孑孑
私には忘れたいことがある。
自分が人間じゃなかったということ。
死人の血を吸ったこと。
ゼルマさんに裏切られたこと。
忘れたくて。
無かったことにしたくて。
仕方がない。
ふとした時に思い出しては、どうしようもなく落ち込んでた。
でも人間になってからは、思い出さなくなった。
思い出しても、そんなに悪い気分にはならない。
今さら何をしても、起こった出来事はどうにもならないから。
もう、解決したことだから。
それなのに、私はまた、無かったことにしたいことが出来てしまった。
マーシャさんに、酷いことを言った。
思ってもないことが、言葉になって、口から流れ出て行った。
自分の言ったことを、覚えている。
マーシャさんの表情を、覚えてる。
「毎日毎日ベタベタくっついてきて暑苦しいよ」
そんなこと、思ったことない。
ただ、血を吸いたくなってしまうから、やめて欲しいと思ってただけ。
「体中撫でまわされて、ずっと気持ち悪かった」
気持ち悪いなんて、思ってない。
男の人ならともかく、マーシャさんに体を触られたって、嫌悪感なんて感じたりしない。
感じたこと、ない。
「私が嫌がってても、無理やり辛い物食べさせたり、からかったり」
私がマーシャさんを怒らせたせいだ。
それでマーシャさんを責めようなんて、考えたことない。
「気持ち悪いよ」
気持ち悪いのは、私の方だったはずなのに。
人間じゃない癖に、取り繕って人間のフリをし続けた、私の方が気持ち悪い。
「何かある度に私にあれこれ要求するの、いい加減鬱陶しい」
いっぱい心配かけて、迷惑もかけた。
マーシャさんが色々要求してくれるから、私はそんな自分を許せてた。
「ほんとに何しに来たの? 何の用?」
私を探しに来てくれたのに、私は、なんてことを言ってしまったの……
「私がマーシャさんと一緒に居る理由なんて、もう無いんだけど」
そんなわけない。
私が帰れる場所は、マーシャさんのところなのに。
一緒に居る理由なんて、なくていいのに。
「同じ家に住んでたけど、私とマーシャさんは家族でも何でもないよ」
うまく言葉にならないけど、何でもないなんてこと、ない。
一緒に居たいって思える人なんだから。
「もう会いたくない」
会いたい。
「私は、マーシャさんのところになんか帰らない」
帰りたい。
「ヘレーネさんと一緒にここに居るから、邪魔しないで」
ヘレーネさんと一緒に居るなんて、もう、耐えられない、
「帰ってよ」
連れて帰って欲しかった。
「二度と来ないで」
……マーシャさんには、ヘレーネさんに関わってほしくない。
だから、もう来ないで欲しい。
眠りから目が覚めて、自覚する。
「……もぉ、ダメ」
口に出して、実感する。
いい加減見慣れてきた石の天井が、知らしめてくる。
もう、諦めるしかない。
「ダメじゃありませんよエリーさん」
そんな声がして、体を動かすのが億劫で、目だけを動かして、声の主を探す。
まだ眠ったままの体が、重くて熱い。
動かしたくない。
動かそうという動機がない。
ボーっとしている私の視界をゆっくりと侵してくるのは、やっぱりヘレーネさんだった。
もう、怖くない。
「そろそろ、普通の食事をしてみませんか?」
そう言われて、おいしそうな匂いがしていることに気付いた。
そう言えば、お腹空いてる。
「ぅ、ん。食べる」
私にはもう、ヘレーネさんが私にする酷いことに、抵抗する理由が無くなってしまった。
どうにでもすればいいんだ。
おもちゃにでもなんにでも
なるようになれ。
「はい、どうぞ」
私はヘレーネさんの差し出したスプーンに、何が乗っているのかも確認せず、口を開けた。
舌の上に落ちてきたソレを、適当に噛む。
多分鶏の挽肉だと思う。
「美味しいですか?」
「……美味しぃ、よ」
「少しずつ食べて行きましょうね。しばらく胃袋に何も入っていない日が続きましたから、体が驚かないようにしなくては」
ヘレーネさんの顔は、部屋の照明の逆光でよく見えない。
でも、きっといつもの笑顔だ。
声色も、言ってる内容も、優しい。
優しいし、拒絶する理由もないから、縋ってしまう。
「……飲み物、ほしい」
「用意していますよ」
ヘレーネさんはお水のコップを持ってきて、中身を口の中に垂らしてくれた。
お水に見えたけど、塩とか砂糖とかが混ざったお水みたいで、変な味がする。
舌がジンと痺れて、感じたことのない味なのに、美味しいと感じる。
だから飲む。
ヘレーネさんは甲斐甲斐しく私の世話をする。
その時のヘレーネさんは、優しいように見える。
そう見えるだけで、きっと私に優しくしようなんて思ってない。
ただ、私が体調を崩さないようにしてるだけなんだろうね。
