幻視の吸血鬼
ジャイコブは農村に住むヴァンパイアだった。彼は幻視というスキルをもっており、一度目にした人物に扮することができる。彼は昼間に農村の近くにある誰も寄り付かない岩場の住処に引きこもり、夜になると幻視を使って村人に成りすまし、密かに村人を襲って吸血をして生きてきた。
その農村にヴァンパイアが居ることは村民の間で知れ渡っていた。だがジャイコブは村民に成りすまして吸血するため、その村の中でヴァンパイアだと糾弾されるのはジャイコブに見られ幻視の対象になった、無実の村人だった。
「おらぁ天才だぁ」
それがジャイコブの口癖だった。何せ何年もの間同じ村で吸血をしてきたのに、一度も自分が疑われたことが無いのだ。そもそもジャイコブの存在を知る村人は居なかった。
ジャイコブがこの農村で過ごした数年は、今の時代のヴァンパイアにとって極稀な成功例と言える。自分以外のヴァンパイアなど親ぐらいしか知らないジャイコブだったが、たいていのヴァンパイアは2,3度吸血を行えば存在が露見し追い詰められ、逃げるか討伐されるしかないと知っていた。ジャイコブは自分の成功をとても誇らしく、自分はとても頭がいいと思っていた。
そんな村人にとっては恐怖の、ジャイコブにとっては平和な日常は、ある日突然終わりを告げた。
その日のジャイコブはいつもの村に、いつもの時間にやってきた。日もすでに落ちた時間、村人など全く出歩いていないかと思いきや、そうでもない。危険とわかっていながらも屋外で何かしらの仕事をしなければ、冬を越せないかもしれないからだ。年々人が減り続けている貧しい農村ならなおさらだ。
「あの人間にすっべ」
ジャイコブが見つけたのは、今しがた家から出てどこかに行った男だった。冬だというのに厚着していないのは、おそらく屋外で何か仕事をするのではなく、別の家や村の施設に用事があるからだろう。すぐには帰ってこないとジャイコブは考えた。
「幻視」
わざわざスキルの名前を口にする必要はないが、ジャイコブは毎回声に出してスキルを使う。そうするとスキルの調子が良くなるというジンクスを信じていた。
幻視によってジャイコブの姿は、今しがた見送った中年男性そっくりに見える。体臭も声も、本人と同じように感じられる。触れた感触だけは再現できないが、そのことを不便に感じたことはなかった。
ジャイコブは姿を真似た中年男性の家に、入れ替わるように入った。すると
「あれ? 父さん、今村長の家に行くって出て行かなかった?」
10歳かそこらに見える男の子が、不思議そうな顔でジャイコブを見ていた。頭がいいジャイコブはすぐに、この子供はあの中年男性の息子であることを見抜いた。
「忘れ物しただぁ。今、かかぁは居るだか?」
農村に合わせた方言をジャイコブは使い慣れていた。何年もこの農村をえさ場にしているのだから当たり前だが、このしゃべり方さえしていれば疑われることはない。
「母さんに用事? 呼んでこようか?」
「いんや、それよりこっちに来るだ」
すぐ近くに親がいないことを確信したジャイコブは、目の前の男の子に手招きする。手招きされた男の子は、父親の顔、声、体格から体臭、しゃべり方まで同じジャイコブを疑うことなく近づいていく。
そしてジャイコブの手の届く距離まで近づいたとき、男の子は一瞬の間を置いて悲鳴をあげた。
「あああ、あああがあ!」
強烈な痛みが襲った。首筋に深く牙が刺さった痛みだ。
男の子は自分に何が起きたのかを理解するのに、10秒ほどかかった。
父親だと思った男の顔が、自分の頭のすぐ隣にある。首筋に牙を突き立て、ジュルジュルと嫌な音を立てて血液を吸い取っているのが誰なのか、嫌でも理解した。
「と、とう、さん……」
若く健康な人間の血をジャイコブは大変美味に感じ、痛みと驚きによって抵抗できない男の子から思う存分に血を啜った。
ジャイコブの血嚢が満たされた、すぐ後ろから女の悲鳴が聞こえた。はっと振り返ると、腰を抜かしている女が1人いる。
「あ」
我に返ってジャイコブの腕の中でぐったりしている男の子を見ると、気を失っていた。小さな体から思う存分に血を吸ったのだから、当然と言える。
