半ヴァンパイアは逃げ延びる
ヘレーネさんが一歩踏み込んだと思ったら目の前にいた。
「なっ」
とっさに武器を振ろうとした右手をつかまれて、香水吹きで何かを吹きかけられる。
その瞬間、私は……
シトリンを吹きかけられたエリーは、全身の力を抜かれてグシャリとその場に座り込む。ヘレーネにつかまれている右手から、ショートソードがこぼれ落ち砂浜に刺さる。
体が動かない……力が入らない……、頭の中がふわふわしてる。私は何をしてたんだっけ……?
意思の光を失った瞳で、砂浜と膝をついた自分の足をぼんやりと眺めながらそう思った。
「はい、私の勝ちですわね」
シトリンをによって自我を喪失したエリーを見て、ヘレーネは満足そうに言う。
ヘレーネはつかんでいたエリーの右手首を離すと、海の方に向き直る。逃げた3人の乗る船を見つけると、薄く笑った。
「ギリギリ届きそうです。あなたはそこで、お友達の乗る船が壊されるのを見ていてください」
ヘレーネは魔力で全身を強化し、跳躍のため足に力を込め……背後からの攻撃をまともに受けた。
シトリンは人であれば強かろうが弱かろうが効果を発揮する。しかしヴァンパイアには効果がなかった。
ハーフヴァンパイアであるエリーには、シトリンは十全に効果を発揮しなかった。エリーは一瞬自我を失いかけたたものの、すぐにエリーの自我は復活していったのだ。
えっと、確かサマラさんたちは船でにげてて、私は……この人、ヘレーネさんを止めないといけなくて……
そこまで思い出したところで顔を上げ、ヘレーネを見る。
こっちを見てない、わき腹ががら空きだ。あの跳躍でサマラさんたちの船を壊すつもりだよね。ショートソードを拾えば気づかれるから拾えない……
未だまとまらない思考であっても、エリーは絶好の攻撃チャンスを逃すことはなかった。
座った状態で弛緩する下半身の筋肉に全力で力を込め、最大速度でヘレーネのわき腹に蹴りを叩き込む。
「ぐあっ!?」
意識の外からの攻撃をまともに受けたヘレーネは、ルイアに来てから初めてのダメージを受けてひるみ、全身を強化していた魔力を霧散させながら距離をとる。
「あなた、なぜ動けるのですか? 確かにシトリンを吹きかけました。自我を失って、私の命令なしには動けないはず……」
ヘレーネは初めてエリーを、被験体にする予定の冒険者としてではなく、一個人として見た。
「人間であれば強さにかかわらずに効くシトリンが効果を発揮しないということは、あなたは人間じゃないのですわね?」
「人間だよ」
エリーは即答する。自分がハーフヴァンパイアだとわかっているが、わざわざ教えたりはしない。なにより、人間でありたい、人間に戻りたいとエリーは思っているからこそ、人間だと名乗る。
しかしヘレーネはそれをたやすく否定する。
「いいえ、あなたは人間ではないですわ。吸血鬼でしょう? 私と同じ」
「違う!」
ヘレーネの言葉をさえぎってエリーは否定する。
エリーはヘレーネに突進していた。今までのような冷静な判断ではなく、自身の正体がバレそうになった焦りで行動した。
……それはヘレーネを驚かせはしたが、愚行であったことは間違いない。
「あらあら、どうしてそんなに焦ってるんですの? 別にばれてもいいじゃありませんか、同族なのですから仲良くしましょう?」
エリーの全力の突進、そして全力のパンチは、ヘレーネの抱擁によって防がれた。
ヘレーネはエリーの両手ごと正面から抱きしめ、ベアハッグのように締め上げる。
”仲良く”などとヘレーネは言ったが、そんなつもりは毛頭なかった。そして本気でエリーを同族だと思ってもいなかった。
この方が本当にヴァンパイアなら、お薬なしで戦えば間違いなく私が圧倒されていたはずです。それにシトリンは、短時間ながら効果を発揮していたようですし、”人間に近い何か”なのでしょう……
「は、放せ」
じたばたと足を暴れさせるエリーを、ヘレーネはさらに締め上げながら思考する。
吸血鬼だと指摘されて焦っていましたわね。それにシトリンはヴァンパイアには効果がありません。人と吸血鬼……ヴァンパイアに近い人間……?