そうわかっているのに、私は……
「マーシャさん、は?」
「帰りましたわ。一応言っておきますと、何もしてませんわよ? 私もエリーさんも、きっともう会うことは無いでしょうけど、一応大事な友人ですからね」
ヘレーネさんは、やっぱり笑って答えてくれた。
「そっか」
じゃあ、それでいいかな。
「お腹開くとき、気絶させてほしい」
「……まぁ、いいでしょう」
「あと、痛いの、嫌」
「えぇ……わがままですわね」
断られてもいいと思って言ってみたら、あっさりと通った。
嬉しくもないけど。
その後も、少しだけ食事が続いた。
お腹はまだ空いてるけど、これ以上は食べさせてくれないらしい。
そして最後に、お薬の時間。
「はい、飲んでくださいね?」
ヘレーネさんはそう言って、私の手に活性薬を握らせた。
今までは口にねじ込んで無理やり飲ませたり、強く命令したりして、やっぱりヘレーネさんが飲ませたりしていた。
でも今日は、私に自分で飲ませたいらしい。
私は手のひらの薬瓶を持ち上げて、コルクを抜いた。
血によく似た匂いがする。
飲むたびに、私を人ではない何かに変えていく、薬。
私をどんどん取り返しのつかない方に向かわせる、毒。
……もう、どうでもいい。
私は口を開けて、ビンの中身を口の中に零した。
「……あらあら、どうしたのですか?」
視界が赤く染まってきて、牙が延びる感覚があって、お腹の奥の、血嚢がズキズキする。
そんな感覚の中で、私の顔を覗き込むヘレーネさんを見上げた。
ニマッと笑うヘレーネさんは、おかしそうに言う。
「笑ってますわよ?」
そうなんだ。
私、笑ってるんだ。
……活性薬を飲むと、すぐにヴァンパイアの時のような感覚を覚える。
五感の鋭さとか、筋力とか、再生能力は人間のまま。
もっと内面的というか、感覚的なものがヴァンパイアの時っぽくなる。
でも、それは一瞬。
しばらくすると落ち着いて、元に戻る。
今日は1分くらい、ヴァンパイアっぽい感じがした。
最初飲んだ時は、10秒も無かったのに。
日に日にヴァンパイアっぽくなる時間が長くなる。
今日は初めて、血が飲みたくなった。
ヘレーネさんに言えば、飲ませてもらえるかな。
ヘレーネさんが部屋を出て行った後、私はまた思い出す。
マーシャさんに言った、酷い事の数々。
その時のマーシャさんの顔。
なぜかギドがマーシャさんに抱えられていたこと。
あの時、助けを求めていたら、どうなってたかな。
ギドなら、なんとかしてくれたかもしれない。
それなのに私は……
あ、そうだ。
血嚢さえなければ、ヘレーネさんは私に興味を無くすかもしれないじゃん。
私は気付くのが遅い。
潰しちゃえばいいんだ。
死ぬかもしれないけど、別にいい。
今すぐやろう。
やり方も思いついた。
簡単簡単。
まずお腹の縫合した痕に、両手で指を突っ込んで。
「ッ~、グ」
痛い。
そのまま指の根元まで突っ込んで。
「ゥウゥゥ、ぁ」
血がいっぱい出る。
糸を抜いて、両手をお腹に入れて。
「ッーーーー」
お腹の奥から、グチャグチャという音がする。
血嚢を探し出して。
「ぁ、あ、は」
痛みが振り切って、よくわからなくなる。
頭の中がフワフワして、痛いのと同時に気持ちよくなる。
「ヒュ、ふ、お゛」
両手で、血嚢を潰す。
”ブジャ~”って音がした。
「危ないところでした……全くエリーさんは、頭がおかしいのではありませんか? それを思いついたとして、まさか本当に実行に移すとは思っていませんでした」
ヘレーネさんが居た。
代わりに私の右腕が、無くなってる。
さっきから”チョロチョロ”って音がするなと思ってたら、肩から血がダラダラ流れてる音だったんだ。
私が自分の右肩を見てる間に、”ヒュボッ”って音がして、左腕も無くなった。
「もう、こんなにグチャグチャにしちゃダメじゃないですか。ウジが湧いたらどうするおつもりなのですか?」
ヘレーネさんが文句を言いながら、止血剤を私の両肩の、腕がつながっていた断面に塗り付ける。
すると、嘘のように出血が止まった。
ヘレーネさんは私のお腹の、私が滅茶苦茶にした縫合痕をしばらく見てから、針と糸でまた縫い合わせ始める。
不思議と、悪い気分じゃない。
自分がダメになっていく感覚が、いい。
もっと、どうしようもなくなってしまえば
何も出来無くなれば
何もしなくて済むのかな。
「ウジ……」
ヘレーネさんの言葉の中で、”ウジ”の部分が、なぜか印象に残ってて、口に出した。
自分のことのように聞こえたのかもしれない。
ああ、でも少し違う。
私はウジというより、ボウフラかな。
はい、いつもの四肢欠損です。
ただし今エリーにヴァンパイアの再生能力はありません。




