俯瞰
「やっと治った」
左足と両手で四足獣の様に広場を駆けまわっていたエリーは、再生を終えた右足を地面に突き、2本足で立ち上がりそう言った。
再生を終えた右足はズボンに覆われておらず、付け根からつま先まで素肌を晒している。
ソレとは十分に距離を取っており、今すぐソレがエリーに向かって突進してきたとしても10秒ほどの猶予がある。
そのためエリーは特に急ぐことも無く、左足の靴と靴下を脱ぎ捨てた。
冷たい石畳は雨水に濡れて滑りやすい。
エリーは両足のつま先を指尖硬化によって固め、スパイクの様に地面に突き刺す。
そのまま体勢をひねったり膝を曲げてみたりして、足元の安定感を確かめる。
「うん、いい感じ」
細く笑みながらそう言うと、エリーは一瞬でその場から消えるように真横に跳んだ。
石畳の地面につま先を刺して急停止し、先ほど自分が居た場所を見る。
そこにはソレが居た。
8本の腕でエリーを捕まえようとしていたのだろう、かなり滅茶苦茶な体勢だ。
”パシャパシャ”とうるさい足音を立てて向かって来ていたのだから、直前で避けることなどエリーにとっては難しくない。
掴み、引き裂き、喰らう。
ソレの行動原理は至って単純だ。
エリーはソレの行動パターンをおおよそ掴み始めていた。
つま先をスパイクの様に使う今のエリーは、即座に最大速度で跳び、即座に停止できる。
対するソレは、筋力、耐久力においてエリーを大きく上回るが、多すぎる手足のせいで移動が遅い。
今のエリーにとって、ヒットアンドアウェイで戦うことは簡単だ。
死角に回り込み、数発豹拳と貫手を叩き込み、離れてまた死角に入る。これは圧倒的な速度差を活かした有効な戦術だろう。
「……ううん、それじゃダメだね」
エリーは今頭に浮かんだ戦い方を、首を振って却下する。
ついさっき死ぬほど豹拳と貫手を叩き込んだが、大したダメージを与えられたようには感じなかった。
チマチマと同じような攻撃をしても、おそらく倒せない。
倒せはしても、時間がかかりすぎる。
倒し切る前にもう1度捕まるリスクが大きい。
もしそうなれば、また痛い目を見ることになる。何度も自分の手足を自分で千切るようなことはしたくなかった。
であればどうするのか。
「……うん、あれで行こう」
エリーはすぐに答えを出した。
踵を上げ、地面に埋めたつま先に全体重を乗せる。
膝を曲げ、体を曲げ、一瞬力を貯める。
エリーはまたも自分に向かってドタバタと走って来るソレを見る。
狙いを定める。
そして全力で地面を蹴る。
次の瞬間、ソレは弾け飛んでいた。
トレヴァー侯爵のものを含めた5の右腕のうち、4本が千切れ宙を舞う。
右半身の多くを粉々にされ、視界が激しく揺れて混濁する。
ソレが気付いたときには、仰向けに倒れていた。
欠損した腕が再生していくのがわかる。
同時に自らがまた大きく減っていくのも感じる。
左腕と両足を地面について起き上がろうとする瞬間、とっさに背後を見た。
ソレが目にしたのは、聞いたことが無いような風切り音と風圧を纏ったエリーだった。
指尖硬化によって鋭く固めたつま先を先頭に、跳び蹴りの姿勢を取るエリー。
エリーはソレに対する攻撃方法として、かつてヘレーネが使って見せ、自身がサイバやエラットに対して使った、大砲のような跳び蹴りを選んだのだ。
ソレは目にした瞬間、先ほど自分を弾き飛ばした攻撃がまた迫っているのだと気付いた。
だが、もう間に合わない。
先ほどは認識できなかった、自分の体が弾き飛ばされる音が聞こえる。
強烈な破裂音だ。
2度目のエリーの大砲蹴りが命中したのは、とっさに体を庇うべく差し出した左腕だった。
つま先が1本の腕を貫き、風圧によって他の腕も大きく弾かれる。
貫かれた腕が、内側から爆ぜるように破壊される。
そして腕を破壊したつま先が、左半身を捉えた。
着弾点から放射状に肉が飛び散る。
左腕の多くが付け根を失い、風圧に負けてあらぬ方向へ飛んでいく。
最後には自分の体さえ、衝撃波と風圧に負けて弾き飛ばされる。