「あ~、もう助からねぇだなぁ」
生きてはいるが、体から生気を感じない。肌も青白くなっている。この男の子はもうじき死ぬ。ジャイコブにはそれがわかった。本当なら死なない程度に吸血量を調整するのだが、ジャイコブは血の味に夢中になって調整を忘れてしまっていた。
ちょっともったいなかったな。とジャイコブは思ったが、よくあることなので気にしない。どうせならすべての血を飲んでしまおうと、改めて男の子の首に牙を突き立て、血を吸いつくした。
血の抜けた男の子の亡骸を床に捨て置き、ジャイコブは立ち上がり、そのまま家を出ようとする。吸血しているところを見られ、悲鳴をあげられた。もうじき人が集まって来るだろう。その前に退散しなくてはならなかった。
そんな時だ。
「な、なんだぁ?」
”ドクン”と強烈な鼓動が村の外から感じられた。体の奥の深いところで、その鼓動に何かが強く反応した。
ジャイコブは村の中で立ち止まって、しばらく耳を澄ます。するとまたも”ドクン”という鼓動がジャイコブの腹の底に響く。そして、じわじわとジャイコブの体に力が満ちていく。
「あっちで何かあっただな。おらたちに関係するなにか……っは!」
頭のいいジャイコブは、すぐにこの鼓動の正体が真祖による誘因だと気付いた。真祖の復活を察知できるのは、ヴァンパイアに本能レベルで備わる機能なのだが、ジャイコブは自分の良くできた頭脳による気付きであると考えた。
「誘ってるだなぁ。真祖様はおらの頭脳を頼りにしてるってことだか?」
気が付くと幻視のスキルは解けてしまっていた。ジャイコブの小麦色の肌、細身の体躯、落ちくぼんだ赤い瞳は、男の子がヴァンパイアに殺されたことを聞きつけて集まった村人たちに見られていた。
何やらジャイコブを見て騒ぐ村人の前でニヤァと笑い、鋭く尖った牙を晒し、ジャイコブは鼓動に誘われるまま王都に向けて走り出した。
王都に侵入して数日、ジャイコブは鼓動の発信源である真祖に近づくことができずにいた。いや、正確には近づくのをためらっていた。
夜になると王都全体を騎士たちが見回りをしているのだ。隠れてやり過ごくらいなら造作もないが、王城付近は広場になっていて見通しが良く、駐屯する騎士たちに見られずに王城に入るのはかなり難しいだろうと考えていた。
だが頭のいいジャイコブはひらめいた。警備をする騎士に成りすませば簡単に近づけると思い至った。
ジャイコブは人の少ない北西区のとある家屋に潜伏し、機を待った。
ジャイコブの潜伏する北西区に、都合よく1人でやってきた騎士を見つけた。4人で巡回していた隊に何かを届け、踵を返して戻っていくようだ。
ジャイコブの行動は早かった。1人で王城の方に走る騎士を背後から襲い、静かに気絶させ、根城にしていた家屋に連れ込む。首にかけられていたネームタグに”タイラー”という名前が刻まれているのを見たジャイコブは、タイラーの首筋に牙を突き立てながら、窓の下を覗き込んだ。
つい先ほどタイラーが何かを届けた4人組の騎士の会話、つまり騎士団の目的や巡回の意味などを盗み聞きしつつ、タイラーの血で腹を満たした。
「別に生かさなくてもいいだが、殺す理由もないだなぁ」
十分に腹を満たしたタイラーは、気を失ったままのタイラーを見下ろす。幻視のスキルでタイラーの姿になることは決めていたが、だからと言って本物のタイラーを殺す理由はないとジャイコブは考えた。
「幻視……と」
幻視のスキルを発動し、タイラーの鎧姿、声、匂い、着ている鎧が立てる音までを再現したジャイコブは、意気揚々と王城に向かって歩き始める。近づきさえすれば、王城に入るくらい朝飯前。ジャイコブはもう何もかもうまく行ったも同然と思い、足取り軽く真祖に会いに向かうのだった。
王城付近の広場に、タイラーの姿をしたジャイコブは堂々と歩いてやってきた。
4人の騎士と、女が一人。よく見れば騎士のうちの一人も女だ。彼らに向かって歩きながら、ジャイコブは親し気に片手をあげてこういった。
「遅くなりましただぁ……です」
5人はそろってこちらを見た。特に敵意は感じなかったので、ジャイコブは自分の作戦の成功を確信した。