獣人少女は迷子になる
交流特区において階級制度は存在しない。それはエルフの国やドワーフ、ワービーストの国の交流特区においても同じである。貴族が他種族の平民を支配することは国際問題に発展する可能性があるとして、交流特区内では貴族王族を問わず一人の平等な民間人として扱われる。
しかし、だからと言って上下関係が存在しないわけではない。交流特区内での上下関係を決めるのは、ひとえに収入である。つまり、金持ちは偉いのだ。
交流特区内のあらゆる種族は、他種族の国にはない技術や文化を決められた範囲で公開し、売ることによって収入を得る場合が多い。
ユルク・ゼラドイルというワービーストは、人間の国の交流特区内にあるワービーストの店の首領を務める男である。建築屋、家具屋、ワービーストの武具を扱う武具屋、ワービーストの冒険者の店などはすべて、ユルクが最高責任者なのである。齢70にして、背筋の伸びた彫の深い顔の老人である。
そんなユルクには孫娘がいる。ステラという8歳になった少女だ。祖国にいる両親の下から自分のところにやってきた孫娘を、ユルクは溺愛した。それはもう甘やかした。
「おじい様、絵本買って?」
「どれが欲しいんじゃ?」
「きれいなお姫様がさらわれるやつ」
「そうかそうか、じゃあ買ってやろう」
彫の深い顔をどうやったらそこまでだらしなくできるのかというほど表情を緩めながら、ユルクは絵本の棚にある姫がさらわれる内容の本をすべて買い与えるほど甘やかした。
多数の店を支配下に置き、多くの収入を持ち、そして自分に甘々な祖父を持ったステラは、毎日絵本を読む生活をしていた。絵本は人間の国で子供の情操教育のために生まれたものであり、交流特区で他種族が買うには非常に高価なものだった。
ステラはヒロインが悪役に攫われたり、何か呪いをかけられたりする内容の絵本が好きだった。
「ねぇおじい様」
「なんだい?」
「この呪い士さんは、どうしてフロイラインの声をとっちゃったの?」
大人がこの絵本を読んだのなら、それは呪い士がフロイラインという美しい歌声を持つヒロインに嫉妬したからだと解る。だがユルクは絵本の内容を知らなかったため
「それはじゃな。フロイラインの声が好きじゃから、欲しくなってしまったんじゃ。だからとっちゃったのだよ」
と、ある意味間違ってはいないような返答をした。
別の日、またステラはユルクに絵本の内容について質問をした。
「ねぇおじい様」
「なんだい?」
「どうしてこの黒い人は、フローラ姫をさらっちゃったの?」
大人がこの絵本を読んだなら、黒い格好の男が姫を攫ったのは身代金を要求するためだと解る。だが、絵本を読んでいないユルクはまたしても知ったかぶりをした。
「それはじゃな、フローラ姫が好きだからじゃよ。みんなのお姫様じゃなくて、自分だけのフローラにしたかったんじゃ」
と答えた。
このようにして、ステラは少しだけ歪んだ恋愛観と愛の思想を育まれていった。
呪い士が声を奪ったのは、美しい歌声が欲しかったから。そのあとフロイラインを攫ったのは、フロイラインが好きになったから。
黒い人がフローラ姫を攫ったのは、フローラ姫が好きだったから。そのあと自分の家に監禁したのは、自分だけのフローラにしたかったから。
ステラは”好きな人は攫って手に入れる””愛する人は自分だけを見てくれるようにする”という愛情表現を、物語の中から手に入れていた。8歳になるステラには拉致も監禁も犯罪だと解っている。呪いをかけたり攫ったりする愛し方は、物語の中だけのものだと理解していた。それに恋愛などしたことがなかった。
ユルクはステラを溺愛していて、5歳のステラが自分のいる交流特区に来た頃は、一日中一緒にいることも多かった。だが、先日8歳になったのを機に、ユルクはステラと一緒にいる時間を少しずつ減らし始めていた。
「ステラよ、成人まで半分を切ったことだし、一人で行動することも覚えなさい。わしもすこしは孫離れをしなくていかんしな」
と、泣きそうな顔でユルクに言われたステラは、一人部屋で絵本を読む日々を過ごしていた。そんなある日のことだ。
「あたし、遊びに行く!」
読み古した絵本をぱたんと閉じると、一人部屋でそう言った。
ステラはいそいそとクローゼットから地味目の衣服を取り出し始めた。
「よく考えたら屋敷の外にほとんど出てないわ。絵本も好きだけど体を動かしたい!」