だがソレは8本の足を滅茶苦茶に動かし、無様に倒れ伏すことだけは免れた。
ソレはまたも自らが大きく減っていくのを感じる。
このペースで減り続ければ、すぐに消えてなくなってしまう。
3つの食べ物で得たエネルギーは、とうの昔に消費してしまった。
不味い。
消えたくない。
食べなければ。
ソレは腕の再生を待つことなくエリーを探す。
きっとまた背後にいる。
そう思ったソレは後ろを振り返る。
だがエリーを見つけることはできなかった。
そしてまた死角から甲高い風切り音が聞こえる。
ソレが気付いたときには、もう遅い。
ソレの行動原理が単純であるように、エリーの攻撃プロセスもシンプルだった。
ソレめがけて大砲蹴りを浴びせる。
つま先を地面に刺して急停止し、ソレを見る。
ソレがエリーを見つけようと振り返る、その予備動作から、振り返る方向を読み取る。
右周りに振り返るなら、ソレを中心に時計回り跳んで死角に入る。
左回りに振り返るなら、逆時計回りに跳ぶ。
そしてまた死角から大砲蹴りを放つ。
ソレはどんなに探してもエリーを見つけ出せず、飛んでくるエリーを捕まえることもできない。
完全に型にハマっていた。
エリーは赤い眼光だけを残像に残し、ソレの周りを跳び回り、回避も反撃も不可能な一撃離脱を繰り返す。
その様子を見ることが出来るのは、ゼルマだけだった。
異形と化した父親が瞬く間に破壊されいく様子を、ゼルマはぼんやりと眺める。
目の前の光景に全く現実感が持てず、肩の傷の痛みすらどこか遠くに感じながら、ゼルマは自分の中の喪失感に気付き始めていた。
たった1夜で、どれだけのものを失ったのか。
なぜ失うことになってしまったのか。
意識の片隅でそんなことを考え始めていた。
幾度目かの大砲蹴りが、ソレの体を穿った。
命中したのは、左側のわき腹。
足が2本飛び、1本は皮1枚でつながる状態。
だがソレはその場に踏み留まった。
何度も大砲蹴りを受けるうちに、ソレは衝撃の耐え方と逃がし方を学んでいたのだ。
重心を低く構えることで吹っ飛ばされることを逃れたソレは、即座に後ろを振り向く。
そうすることでようやく、ソレは視界にエリーを捉えることが叶った。
次はどの方向から攻撃してくるのかさえ分かれば、捕まえることが出来るかもしれない。
ソレはエリーの次の行動を見極めるべく、エリーを懸命に見ようとした。
だがソレの思惑通りには行かなかった。
エリーは目の前にいたのだ。
正確には、エリーの下半身が目の前にあったと言える。
エリーは先ほどの大砲蹴りの後、即座に一直線にソレに向かって走っていた。
「これで……ッ」
ソレの数歩手前から右に回転を始め、一歩手前で高く飛び上がる。
その時ようやくソレがエリーの方を見たのだ。
だが、やはり間に合わない。
もう遅い。
足を大きく開き、空中で胴をひねり、指尖硬化した右足を横なぎに振るう。
”フュボッ”という甲高い風切り音がソレに迫る。
「死んで!」
剣の様な切れ味の回転蹴りが、ソレの首を薙いだ。
直後、ソレは何も見えず、聞こえなくなった。
ソレの目が空を舞う。
体を残し、上あごから上だけが高く舞い上がり、重力に従って落ちていく。
エリーの横薙ぎ一閃は、ソレの首を切断したのだ。
ソレの体は動かない。
着地したエリーが立ち上がる。
上あごから上が無いソレの体がふらつき、ゆっくりと倒れ込む。
その様子は、戦いを見ていたゼルマに決着を確信させた。
「ふぅ……」
疲れた。
体が重い。
一歩も動きたくない。
アレに勝ったのはいいけど、この後どうすればいいのかな。
ギンたちを起こして真祖に会いに行く?
空を見てみると、東側の雨雲が青白くなってる。
もう朝になっちゃった。
ギンたちを起こしてから真祖に会いに行こうとしても、間に合わないかもしれない。
1人で会いに行く?
ギンたちを残して?
……それは、なんか嫌。
「……エリー」
ゼルマさんの声がする。
聞いたことのない声色だね。
イライラする。
何その声。
何その顔。
何なの?
何でそんな、申し訳なさそうな顔してるの?
