犬歯、あるいは牙。
兵舎にたくさんある個室の1つを前に、立ち尽くす。
きっと今、私は酷い顔してる。
こんなにドキドキするとは思わなかった。
どんなに息をしても胸が苦しい。
鼻の奥がジンとしてきて、どこも痛くないのに目に涙が溜まる。
寒くないのに体が震える。
こんなに求めているのに、手がうまく動かせない。
「ゼ……」
うまく名前が呼べない。
それに、名前を呼ぶのは良くない。
ギリギリで気づけて良かった。
人を起こすかもしれないし、それでなくても、ちゃんと時と場合を考えて呼ばないと、面倒なことになるよね。
だから、震えっぱなしの手で、扉をノックする。
コン、コン。
中に居るのはわかってる。
呼吸の音も、衣擦れの音も、聞こえてる。
私の呼吸や心臓の音がものすごくうるさいけど、それでもわかる。
だから、早く開けて。
お願い。
お願い。
このままなんて無理なの。
おねが
「エリーだな?」
扉越しに、そう聞こえた。
「そう! 私! エリー!」
「今開けるから静かにしてくれ」
「ご、ごめ」
気付いたら扉にしがみついて、大きな声出してた。
思った以上に自分が冷静じゃないことに気が付いて、驚いて、腰が抜けた。
一瞬で扉が大きくなったような錯覚と一緒に、お尻が床にトスンと落ちて、自分がへたり込んでしまったことに気付く。
そして扉が開いた。
ゼルマさんを見た瞬間、吸血の欲求が爆発したみたいな感じがして、私がどうしようもないくらいゼルマさんの血を求めてしまっていることを自覚する。
「あ、ぜ、ゼルマさん、あの」
「ど、どうしたんだ」
へたり込んだ私を見つけて、心配そうにするゼルマさん。
エルマだなんてわかりやすい偽名使ってたけど、今の私にはすぐにわかる。
というかもう、見ただけで、抑えきれないほど飢えてしまう。
「ゼルマさん、お願い、その、血が」
「とりあえず入ってくれ。立ち上がれそうか?」
「ごめ、その、腰抜けてて」
「一体何があったんだ? エリーがそんなになるほどのことなんて、この兵舎では早々起きないと思うんだが」
ゼルマさんは腰を落として、私の方に手を差し出してくれる。
その手を取って、立ち上がる。
そうすべき。
だけど、そんなこともわからないくらい、私は飢えて、求めてた。
差し出された手を掴んで、しゃがんでくれたことで近づいた首とか肩に引き寄せられるように、へたった腰が跳ねた。
「お、と……エリー?」
服装のせいで華奢に見えるけど、ゼルマさんは騎士で、体をちゃんと鍛えてる。
私が飛びついたからって倒れこんだりしなかった。
むしろ私を抱えて、とりあえず部屋の扉を閉めたみたいだ。
「お願い」
しがみついた腕から力が抜けて、足が体を支えられなくて、体がズルズルと下に落ちていく。
結局また床にお尻をついて、縋るようにゼルマさんのスカートを握って、驚くゼルマさんを見上げた。
「血が飲みたくて、我慢できないの。お願い、飲ませて。飲ませてください」
きっと素面の私なら絶対に出さないような、震え切った情けない声が出た。
「それは……エリーは人間になったとジャイコブやギンラクが言っていたが、そうではないのか?」
ゼルマさんは私がピュラの町に帰った後、何があって2年間もの記憶を無くしてたのかは知らないみたいだ。
ただ私を迎えに来てくれただけで、詳しいことは何も聞いてなかったんだ。
でも、そんなこと、今はどうでもいい。
「お願いします。我慢できないんです。このままじゃ、おかしくなる」
ゼルマさんに断られたら、もう誰も私に吸血を許してくれる人が居なくなる。
ヤダ。
飲みたい。
飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい。
「いいさ、好きなように飲んでくれてかまわない。あとそんなふうに懇願しないでくれ」
よかった。
ゼルマさんはまた私のすぐ前にしゃがみこんでくれて、グイっと襟を引っ張って、首を晒してくれる。
飲んでいいんだ。
嬉しい。
ハァッと息を飲んで、大きく口を開けて、ゼルマさんの首に噛みついた。
「んぐっ」
ゼルマさんが呻いた。
痛かったというより、驚いた感じ。
そして、私も。
「なん、なんれ」
牙が伸びてない。
だから、噛んでも刺さらない。
無理やり噛んだら、全部の歯で肌を食いちぎってしまう。
「は、む。ん、」
何度も噛みついて、噛みついて、でも犬歯が人間サイズのままだから刺さらなくて。
飲めない。
飲んでいいって言ってくれたのに。
飲みたいのに。
ゼルマさんの手が私の頬を包んで、何度も噛みついて涎まみれにしてしまった首が、スッと遠のく。
「エリー」
「どうしよ、牙が」
今の今まで気付かなかったけれど、吸血に使う歯が伸びない。
指を口に突っ込んで、上の犬歯をつまんで、引っ張ってみる。
グッと力を入れても痛いだけで、引っ張ると、少しだけ伸びたような気がした。
だけど指を放すと、元に戻る。
こんなに飢えてるのに、歯が伸びない。
何度もつまんで、何度も引っ張って、引っ張って、でも伸びない。
よだれがダラダラ垂れて、手を伝って私の足の上にポタポタ落ちる。
ゼルマさんが私の手を掴んで、顔を覗き込む。
それでやっと私は歯を引っ張るのを止められた。
「エリー。やめてくれ。歯が抜けてしまう」
「れも」
ゼルマさんは私の手を下げさせると、唇に指をあてて、少し上に押し上げる。
「どれだけの力で引っ張ったんだ。歯が少し外側を向いてるぞ」
窘めて、ゼルマさんの指がそっと犬歯に触れる。
「ふぁあ」
そうすると、牙が人肌を貫くときに感じる快感が、かすかに走った。
「ん? 歯が少し伸びた」
ゼルマさんはそう言って、興味深そうにさわさわと犬歯を撫でる。
「触ると伸びるのか。面白いな」
そっと、静かに、くすぐるように、指先が犬歯の表面を撫でおろして、歯の先のとがったところを滑り、内側へと折り返す。
微かな気持ちよさと牙が伸びる感覚が堪らなく嬉しかった。
「も、ろ、触っれ、ろばひれ」
私の両手がいつの間にか、私の歯を撫でるゼルマさんの腕を掴んでた。
そしてもう一方の手が、反対側の唇を押し上げて、牙に触れる。
背中を駆け上るよくわからない感覚が、今まで以上に下半身の力を抜き取っていく。
ゼルマさんの指が優しく歯の輪郭をなぞる。
犬歯が牙に変わっていく。
うっとりするというより、震えそうな感じ。
実際に体が震えてるかどうかはわからないけど、視界は揺れる。
真剣な顔で私の口の中を覗き込むゼルマさんが、涙で滲む。
「大丈夫か? 痛くはなさそうだが」
「うう」
「そうか」
歯茎の内側から、牙の埋まっていた部分がゆっくりと抜けていくのがわかる。
でも、きっとまだ短い。
「少し時間がかかるかもしれないな」
「ふ、ぁ、ひ」
ゼルマさんの指が撫でるのやめて、歯の外側をトントンとノックする。
歯茎の奥まで響く振動が、私の意識と声を揺らした。
「どうやれば早く牙が伸びるのか、知っておいたほうが良さそうだな」
「ひょんな」
嬉しいやら、止めて欲しいやら、よくわからない。
牙が十分な長さになるまで、私はゼルマさんの指に悶え続けることになる、のかな。
吸血が終わるまでを一話にまとめようと思っていたのですが、前戯もとい吸血の準備が長くなったので分けました。