紺色のジャケット
兵舎の自室にて、エリーは化粧台に向かう。
椅子に座って鏡を見るエリーの背後には、ハサミを持ったチェルシーが居た。
足元にはつい先ほど切り落とされた、エリーの茶色い髪が散らばっている。
腰まで届いていた後ろ髪は、もみあげとまとめて肩に届くか届かないか程にカットされたのだった。
チェルシーによって髪の長さをそろえたはずなのに、エリーの髪の毛先は既に元気に跳ね回り、ハーフヴァンパイアだったころのようなウルフカットになっていた。
「あなたの髪はどうなっているんですか」
「癖っ毛なんだよ」
「癖が強すぎます」
肩に乗っていた髪を払い落すと、エリーはギドに会いに行く前に買った雑嚢から、いくつかの化粧品を取り出した。
エリーはオリンタス山の洞窟の中に放置されている化粧台に残っていた化粧品と、クローゼットの中身を持ち帰っていたのだ。
チェルシーは唐突に髪を切ってと頼み、次に化粧品を取り出したエリーを背後から見下ろしながら、わずかに眉をひそめた。
「何してるんですか? というか何がしたいんですか? 突然おしゃれに目覚めたのですか?」
「違うよ。これから男装してアランになって、王城に忍び込むの。化粧はご主人様に教わってるし、男物の服も持ってきたから、ぱっと見では男の人に見えるようになるんだよ」
前髪をかき上げて額にパフを当てながら答えるエリーを、チェルシーは興味なさげに見下ろした。
「そうですか……その大きさなら問題なく男装できるでしょう。サラシも必要なさそうですし」
エリーはチェルシーが何を思ってそう言ったのか、一瞬遅れて理解する。
「グッ……あの、もしかしてわざと傷つくようなこと言ってるのかな」
さっくりと傷つきつつ胸を押さえたエリーは、後目でチェルシーを睨んだ。
チェルシーは何も詫びることなど無いかのような目でエリーを見返す。
「もちろんです」
エリーは首だけでがっくりと項垂れ、ため息交じりに問う。
「楽しい?」
「楽しいです」
「私が傷ついてるのがそんなに楽しい?」
「いいえ、チェルシーが傷つけるのが楽しいのです」
「……あの、出来ればやめて欲しいんだけど」
「そうは言いつつも、あなたも楽しんでいるのでしょう?」
「全然楽しくないよ」
エリーは顔を上げて鏡に向き直ると、化粧を再開して会話を切った。
チェルシーはしばらくその様子を眺めた後、床に落ちたエリーの長い髪を一束掴み上げる。
「切った後に言うのも何なのですが、本当によかったのですか? ここまで長く伸ばすのは1年や2年では足りませんよ?」
「いいの。勝手に伸びてただけなんだから。もともとこのくらいの長さだったし」
ホグダに教わった、印象を変える化粧を終えたエリーは、首を軽く左右に振る。
「ん~、頭が軽くなった。もっと早く切ればよかったかも」
エリーは楽し気に短くなった髪をワサワサと弄ると、雑嚢から衣服を取り出した。
洞窟にあるクローゼットはギドがカッセルの町の町長宅から強奪したモノであり、男物の服はたくさん入っていた。
エリーが持ち帰ったのは、かつてと同じ白いカッターシャツに紺色のジャケットとズボンだった。
今のエリーの体格にちょうどいいサイズで、ほとんど同じ色の服が、都合よくクローゼットに入っていたのは幸いだったと言える。
クローゼットに無ければ仕立て屋に行って、時間をかけて仕立ててもらうことになっていただろう。
エリーは着ていた服をパパっと脱ぎ、取り出した服をササっと身に着けると、満足気に鏡の前に座る。
最後に髪を黒染めし後ろで縛ると、エリーは鏡に映る自分の姿を確認した。
見た目の年齢こそ変わっているが、その姿はホグダと共に王都に潜入したときのことを思い出させた。
小難しいことを考えず、自身をハーフヴァンパイアだと自覚して、ホグダやギドと共に活動していた頃の記憶は、エリーにとって一番楽しかった頃の思い出だった。
思い出に浸り終え、鏡に映った中性的な男に見えなくもないという感じに仕上がりに満足したエリーは、立ち上がってチェルシーに向き直り、左手を腰、右手を顎にあてがって見せた。
表情をキリリと引き締めつつ、男性的な低い声を意識して問いかける。
「どうかな?」
「肩幅が足りていません。裾が余っていてだらしないです。声音が若すぎます。胸が無いのでそこだけは違和感がありません」
エリーの楽しい気分は、チェルシーによって一瞬のうちに崩壊したのだった。
エリーはいそいそとジャケットとズボンを脱いでチェルシーに手渡すと、両手で顔を覆った。
「肩幅合わせと裾上げ、お願い」
「どうして声が震えているのですか? 泣きそうなのですか?」
「お化粧が崩れるから泣かない」
「そうですか。残念です」
エリーはそのまま化粧台の前に座り直すと、チェルシーに聞こえるように独り言を漏らした。