イライラする。
すごくイライラする。
でも、今は無視しよう。
よくわからないイライラを発散するより、ギンたちを起こす方が先。
お城に入れば日光に当たらずに済むかもしれないし、何よりここにほっぽっていくと、ギンたちが死ぬ。
日光に焼かれて死ぬか、騎士団に殺されて死ぬかしかない。
そんなのは、なんか、嫌。
そう思って、私がギンたちの方に歩きだそうとしたときだった。
右足を掴まれた。
「ッ! エリー!」
ゼルマさんが私を呼ぶ。
「まだ生きてるの?!」
私はとっさに足を掴む手を、掴まれていない左足で踏みつぶそうとした。
それがいけなかった。
右足を後ろに引っ張られ、うつ伏せに引き倒される。
掴む手を踏みつぶそうとして左足を上げてたから、踏ん張ることなんてできなかった。
うつ伏せは不味いと思って、右足の骨がねじれて折れるのを覚悟して、無理矢理仰向けになった。
案の定折れた。
でも仰向けになれた。
私を真上から覗き込む、大きな赤い目があった。
さっき私が蹴って落とした頭の部分に、新しい頭がある。
肌色でツルツルした人の頭くらいの塊の中心に、縦に裂けた大きな目がある。
それが私を見下ろしてる。
「このっ」
仰向けになった勢いのまま、左の貫手を目に叩き込む。
私の貫手はあっさりと赤い目の中心を貫いて、左腕に目の奥の生暖かい液体が滴る。
でもソレは止まらない。
地面に着いた4本の左手を支えにして、右腕を大きく振り上げてる。
「しまっ」
ソレが腕を振り下ろす瞬間、私はそれだけ言う。
それだけしか、出来なかった。
ソレが振り上げた3本の右腕が、巨大なハンマーのような轟音を立てて振り下ろされた。
仰向けになったのエリーの腹部に拳が触れた瞬間、爆ぜた。
地面にたたきつけられた水風船のように、エリーの腹が飛沫を上げる。
真っ赤な血飛沫の中、艶のある内臓が周囲に飛び散り、ソレの体躯に張り付いては落ちた。
吹きあがった血液が雨音に混じり、”ビチャビチャ”と音を立てて降りしきる。
その音が収まるころ、ソレの眼球に刺さったエリーの左手が、”ズルリ”と抜け落ちた。
左腕が赤い地面に力なくに沈む。
それ以上動く気配を見せない。
エリーの口は大きく開かれ、腹がはじけた衝撃で居場所を失った舌が顔を覗かせている。
見開かれた眼は完全に白目を剥き、エリーの意識が絶たれていることを示していた。
ソレの目が”ジュクジュク”とうごめき、再生を終える。
ソレは弾けて内側を晒すエリーの腹部を見下ろした。
飛び散った内臓を一瞥し、血嚢を探す。
開かれた腹の奥にある、半分ほど潰れた血嚢を見つけるのに時間はかからなかった。
ソレの赤い目が怪しく光る。
”ピクリ”とエリーの体が動く。
ソレはゆっくりと手を伸ばし、内臓をまさぐり始める。
その光景は、エリーにも見えていた。
―……なに? これ、私?
ソレの目が見下ろすのは、血嚢をまさぐる自分の腕と、開かれ内臓を晒すエリーの腹部だ。
ソレの目が映す光景を、エリーも見る。
ソレの視界が自分に共有される理由を、エリーは知らない。
だが、自分が何をされているのかはわかる。
―血嚢が欲しいってことかな。
無様に倒れ込み、内臓を明け渡し、だらしなく舌を放りだして白目を剥く。そんな自分を俯瞰しながら、エリーは思う。
―なんでこんなの見せてくるのかな。やめてよ。
エリーの内臓をまさぐる腕の2本が、血嚢を掴む。
自分の内臓を掴まれる感触のおぞましさに、肩を震わせる。
以前ヘレーネに内臓をかき回されたこともあり、エリーにとってこの感触は2度目だった。
血嚢というヴァンパイアにとって心臓以上の弱点を握られ、弱々しく体を震わせることしか出来ない。
エリーはそんな自分の情けなさに心が折れそうになる。
心が折れてしまわないように、その”情けない”という感情を殺す。
そして考える。
―頭を落としたのに生きてるってことは、頭は急所じゃないんだ。
「あ゛……ぐ……」
無意識に嗚咽を漏らしながら、血嚢が引きちぎられようとする光景を眺め、さらに考える。
―トレヴァー侯爵が飲み込んだあの結晶が急所だとしたら、どこにある……?
答えは簡単だ。
エリーの肩がさらに震える。
血嚢が引っ張られ、体と血嚢をつなぐ管や繊維が悲鳴をあげる。
ソレの視界の外で、ゆっくりとエリーの右腕が動き始める。
白目を剥いたままのエリーの目は、瞼の裏側しか映さない。
だがソレの見ている光景から、肩の筋肉の動きを読み取り、自分の腕の動きをなんとなく理解し、制御する。
ソレの腕がエリーの血嚢を引きちぎるのと、同時だった。
エリーの指尖硬化した右手がトレヴァー侯爵の背骨を断つ。
背骨を断ち、肋骨を歪ませ、その奥にある結晶状の何かを砕く。
そしてエリーの指先が、トレヴァー侯爵の胸を突き破り、貫通した。
その瞬間、ソレは自らが砕けたのを感じた。