眠れない夜
その日の夜もリオード伯爵は仕事に追われていた。
王城に寝泊まりする貴族と言えば、大抵公爵か大公と言った高い爵位を持つ者が多いが、伯爵位であるリオード・スパインは故ジークルード王弟の相棒として特別待遇的に王城で生活している。
そしてリオードは城内において爵位が低いせいか、雑多な仕事を押し付けられることが多い。
先日の王族の死もあり、最近リオード伯爵の仕事量は拍車をかけて多くなっているのだ。
「なんだこれは? ……ああ、ヴィオラ様の……」
ため息とともに目を通し始めたのは、故王弟の妻ヴィオラの死亡についての書類だった。
凄惨な自殺をした思われていたヴィオラだったが、腹部に浮かんでいた不気味な紫の痣について調べてみると、どうやら魔術によって死に至らしめられたらしい、という報告書である。
調べたのは王都の教会の高位神官であり、おそらくこの検死結果は正しいと思わる。
「魔術師など、私の祖父の時代には既に一掃されていたはず……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いたのは、リオードの意識に重くのしかかる不安がそうさせたのだろう。
王族は皆一様に同じ日に死に絶えた。
国王ジャンドイルだけは生き残っているようだが、扉越しに声を聞いただけで姿を確認できたわけではないらしい。
国王は本当に無事だったのかと思わざるを得なかった。
王城に住まう大公あたりが、国王の死を隠すために影武者を使っているのでは?
国王が塔に引きこもり始めたのは数か月も前の話だが、その時点で国王は死んでいたのでは?
そんな推測は、今やリオードを含めた多くの貴族が抱えている。
そしてこの書類に書かれている、”魔術”という文字の不気味さが合わさると、リオードの抱える不安は加速度的に増大した。
「何か、何か取り返しのつかない事態が進行している、気がする」
そんな確かな予感はあれど、その予感が当たっているという確かな証拠は、いくら探しても見つからなかった。
魔術によってヴィオラが死んだというのは、高位神官が何かを見誤っただけであり、王族が一斉に死んだのはただの偶然で、国王はただ引きこもっているだけで生きている。
そうであって欲しい。
書類から視線を上げ窓の外を見ると、真っ暗な夜空があった。
曇っているせいか、月や星の明かりは全く見えない。
どこまでも暗い、昏い、黒いだけの夜空。
窓の外に光源が無いせいか、窓には自分の疲れた顔と、蝋燭の光が反射している。
自分で思っているより疲れている。
そう思ったリオードは、蝋燭を燭台ごと持ち上げてベッドに向かう。
ベッドに腰を下ろし、蝋燭を吹き消すと、そのまま横になった。
眠れる気はしなかった。
呼吸も心拍も落ち着いたものだったが、心の内は全く落ち着けない。
今夜の暗さと静かさは、安心より不安を強調しているようだった。
それでもリオードは灯りの無くなった部屋で天井を見上げるのを止め、目と閉じた。
精神的にも肉体的にも疲れていたリオードは、ベッドに横になるとすぐに眠った。
春を迎えてはいたが、未だに夜は肌寒い。
光も音もない部屋で、暖かい毛布にくるまったリオードは、起きているときには見せない穏やかな表情で静かに寝息を立てる。
眠れる時間はさほど多くはないが、眠っている時間だけは、リオードにとって心休まる瞬間だった。
この瞬間だけは、どこまでも無防備だった。
キュリ、キュリ。
真っ暗な外しか映さなかった窓から、耳障りな音が鳴る。
2つの赤い目が怪しい光を湛えてこちらを見ていても、リオードは目覚めない。
キュリッキュリッ……
窓からわずかに聞こえる耳障りな音が、リオードに危険が迫っていることを伝えていたが、リオードは目覚めない。
今自分は眠っているのだ。
起こすな。
そんな感情が透けて見えるように、リオードは窓に背を向けるように寝返りをうつだけだ。
耳障りな音はすぐに聞こえなくなった。
代わりに聞こえてきたのは、ほんのわずかな、極小さな音。
カチャ。
窓の内側からだった。
リオードに反応はない。
そして、もう手遅れだ。
仮に今すぐ跳び起きたとしても、間に合わない。
眠り続けるリオードを起こしたのは、窓が開いた音だ。
意識だけがぼんやりと目覚め、自分がベッドに横になっていることに気付く。
何が自分を起こしたのかは覚えていない。
