら三日かかってしまいますからね。この調子だと夕方には着きますよ」
「……そう。順調ということね」
また同じだけ揺られるのだと知って、カロラインは眩暈がした。だけど、あまりぐずぐずしているわけにはいかない。早くザガリーに会って、無事を確認したい。
「奥様、素晴らしい愛ですね!」
すっかり調子を戻したアンが感動したように両手を組んで勢いよく迫ってきた。その勢いに押されて、のけぞる。
「あ、愛……?」
「そうですよ! 悪漢に捕らえられた商会長を助けに行くなんて、素敵です!」
「それは結果論であって……一番面倒なところは伯母様に丸投げしてきたから」
謁見で使う首飾りは見つかったが、そのほかの諸々が色々と面倒だった。ケンプ商会の契約書のことでジェイデンに問い詰める必要がある。さらには勝手にされた結婚の契約について再確認する必要もあった。
「ゴードリーさんに付き添いでと言われた時にはびっくりしましたけど、愛を貫く姿は憧れます」
何か違うと思いながら、否定するのも疲れるので曖昧に笑った。
休憩を終え、とにかく強行軍で街道を突き進んだ。馬車に乗ると初めはにこにこしていたアンも次第に無口になっていく。カロラインもしゃべる余裕はなく、がらがらと激しい音を立てて進む馬車が目的地に早く着くようにと祈り続けた。
「到着です」
馬車が止まった。外に出れば、賑やかな繁華街だった。