蠱毒姫の薬
真祖の部屋でサイバと会った日から、1夜開けた朝。
私は兵舎の自室で、机の上にある3つの薬瓶を見る。
これらの薬瓶は、真祖の部屋から兵舎に戻る時にサイバから渡されたもので、ヘレーネさんが作った薬なんだそうだ。
とりあえず1つを手に取ってみる。
その瓶には染眼というラベルが貼られていて、小さいスポイトが紐で縛られている。
使い方は、スポイトで瓶の中の薬液を吸い上げて、両目に1滴ずつ落とせばいいらしい。
これを使えば、私の赤い目を茶色く染められるとのこと。
「大丈夫かな。目が見えなくなったりしないよね」
不安しかない。
ヘレーネさんが作ったものを自分の体に使うなんて、怖いに決まってる。
ヘレーネさんってつまり蠱毒姫なわけですよ。
蠱毒姫が作った薬を使うなんて、絶対私じゃなくても躊躇する。
「……んん、でも、今から取り止めにはできないよね」
自分にそう言い聞かせつつ、とりあえず薬瓶のコルクを抜いてみる。
コルクを抜いてみると、ほんのりと嗅いだことのない匂いがした。
刺激臭ではないかな。何とも言えない匂いだった。
スポイトを薬瓶に縛り付けている紐をほどいて、中の液体を少しだけ吸い上げる。
そこまでやってから、もう1度覚悟を決める。
「ふぅ……やろう。大丈夫、大丈夫」
サイバが言うには、私に持たせた薬はヘレーネさんが自分に使っていた薬らしいし、体に悪い薬ではないはず。
ヘレーネさんが自分に使うために作った薬なんだから、むしろ安全だよ。
多分。
「よし」
スポイトをつまんだまま顔を上に向けて、片目を大きく開けて、目のすぐ上にスポイトの吸い口を持ってくる。
「あ、やっぱり怖い」
私の心はあっさり折れて、そのまま体が固まってしまった。
目に水滴を落とすことがまず怖い。
スポイトをつまむ指がプルプル震えるくらい怖い。
目を閉じてしまうほど怖い。
諦めて、誰かにやってもらおう。
「チェルシー……は寝てるね」
同じ部屋で生活してるチェルシーは、今日はベッドの上で寝てた。
思えばチェルシーは最近はずっと起きてた。多分2~3日ぶりの睡眠じゃないかな。
起こすのはやめて、別の薬を使うことにする。
2つ目に手に取った薬瓶には、ラベルに日焼け止めと書かれてる。
ヴァンパイアの皮膚は日光に当たると毒素を作ってしまうらしくて、この日焼け止めを肌に塗ると、その作用を妨害することが出来るらしい。
この薬が、ヘレーネさんが昼間に外を出歩ける理由なんだろうね。
日光には服越しでも肌を焼かれるらしいから、全身くまなく塗る必要があるとも言ってた。
この部屋には私と寝てるチェルシーしかいないから、普通に服を脱いで全身に塗る。
軟膏みたいな感じの薬だから、1回塗れば1日くらいは持ちそうな気がする。
あと背中がうまく濡れていない気もする。
塗れていない箇所があると普通に毒素が作られちゃうよね。
……ゼルマさんに頼もうかな。
染眼と日焼け止めのラベルの貼られた薬瓶を持って、ゼルマさんの自室に向かう。
とうとう賞金首として指名手配されたゼルマさんは、普通に兵舎で暮らしてたりする。
騎士団員のみんなや私たち以外が兵舎の中に居ることは滅多にないから、常日頃から隠れておく必要が無い。
ちなみに右肩はほぼ治りかけていて、私が噛みつきまくった左腕は、もう普通に動かせるようになってる。
「ゼルマさん、居る?」
「エリーか。居るぞ、入ってくれ」
なるべく普段通りに扉越しに声をかけて、返事をもらってから部屋に入る。
ゼルマさんの自室と言っても、他の部屋と間取りも家具も変わらない。
机に椅子、ベッド、クローゼットがある、あまり広くはない部屋。
ゼルマさんは机に向かってて、何かの書類を手に持ってた。
「もう団長じゃなくなったのに、まだ書類仕事してるの?」
「イングリッド1人にいきなり団長の仕事をすべて任せるのはどうかと思ってな。少しだけ私が手伝っている」
「そっか」
机の上にある書類の量は少しじゃないけどね。
イングリッドさん大変そうだもんね。
「それでどうしたんだ? 血を飲みたくなったのか?」
背中に日焼け止めを塗ってもらうのと、染眼の薬を目に落としてもらおうと思って来たんだけど……血も飲ませてもらおうかな。