目を瞑ったままもう1度、今度は窓の方に寝返りをうち、そのまま再び眠りに就こうとする。
リオードは、既に部屋の中に招かれざる客が居ることに気付けなかった。
赤い目の侵入者は窓のすぐそばに立ち、リオードの寝顔を見下ろしている。
眠りに就こうとしていたはずのリオードはなぜか寝付けず、若干のイライラを覚えていた。
ふわりと風が舞い、リオードの髪をわずかに揺らすのだ。
肌寒い風に前髪やもみあげを煽られるのが鬱陶しい。
そして気付く。
眠る前は窓が閉まっていたはずなのに、どうして風が吹くのかと。
そしてようやくリオードは目を開けた。
寝ぼけ眼では、未だに2つの赤い目に気づけない。
侵入者の希薄すぎる気配を察知できない。
「窓は閉まっていたはず、なんだが」
寝起き特有の低く、かすれた声でそうつぶやき、眠る前に枕元に置いた燭台とマッチを手探りで見つけ出す。
間違ってもベッドに火をつけてはならないと、リオードは上体を起こして膝から下をベッドから出すと、ベッドに腰かける形でマッチを擦る。
シュッ……シュッ。
手元が暗いせいか、うまく火がつけられない。
リオードは4回目にしてようやくマッチに火をつけた。
ふわりと足元が明るくなり、周囲の床やベッドが照らされ、寝起きの目には優しくない光を受け止める。
そして燭台を手に取ろうと顔を上げた。
その瞬間だった。
「ンンンッ」
一瞬の出来事に前後不覚に陥ったリオードは、何が起きたのかを理解する暇もなく、ベッドに押し倒されていた。
口元は手に押さえつけられ、しゃべることもままならない。
ベッドに腰かけていたはずだが、今は仰向けに倒れている。
口を片手で塞がれ、ベッドに縫い付けるように上に乗られている。
つい数瞬前に火をつけたマッチは、何者かの口を押さえていないほうの手に取り上げられ、親指と中指に摘ままれている。
そのマッチ光によって、リオードは侵入者の顔の右半分だけを見ることが出来た。
少年というには身長が高いものの、その姿は手配書通りだ。
ハーフヴァンパイアのアラン・バートリー。
リオードが、今自分はアランに襲われていると理解するのには、数秒の時間を要した。
その間アランは、じっとリオードの目をまっすぐに見降ろしたまま、片手間でマッチの火を燭台に移し、火の消えたマッチを燭台の端に捨てた。
燭台の光が部屋の様子を明らかにした頃、リオードは考える。
この状況から逃れ、生き延びる方法はあるか。
アランの目的は何か。
ここで自分が死んでしまうとどうなるのか。
どんなふうに殺されるのか。
自分もあの夜の、北西区の民ように、ゾンビになるのか。
鼻息を荒くし、呻くように必死に呼吸をするリオードに対し、アランはゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。
「僕が困るようなことをすれば殺す」
妙に若い声だった。
感情の読めない声だった。
リオードはアランの言葉の解釈に、いつも以上に時間をかける。
アランが困ることは何か。
暴れること。
攻撃すること。
何らかの方法で助けを呼ぶこと。
すぐに思いつくことはこれくらいだった。
逃げ道を塞ぐための言葉だ。
そしてアランは、困るようなことをしなければ殺さないと言っている……ようにも取れる。
何をしにここへ、自分に会いに来たのかは不明のままだ。
用が済めば殺すのかもしれない。
だが仮にもうすぐ殺されるのだとしても、せめて冥途の土産に、色々聞き出してからだ。
リオードは了承の意味を込めて、ゆっくりと目を閉じ、開いた。
恐怖に鼻息を荒くしていなければ、それなりに恰好が付いていただろう。
アランはリオードの意思を読み取ると、ゆっくりと口を押えていた手をどけた。
ゆっくりと部屋の外には漏れないような小さい声で話し始めるリオードを、アランは変わらずじっと見降ろした。
「何が、目的だ? 私に何の用だ」
「僕らはもう1度王都を襲う。それを伝えに来た」
アランの襲撃の予告を聞いたリオードは、既に混乱を極めている頭がさらに混乱したのを感じた。
「……何のために、そんなことをする」
「楽しむためだ」
アランは薄く笑ってそう答えると、訝し気に見上げるリオードを見る。
”楽しむため”というだけでは意味がわからないのだろうと、アランはさらに言葉を紡ぐ。
「僕らは2回襲撃して、この王都を滅茶苦茶にしてやった。それはそれで楽しかった。王家の秘宝を奪い取ってみた。楽しかったけど、物足りない」