「ギドってほんとに優しいよね。チェルシーと違って慰めてくれるもん」
「チェルシーも慰めたではありませんか。ベグダットのあの館の中で、前髪を整えてあげた時に」
「あの1回だけじゃん! その後はずっと罵倒したり傷つくこと言ったりするばっかりじゃん!」
「慰めてもらっておいて文句を言うなんて、あなたはどれだけ傲慢なのですか? 恩知らずの恥知らずですね。軽蔑します」
「……そうだね。私が悪いんだよねごめんね」
「チェルシーをチェルシーの知らない人と比べるようなことを言うからです。そういうところは直してください。2度目はありません」
「はいはいごめんなさいっ!」
叫ぶようにそう言って一層深く落ち込んだエリーとは対照的に、どこからか取り出した裁縫道具を振るいながら淀みなくエリーを罵倒するチェルシーは、どこか活き活きとしていた。
深夜、エリーは王城に忍び込む。
クレイド王家が国王ジャンドイルを残し、全員突然死したことで、城内は夜間でも厳重な警備が布かれるようになっていた。
王弟ジークルードすら死体で発見された今、国王ジャンドイルまで死去すると、その後の王座を巡って貴族間での争いが起きることは目に見えていた。
その対策として国王が引きこもっている中庭の塔付近は、特に警備が厚くなっている。
近衛騎士がひしめく城内を、エリーは真っ赤な目を光らせながら進んだ。
エリーはコネリーとして何度も歩き回ったおかげで、城内の地形や部屋の位置をある程度知っており、目的地であるリオード伯爵の寝室へと向かうルートは頭に入っている。
そして警備が厳重と言っても、所詮は人間が見回っているだけである。
ヴァンパイアであるエリーにとって、人の目と耳を欺くことはさほど難しくない。
瞬きの瞬間を狙って無音で通り過ぎ、暗闇と物陰に潜んでは監視の目が緩む瞬間を待つ。
ヴァンパイアであればエリーでなくとも同じことが出来るだろうが、エリーは特に慎重に事を運んだ。
万が一にも気づかれないために、エリーは感覚を研ぎ澄ませていたのだ。
そうやって警備の目を掻い潜り、リオード伯爵の寝室の扉が見えるところまで来たエリーは、不満げにつぶやいた。
「……困った」
王城で寝泊まりする貴族の部屋は、リオード伯爵の寝室を含め、全て王城2階にある。
そしてその部屋の扉の前には、必ず1人は近衛騎士が立っていた。
「夜が明けるまでずっと居そうだね」
エリーの感想通り、彼らは部屋から貴族が起き出して来るまでずっと扉の前で立ち、安全を守るのが仕事だった。
そして彼らは貴族の居る部屋の数だけ、この廊下に立っている。
1人や2人の目と耳は欺けても、5人や6人の監視を突破し、誰にも気づかれずに彼らの背後にある扉を通ることは、流石に無理である。
質のいいジャケットを着ていようが、仮に赤い目を隠すことが出来ようが、エリーがこんな時間に彼らの目の前に現れようものなら即騒ぎになるだろう。
だがエリーに焦りはない。
要は正攻法ではリオード伯爵の寝室に入れないというだけなのだ。
エリーは物陰から廊下を見るのを止め、手近な窓から王城の外に這い出ると、指尖硬化によって固めた指を壁に埋めて張り付いた。
壁の出っ張りを足場に、壁を掴み、城の外側からリオード伯爵の寝室へと近づいていく。
深い紺色の上下に黒染めした髪は、エリーを夜の闇へと溶け込ませ、星の無い夜も幸いして、屋外で警備をする近衛騎士は誰もエリーに気付かない。
エリーは黒っぽい色で壁を這う自分を想像し、黒光りする虫みたいだと自嘲しながら、リオード伯爵の寝室の窓までたどり着いた。
窓からそっと部屋の中を覗き込むと、こんな時間でも机に向かい、何かの書類に目を通しているリオード伯爵の姿があった。
まだ起きているのかと思うが口には出さず、のぞき込むのを止めて死角に戻る。
エリーは外の壁に張り付いたまま、リオード伯爵が眠りに就くのを待った。
じっとしているせいか、寝室の中の音が聞こえてくる。
万年筆が転がる音。
蝋燭の焼けるジリジリとした音。
リオード伯爵のため息。
「なんだこれは? ……ああ、ヴィオラ様の……」
本気で感覚を研ぎ澄ませば、リオード伯爵の小言を正確に聞き取ることも出来そうだったが、エリーはそうしなかった。
”無心、無心”と心の中で自分に言い聞かせ、部屋から物音がしなくなるのを待つ。
壁に張り付いたままじっとしている自分の姿を想像しないようにしつつ、寝室に侵入した後のことを考える。
”無心じゃないじゃん”と思ったが口には出さなかった。
いまいち集中力が欠けている自覚はあったが、緊張しすぎるより良いだろう。
エリーはスゥっと息を吸い、改めて寝室に忍び込むタイミングを計り始めた。
作者はチェルシーにエリーをいじめさせないと気が済まないようになってしまったようです。