ここ数日飲んでなかったし、他の人には頼みたくないからね。
「血も飲ませて欲しいけど、他にも頼みたいことがあって来たの」
ゼルマさんにベッドに腰かけてもらって、私はゼルマさんの足に背中を預けるように床に座って上を向く。
膝に頭を乗せるようにして上を向くと、染眼の薬の入ったスポイトを持った手と、私を見下ろすゼルマさんが見える。
「これで中の液体を、エリーの目に1滴落とせばいいんだな?」
「うん」
スポイトの吸い口が右目のすぐ近くにあって、反射的に目を瞑りそうになる。
だからゼルマさんの左手で瞼をこじ開けてもらう。
「動かないでくれ」
「はい」
恐いから早くして。
自分でやるのも怖いけど、誰かにやってもらうのも怖い。
いつ目に水滴が落ちて来るのかわからないって言うのが恐怖感を煽って来る。
そもそも液体とはいえ目に物を入れるなんて
「う゛っ」
考え事してたら薬液が目に落ちてきた。
反射的に体がビクッとなって目を瞑る。
「大丈夫か?」
「大丈夫、だと思う」
痛くはないし、沁みたりもしないし、たぶん大丈夫。
「左目もお願い」
「ああ」
右目を固く瞑ったまま左目をこじ開けてもらって、また同じように染眼の薬を入れてもらう。
2回目でも慣れるなんてことは無くて、1回目と同じように反応してしまったけど、これでもう大丈夫。
「本当に大丈夫か? 目を開けられるか?」
心配そうな声が聞こえてくるけど、まだ目を開けるのはちょっと怖いかもしれない。
「たぶん大丈夫。それより、もう1つの薬瓶開けて。ラベルに日焼け止めって書いてあるやつ」
「これか」
そう言うと、コルク栓を抜く音が聞こえてきた。
「それを私の背中に塗ってくれる?」
「わかった。捲るぞ」
「あっちょっと」
ゼルマさんは私の服の背中側の裾を掴んで、ガバっと捲り上げて、そのまま日焼け止めの軟膏の付いた指で背中を撫で始める。
もうちょっと心の準備が出来てからして欲しかったけど、今から咎めても仕方無いよね。
ゼルマさんの指が背中を撫でるのを感じながら、私はゆっくりと目を開けてみた。
……別に、何ともない。ちゃんと見えてるし、違和感はない。
日焼け止めの方も、もう十分だと思う。
「もう大丈夫」
「そうか」
ゼルマさんが服の裾を放してくれたから、捲られた服を整えて立ち上がり、ゼルマさんの方を見る。
「目の色、どうなってる? まだ赤い?」
ゼルマさんはちょっと驚いた顔で私の目を見て、少し間を開けて答えてくれる。
「……いや、赤くない。茶色の目だ」
もう薬の効果が出たらしい。
早いね。
それに日焼け止めも塗ったから、日光に当たっても大丈夫なはず。
念のため試しておこうと思って、ゼルマさんの部屋の窓まで行って、カーテンを開ける。
差し込んでくる朝日に、左腕だけ晒してみた。
ゼルマさんが慌てて立ち上がる。
「エリー! 大丈夫なのか?!」
……何ともない。
「大丈夫、みたい」
そう言って笑いかけると、ゼルマさんはフッと息を吐いてベッドに座りなおした。
「驚かせないでくれ」
「ごめん」
左腕を引っ込めて、私もゼルマさんの隣に腰かける。
するとゼルマさんが私を改めて見回して、口を開いた。
「しかし、目の色が赤くなければ、見ただけでは人間と変わらないな。それに日光を浴びても何ともないとなると、なおさら普通の人間のようだ」
「んー、でも血を飲みたいっていうのは変わってないよ……いい?」
ゼルマさんは少しだけ笑って、襟を捲ってくれた。
私はゼルマさんの首筋に顔をうずめながら、ゼルマさんごとベッドに倒れ込む。
それから、前につけた吸血痕のすぐ近くに牙を落としつつ、少しだけ考える。
ヘレーネさんの薬でヴァンパイアの特徴を誤魔化したとしても、本質的なところは何も変わってない。
血を吸わないと、生きていけない。
少しだけ人間みたいになってみて、人間になりたいって気持ちが強くなった気がする。
ゼルマさん血の味と吸血の気持ちよさを味わいながら、そんなこと思うなんて、私はすごくわがままなのかもしれない。
本文に出てきませんでしたが、3つ目の薬瓶は目の色を赤に戻すものです。