アランは心底楽しそうに、さらに笑みを深める。
「物足りないから、今度は突然襲うんじゃなくて、先に伝えてみることにしたんだ。あらかじめ僕らが襲ってくるってわかってれば、対策してくるだろ? そうしたらもっと楽しめると思うんだ」
リオードはアランの楽し気な笑みに、うすら寒さを覚えた。
もともとホグダ、アラン、ギドの目的は、よくわからなかったのだ。
王家の秘宝を奪うことが目的だと言われているが、秘宝が何なのかは王族の中でも知っている者は少なく、本当にあるのかどうかすら怪しい物だった。
それを奪うことにどんなメリットがあるのかがわからなかった。
だが、リオードはアランの表情を見て、確信した。
楽しそうだったから。
それだけが理由だったのだろう。
アランの表情はそれほどまでに、本当に心底楽しそうであった。
「さて、リオード伯爵。僕はあなたにだけこのことを伝えた。他の人には何も言ってないし、何もしてない。あなたが1人で”アランが襲ってくる”と言ったところで、証拠が無い。どれだけの人が信じてくれるか、楽しみだね。それでどうする? どうやって僕らの襲撃に対策する? どんなふうに僕らを楽しませてくれる?」
「貴様らを楽しませるつもりはないっ」
リオードは静かに、だが力強くそう言い切った。
言い切りはしたが、しかし対策しない訳にもいかない。
対策しないということは、また多くの王都の民を死なせることになるのだ。
それはアランもわかっている。
「うん。今答えてくれなくて構わない。その方が面白い。僕も、僕らがどういう風に襲うかまでは教えない」
相変わらず嫌な笑みを浮かべているアランを、リオードは静かに睨み上げた。
眠気は既に消し飛んでいたが、ようやくリオードはある考えに至る。
アランの言う”僕ら”とは、アランの姉ホグダと海賊船長ギド、そしてギドの率いるスケルトンだろう。
リオードは以前に見かけたホグダの手配書を思い出した。
手配書には、魔術師/死霊術士と書かれている。
ホグダは魔術師で、故王弟の妻ヴィオラを殺したのも魔術師。
そしてホグダの弟であるアランは、今こうして王城に忍び込んでいる。
状況証拠は十分と言える。
リオードの至った考えは、確信へと変わった。
「王族を殺しまわっていたのは貴様らか」
その瞬間、リオードは胸ぐらをつかみ上げられた。
呻き、頭の揺れが収まる直後、アランの赤い目が間近に迫っている。
「何でもかんでも私たちのせいにするな」
「――ッ」
怒気だけを乗せた声音とは裏腹に、アランはゆっくりとそう言った。
大声で怒鳴りたいのをギリギリで耐えているような、鬼気迫る表情で、そう言った。
強烈な怒りを含む目と声は、リオードを萎縮させるのには十分過ぎた。
肩どころか眼まで震わせ、寝間着のズボンには生暖かさが広がるが、リオードには失禁を気にする余裕などない。
今すぐ縊り殺されてもおかしくない。
喉が締まり、呼吸が止まる。
そのくせ肺は必至に呼吸しようと痙攣を繰り返す。
アランはリオードの反応を待っているのか、たっぷり10秒ほどそのまま睨みつけたままだったが、リオードにはアランを満足させる反応をする余裕などない。
アランがリオードの胸ぐらを放すまで、リオードは全身をこわばらせたまま固まっていた。
ふいにリオードの胸ぐらから手を放したアランは、興味を失ったようにリオードの上から退き、無表情に見下ろした。
アランはハァハァと荒い呼吸を繰り返すリオードに、最後とばかりに言い残す。
「襲うのは大体1週間後のつもり。それまでに精々対策しておいて」
アランは開け放たれた窓に手をかけ、一歩跨ぐ。
そして言い忘れたことを思い出した。
「……次は王都中の”一般人”、みんなゾンビになっちゃうかもね。どこにも逃がさないから」
アランはこのまま、自分を殺さずに帰る。
それを悟ったリオードは、少しずつ体のこわばりが解けていくのを感じつつ、アランを見る。
窓の外に真っ暗に溶け込むように消えるアランを目視したリオードは、一気に脱力し、気絶するように眠りに落ちた。
ここまで読んでくださった読者の皆様ならお分かりの通り、私は恐がったり痛がったり苦しんだりする女の子が好きなのですが、おっさんの失禁を書くのはあまり楽しくありません。
リオードを女性にしておけばよかったと後悔しております。
そう言えばエリーには嘔吐や吐血、四肢欠損をさせていますが、失禁はまだでしたね。