母の首飾りと未払いの借金
冷静に自分の役割をこなすエイブリーにつられて、カロラインも何とか茶会を無事に終えた。だが気持ちはザガリーの方に向いていて、同世代の令嬢達との交流はどこか上の空だった。無難な会話しかしていないから、大丈夫だと思いたい。
「カロライン、ロング伯爵夫妻はサロンにいるから」
エイブリーも気になるだろうに、そんな素振りを見せずにカロラインへ気遣いを見せる。カロラインは不安そうな目を従兄に向けた。
「ザガリーが心配で」
「そうだな。だが、彼も色々危ない橋を渡ってきた男だ。それに護衛もついている」
「わかっているけど……」
カロラインの知っているザガリーはいつも紳士的で、彼が暴力に慣れているとはどうしても思えなかった。エイブリーは隣を歩くカロラインに笑みを見せた。
「それに多少大変なことになっていても、ケンプ商会は自分の評判を落とすようなことはできないよ」
「……」
相手も商会で、信用で商売をしている。エイブリーの言うことはもっともだと何とか飲み込んだ。ようやくざわめく気持ちが落ち着いてきた頃に、サロンに着いた。エイブリーはサロンの扉を開いて、カロラインと中に入る。
「お待たせしました」
サロンにはブロンテ侯爵夫人とロング伯爵夫妻の三人が寛いで待っていた。カロラインはロング伯爵から熱い視線を向けられて、足が止まった。エイブリーは苦笑して、カロラインに席に着くようにと促す。ロング伯爵の隣は避け、一番離れた席に腰を下ろした。
「ああ、いつ見ても美しいな。どうだろうか、平民出身の夫と結婚したのは仕方がないが、私との関係も……」
ロング伯爵の言葉を遮るように、ブロンテ侯爵夫人がしたたかに彼の腕を持っていた扇子で叩いた。そのあまりの大きな音に、痛そうだと他人事のような感想を抱く。
「まったく! いい年して、いつまでも初恋にしがみついてみっともない!」
「初恋は忘れられないものだ。だからこそ、彼女の忘れ形見を側に置いておきたいと思うんだよ」
「本当に気持ちの悪い男ね。ガートルードが断るわけだわ」
ブロンテ侯爵夫人は目の前で姪を口説きだした男に怒りを隠すことはなかった。どうやらロング伯爵がガートルードに恋心を持っていたことは広く知られているようだ。親世代のことはよくわからないので、エイブリーとカロラインはお互いに顔を見合わせる。
「ガートルード以上の女性などどこにもいないんだから仕方がない」
「それを奥様の前で言ってしまう男なんて、滅んでしまえばいいのよ」
辛らつな言葉を吐きながら、ロング伯爵夫人にはいたわりの目を向ける。ロング伯爵夫人はいつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべた。
「まあ、ありがとうございます。ですが、彼がガートルードに執着していると知っていて結婚したのですから。逆にわたくしに愛を囁かれても困ってしまいます」
「あなたがそう他人事だから、この男はいつまでたっても初恋の面影を求めてふらふらと女の間を彷徨うのよ」
「そうかもしれませんね。でも本当に興味が持てないものですから……」
カロラインは三人のやり取りを聞きながら、そっとエイブリーに囁いた。
「ねえ、どういう関係なの? ロング伯爵は遠縁だとは聞いているけど……古くから親しくお付き合いしていたのかしら?」
「さあね。僕もよく知らないよ」
エイブリーも困惑気味だ。
「私はね、君の父親だったかもしれないんだ」
「ロング伯爵、誤解を招くような言い方はしない!」
ぴしりとブロンテ侯爵夫人が釘を刺した。きつめの言葉であってもロング伯爵は笑って流した。
「だってそうだろう? ガートルードが嫁ぐ前に、結婚を申し込んだんだから。もしあの時結婚していれば、私は君の父親になれたんだ」
「その理屈はちょっと理解できません」
やや引き気味に呟けば、ブロンテ侯爵夫人がため息を漏らした。
「もう貴方は黙りなさい。話がちっとも進まないわ」
「それは申し訳ない」
申し訳なさを少しも感じさせずに謝る。そんな中、ロング伯爵夫人がテーブルに宝石箱を置いた。
「こちらが彼が買い取った首飾りですわ」
その言葉に皆の目が箱の上に集まる。ロング伯爵夫人は蓋を開けた。
中央に配されている大きな緑の宝石とその宝石を収める繊細な透かしの入った台座。
緑の宝石を引き立てるように飾られた小さな宝石たち。
柔らかな布張りの箱の中に納まっているのは、確かに見覚えのある首飾りだ。じっと吸い付けられるようにそれをただただ見つめた。
「手に取っていいかしら?」
ロング伯爵にブロンテ侯爵夫人が断りを入れる。彼は鷹揚に頷いた。
「もちろん」
「では、お言葉に甘えて」
