一人は落ち着かない
カロラインは外からの小さな音を拾って、書類から顔を上げた。
「ザガリーが帰ってきたのかも。見てきて」
「カロライン様、先ほどの音はザガリー様の馬車ではございません。木々の擦れた音です」
「どうして見ていないのに、わかるのよ」
むっとして反論すれば、執事長は大げさにため息をついた。
「馬車の音はこの部屋には聞こえて来ませんよ。それにザガリー様の馬車が到着すれば、まず使用人たちがお迎えするために動き出します」
「う……でも見てきてほしいの」
至極まっとうなことを言われたが、それでも確認してもらいたくてお願いしてみる。彼は困ったような優しい目をしながら、見てまいりますと言って部屋を出ていった。
「落ち着かない気持ちもわかりますが、もう少しどっしりと構えてください」
執事長と入れ違いに入ってきたのは、侍女長だ。彼女はお茶の道具を乗せたカートを引いていた。カロラインはちらりと時計を確認する。
「まだ休憩の時間ではないわよ」
「カロライン様の集中力が切れているから休憩の準備を、と言われております」
「確かに集中力はないかもしれないけど」
机の上に溜まる書類を見て、肩を落とした。朝から机に向かっているのに、ほとんど進んでいない。お昼前までには処理しておかないといけないものもある。
「どうしてなのかしら。ザガリーが仕事で留守にしているだけだというのに」
「急なお出かけでしたからね。心配になるのも仕方がありません」
侍女長がテーブルの上に綺麗に菓子が盛り付けられた皿を並べる。カロラインは仕事を続けることを諦めて、立ち上がった。長椅子に座るとすぐにお茶が差し出された。ザガリーと結婚してから気に入っているお茶で、その香りを嗅いだだけでも彼に会いたくなってくる。
「今日で三日目よ。ゴードリーが早ければ今日戻ってくると言っていたのに」
「移動に一日でしたか。もう二、三日待ってもいいかもしれません」
「どうして?」
不思議に思って侍女長に尋ねれば、彼女は大らかに笑った。
「移動に一日は少々無茶が過ぎます。駅馬車であの街まで移動したら三日はかかるのですよ」
「え!? そうなの?」
「はい。きっと途中で馬を替えていっているのでしょうね。片道一日だなんて、早馬と同じぐらいです」
普段、あまり出歩かないカロラインはそういう移動に関しての知識がなかった。領地に行くとしても、用意された馬車に乗って移動するだけだ。何日ぐらいはかかるというのはわかるが、他の街や領地になると距離感もない。
ザガリーの帰りが遅れていることや連絡がないことが気になっていたが、現実的な距離を知って、ようやくカロラインの気持ちは落ち着いた。ゆっくりとお茶を飲み、一口大の焼き菓子を摘まんだ。
「結婚してからまだ二か月ほどしかたっていないのに、どうやって今まで一人で過ごしてきたのかしら」
「そう思えるほど、幸せだということではありませんか」
「わたしは幸せだけども……ザガリーはどうかしら。負担ばかりの妻で申し訳ないわ」
カロラインはため息を漏らした。ザガリーにとってこの結婚は利益につながることはわかっている。でも時々、そういう理由ではなければよかったなと思うことがあった。そもそも子爵家に借金がなければ、ザガリーと出会うことすらなかったというのに、きっかけだけが残念でならない。
「きっかけはどうでもいいではありませんか。お二人が心を通じ合わせているのはわたくしども使用人にもわかりますよ。特にザガリー様の溺愛ぶりは見ているこちらも微笑ましくて」
「溺愛!?」
思わぬ言葉に、カロラインは素っ頓狂な声を上げた。侍女長はにこにこと笑みを浮かべた。
「そうでございましょう。屋敷の中では常にどこかに触れていますし……何よりもあのとろけるような眼差しが」
「とろけるような眼差し」
「ええ。カロライン様がいない時のお顔と落差が激しくて、面白いですわ」
「そんなにも?」
恥ずかしさに耐えながら聞いた。侍女長は笑顔で頷く。
「カロライン様を傷つけた人がいたら恐ろしいことになりそうです」
「そう言えば、お父さまが乗り込んできたときもすごく怒っていたわね」
ふと、ジェイデンが押しかけてきた時を思い出した。あの時は、馬車を見かけて家に戻ってきてくれた。何があっても冷静な対応をするのだろうと思っていたのに、あまりの怒りように驚いたのだ。
「ジェイデン様に対して怒りを見せたことで、わたくしどもはとても安心しました。カロライン様をお任せしても大丈夫だと」
「……心配かけていたのね」
「ジェイデン様は子爵当主代理で、どうやっても使用人は意見を言えませんでしたから」
雇い主に意見を言えるのは、重要な役職についている者たちだけだ。侍女長はこの家の使用人のまとめ役であったが、それでも雇い主に意見を言える立場ではない。ジェイデンを諫めることも止めることもできないが、小さなところでカロラインは沢山助けられてきた。
「ふわふわしている場合ではないわね。わたしは当主になったのですもの」
気合を入れるように力強く言えば、侍女長はくすくすと笑った。
「しっかりした当主もよろしいですけど、幸せになってくださるのが一番です。ですからお二人が思い合っているところを見るのはとても嬉しいです」
「え、っと」
なんだか話題が戻ってきているような気がいて、カロラインは言いよどんだ。
「若い人の言葉で言えば、思う存分イチャイチャするのがよろしいかと」
「イチャイチャ……」
「もちろん、お屋敷の外では適度なイチャイチャにするべきかとは思いますが」
そんなにイチャイチャしていないと思いつつ、夜会でのザガリーの距離感を考えれば他の人には十分に近い距離のような気がした。
言い返しが思い浮かばず、お茶を飲む。侍女長もそれ以上は何も言わなかった。話が途切れてしばらくして、執事長が戻ってきた。
「ザガリー、帰ってきていないのよね」
「残念ながら。それから、ブロンテ侯爵夫人からお手紙が届いていました」
ブロンテ侯爵夫人、と聞いて、カロラインの気持ちがいっそう沈んだ。体から力を抜いて、背中を長椅子に預ける。やや気の抜けた格好であったが、誰も咎めなかった。
「伯母様からのお手紙なら、きっと茶会へのお誘いよね。ザガリーがいないからあまり出席したくないのだけど」
執事長は手紙をカロラインに差し出した。渋々、手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切る。手紙を広げれば、ふわりと優しい香りが広がった。カロラインはさっと目を通した。
「ああ、やっぱり茶会への招待だったわ」
「ブロンテ侯爵家のお茶会ですか?」
「ええ。明後日にね。同じ派閥の方々を招待しているのですって。お披露目前に少しでも覚えてもらうためだそうよ」
女子爵になった以上、社交は欠かせない。今までしてこなかった分、やるしかないのだ。それでも、苦手だと思ってしまうのは、自分がその世界で生きていなかったからだろう。紳士の女性に対する歯の浮くような称賛の言葉は苦手だし、貴婦人たちの会話はそのまま受け取ってしまうと痛い目に合う。
「明日までにザガリーが帰ってきていればいいのだけど」
ザガリーのことが気になっている状態で茶会に参加するなど、自分の振る舞いに自信がなかった。