群青色のズボンと黒色のシャツに着替えたステラは、祖父ユルクと同じ灰色の髪をローポニーに縛った。彼女なりの変装である。
灰色の毛はワービーストの中でも少し珍しく、いつもの髪型にいつものドレスで出歩けば、一発でゼラドイル家の娘だとバレる。そう思ったがゆえの変装だった。髪色も変えたほうがいいのは解っていたが、ステラは祖父と同じ色の髪を気に入っていたため変えたくなかった。
「今日おじい様は確か……外出するのよね」
どこに何をしに行くのか聞いたはずだが、ステラは思い出せなかった。
「メイドたちが見送りに出るから、その時に裏口から出ればバレないはずだわ」
少し前までは祖父が出かけるとき、執事やメイドに混じって一緒に見送っていたが、最近は見送りをしなくなっていた。手が離せないメイドや執事以外は全員見送りをするため、その時だけは屋敷の中は無防備になるのである。
ステラは財布の中身に金貨1枚が入っているのを確認すると、財布につけられた紐を首にかけてシャツの中に財布を突っ込んだ。
窓から玄関の方を見下ろすと、ちょうど玄関扉が開いた時だった。執事が扉を開きユルクが出てくる。この後執事とメイドがぞろぞろと見送りに出てくるのだろう。
「今ね!」
ステラは自分の部屋を飛び出し、部屋のドアはキッチリ閉め、それから全速力で裏口に向かって走り出した。ピコピコと動く耳で玄関から聞こえてくる『いってらっしゃいませ』を聞き取りつつ、ふわふわの毛におおわれた尻尾でバランスをとり、足音を立てずに裏口に到達した。
そっと裏口を開けて左右を確認し、誰もいないことを確信する。
「よし」
小さくそういうと、屋敷を囲う鉄製の柵をパルクールのように飛び越え、他の家々の屋根やベランダの手すりを足場に駆けて行った。
このようにして、ステラはさっそうと遊びに行ったのである。
満面の笑顔でステラは屋根を、壁を、手すりを駆け抜けていく。
今までほとんど家の中で過ごしてきたステラは、自分の体を思い通りに動かせたことがなかった。見える景色も新しさに欠けるものばかりで、見飽きていた。
しかし今はそうではない。自分の全速力を試すことができる。自分の動体視力、反射神経、瞬発力、すべてを全開で使うことができる。屋敷の中では見ることができない景色が、今まで見ようとすら思わなかった広い空が、一歩足を踏み出すたびに変わっていく自分の周りの状況が、ステラを絵本以上に楽しませた。
自由というものをはっきりと感じる。頬を撫でる風は、屋敷の中の制止して濁ったようなそれとはまったく違う、新鮮さを感じさせた。一歩踏み出すたびに自分の世界がどんどん広がっていくような、そんな気がした。
ステラは時間を忘れて交流特区を走り回った。一度も地面に足を付けていないが、それでも走り回ったという他ない。それほど動き回った。
そして、帰り道を完全に見失っていることに気が付いた。
ふと太陽を探してみると、西の方で真っ赤になっているのを見つける。
「もう、夕方……?」
フー、フーと口で息をしながら、自分の汗ばんだ体を確認する。
「泥と埃がいっぱい付いちゃった。どうしよう……」
そして最後に、自分の帰るべき屋敷を探してみる。
「……ない。見えない」
ステラは自分が完全に迷子になったことを理解した。
小さな泣き声を漏らしながら、当てもなくとぼとぼと歩く。
家の場所を知らない。帰り道もわからない。迷子となったステラは、ユルクがそばにいない寂しさと屋敷の恋しさにただ泣くことしかできなかった。
気分が落ち込んだステラは、屋根を降りて道を歩く。すれ違う人は彼女の汚れた服を見て、商売がうまくいかず家を無くしたかわいそうな女の子だと思い同情した。が、声をかけることはなかった。面倒ごとに巻き込まれるのを嫌がったためだ。
完全に日が落ちた後も、ステラはとぼとぼと歩き続けた。そして、見るからにぼろい家の近くで、初めて声をかけられることになった。
「どうした? 迷子か?」
うつむいていた顔をあげると、疲れた顔をした農夫の青年と酒の匂いのする冒険者の女がいた。
「ふぇ……誰?」
ステラは自分がこんな弱々しい声を出したことに少し驚いた。快活な性格のステラは、いつも元気のいいしゃべり方をしていたため、こんな声を出したのは初めてだった。
耳も尻尾もない二人を見て、少なくともワービーストではないと解る。ステラはどうしていいかわからなくなった。