ブロンテ侯爵夫人は首飾りをそっと手に取った。彼女はじっくりと首飾りを観察する。そしてゆっくりと中央の宝石に指を滑らせた。かちりと小さな音がして宝石がスライドする。
「え?」
カロラインは宝石の仕掛けに驚きの声を上げた。スライドするとは思っていなかったので、少し戸惑う。ブロンテ侯爵夫人は内側に掘られた刻印を確認すると、安堵のため息を漏らす。
「確かにガートルードの首飾りね」
「きちんと確認してから買い取ったから、間違いない」
ロング伯爵はにこやかに頷いた。ブロンテ侯爵夫人はじろりと彼を睨みつけた。
「どうしてこれを持っていると早いうちに言わなかったの」
「謁見の時までに間に合えばいいと思っていたのと、できれば私がカロライン嬢を支援したかったというのもある」
下心を隠すことのない言葉に、カロラインはほんの少しだけ体を震わせた。
「あなたの気持ちなんてどうでもいいのよ。もう少し早くわかっていれば……」
「一度、リントン殿には招待状を送った」
悪びれる様子もなく、そう言って笑う。確かにロング伯爵の招待を断ったのはザガリーだ。だがその理由はカロラインが口説かれていたのが気に入らないというだけの話で、こんなにも大事なことがあったのなら先に伝えてほしかったと思う。と同時に、招待状に書くわけにはいかないことであることも分かっている。
複雑な気持ちをため息で誤魔化し、カロラインは姿勢を正してロング伯爵を見つめた。
「首飾りはこちらにあることがわかりました。できれば同じ値段で買い取りたいと思います」
買い取るという言葉に、ロング伯爵は片眉を上げた。
「これはカロライン嬢に差し上げるつもりだ。ガートルードの一人娘への祝福として」
「もらえませんわ」
拒絶するように首を左右に振れば、彼はため息をついた。
「嫌われたものだ」
「当然よ。愛人の誘いをするような男から物をもらう淑女はいないわよ」
ブロンテ侯爵夫人の咎める声に肩を竦めた。賑やかなやり取りをしていると、家令がエイブリーの側に寄った。
「どうした?」
「今、リントン商会の方が急ぎの用事で面会したいと来ています」
「リントン商会? 誰が来ているの?」
家令の小さな言葉を拾って、カロラインが聞いた。
「ゴードリー様でございます」
ゴードリーの名前を聞いて、エイブリーはすぐさま会うと答える。
「母上、少し席を外します」
「リントン商会の方なら、こちらに来てもらって」
「ですが」
ちらりとロング伯爵夫妻に目を向ければ、彼らは気にしないと許可をした。家令はサロンを出て、すぐにゴードリーを連れて戻ってくる。
ゴードリーは普段の彼からは考えられないほど、憔悴した顔をしていた。不安に思って、カロラインは思わず立ち上がる。
「ザガリーに何かあったの?」
「ああ、奥様。つい先ほど、こちらの手紙が届きまして」
そう言われて封が切られた封書を渡された。よほど強く握りしめていたのか、封書はよれよれになっている。カロラインは嫌な予感に襲われた。
「婚姻無効? どういうことなの」
文面を確認して、目を見開いた。何度読んでも、文面は変わらない。
「カロライン、貸して」
エイブリーは茫然とするカロラインの手から手紙を引き抜き、目を通した。文字を追うごとに、彼の表情は厳しいものになる。
「なるほど。なかなか上手くできている」
「何が書いてあるの?」
二人の様子にただことではないと感じたブロンテ侯爵夫人は声を上げた。エイブリーは気持ちを吐き出すように息を吐くと、テーブルの上に手紙を置く。ロング伯爵がその手紙を拾い上げると、顔をしかめた。
「借金の返済の条件にカロライン嬢との結婚が盛り込まれているな」
「たとえわたしとの結婚の条件をお父さまと契約書を交わしていたとしても、借金はないから無効でしょう? それにどうしてわたしにではなくて、ザガリーの所にこんなものが届くの?」
借金についてはザガリーとエイブリーに任せていたので、書面でしか確認していないが確かに正式な書類だったはずだ。不安そうにエイブリーを見れば、彼は頷いた。
「すべて完了していることは僕も見届けている。カロラインが爵位を継承した後は、ジェイデン殿は新しい借金はできなかったはずだ」
「それなら結婚無効要求はどういうことなの?」
意味が分からなくて途方に暮れる。
「簡単に言えば他にも借金があったということだ。その未払いの借金とこの契約書を元に、婚約状態にありながら別の相手と結婚したとして、君の夫には賠償を求めたうえで、二人の婚姻の無効を要求するつもりだな」
ロング伯爵の説明に、カロラインは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。