「ぐ、があ……」
締め上げられうめくエリーを、ヘレーネは嗜虐的な笑みを浮かべながら見る。
よく見ればかわいいですわねこの娘。正体も気になりますし、一つ残っている試作品を試してみましょう。それで死んでしまったなら、この娘は人間だったということですわ。
「お名前、伺ってもいいですか? 教えてくださるのでしたら、放して差し上げますわ」
ヘレーネはエリーを締め上げながら名前を問う。答えないなら絞め殺すと、脅しをかける。
エリーは、自分が衝動的に突っ込んでいったことを後悔していた。
しかし、もうそのころには腕ごと抱きしめられていた。
”しまった”。そう思う頃にはもう両足が地面につかなくて、じたばたと足を暴れさせることしかできなかった。
「は、放せ」
単純な力、筋力では勝負にならない。こういう状況は一番まずいのに……
拘束する程度のだった締め付けが一気に強くなる。
腕が、背骨が、ミシミシと音をたてているような気がする。
「ぐ、があ……」
お腹がつぶれる……息ができない……骨が折れちゃう……
嗜虐的な笑みを浮かべながらヘレーネはエリーに問う。
「お名前、伺ってもいいですか? 教えてくださるのでしたら、放して差し上げますわ」
言う、言うから放して……
エリはー必死に首を縦に振ってこたえる。
エリーを締め上げていた腕がほどかれ、ドサリと砂浜に落ちる。息を吸い込みながら後ずさるエリーを、ヘレーネは歩いて追いかける。
「それで、お名前は?」
「エ、エリー」
「それではエリーさん」
ヘレーネはにっこりと笑う。
「ゲームはエリーさんの勝ちですわ。あれだけ離れられると、もう私では追えません」
それを聞いて、エリーは少しほっとした。
そっか、もうサマラさんたちは逃げ切れたんだね。
「ですから、逃げた3人分エリーさんには頑張ってもらいたいのですわ」
ヘレーネは、ジェイドに使った試作毒の最後の一つを取り出し、後ずさるエリーを覆いかぶさるように捕まえる。
「楽しませてくださいね」
エリーは自分の首筋に、何かを突き刺されるのを感じた。
ヘレーネはエリーの首筋に、ルイアの町に来る前にカピリャータの素材で作った2つの試作毒を注入した。
ジェイドという人間で一度試した毒であり、2つ作った試作毒の2つ目である。
エリーがジェイドと同じような反応をしめし息絶えたのなら、エリーはただの人間だった。そうヘレーネは結論付けることにした。
エリーを最初に襲ったのは、全身の痛みだった。
「い、痛い、っぐ、い゛あああ゛あ゛あ゛あ゛ああっ」
全身を貫く激痛にエリーはどうしてよいかわからず、悲鳴を上げ自分の両肩を抱いてのたうつ。
次に襲ったのは麻痺。痛みで暴れることはおろか、自由な呼吸すら制限されるほどの麻痺だった。
「あ、はっ……ぅ」
悲鳴を上げ暴れたい、息が苦しい、痛くて耐えられない。エリーの頭の中はこの3つのことだけで埋まり、体はほとんど言うことを聞かなくなっていった。肩を抱いていた腕が緩み、ゴロゴロとのたうつ体が痙攣する。
ヘレーネはもだえ苦しむエリーを見て、うっとりとトロけた表情をしていた。
「ああ、いいですわね。耐えられない感覚を無理やり我慢させられている方を見るのは最高ですわ」
ヘレーネは涙をこぼしながら悶絶するエリーを見て愉悦と嗜虐の悦びに震えながらも、ジェイドの時との差異をしっかり観察していた。
痙攣が少し激しいですし、わずかながら呼吸もできていますわね。痛みによるショック死ならありえますが、偉い兵士の方のように窒息で死ぬことはないでしょう。毒に対して、体の大きな男性より強く抵抗していますわね。それにしても……
ヘレーネは、もだえ苦しむエリーに見惚れていた。
ああなんてかわいらしいのでしょう! 今までのどの被験体よりも苦しそうですわぁ。
いつまでも見ていたい。自宅に持ち帰り永遠に悶えさせていたい。そうヘレーネは思った。
激しい痛みと、わずかな呼吸による苦しさを感じながら、エリーの心には一部冷静な部分があった。
このまま死んじゃうのかな……
護衛の依頼、途中で放棄しちゃったな……
エリーは、この状況を打破する方法を持っていた。
ハーフヴァンパイアになったときに手に入れたスキル、”ヴァンパイアレイジ”
手に入れてから一度だけ試しに使ったこのスキルの効果は、一時的にヴァンパイアに近づく、というもの。
エリーには、このスキルを使いたくない理由があった。それは、使うたびに完全なヴァンパイアに近づいていくのかもしれない。人間に戻れなくなっていくかもしれない。という漠然とした不安であった。なにより人間でありたいという思いが、このスキルの使用や吸血行為を許さなかった。
死にたくないな……怖いよ……
ヴァンパイアに近づいちゃうかもしれない。人間から遠くなっちゃうかもしれない。でも……死にたくないから、いいよね……
エリーは自身の思いを捨て去り、使いたくないと願ったスキルを使った。
エリーは自分の体の変化にすぐに気づいた。吸血衝動の時の変化に似た感覚だったからだ。
目が赤く変色し、牙が伸び、爪が鋭く変形し硬くなる。
ずっと体を責め苛んできた痛みが薄くなり、麻痺が引いていく。同時に力が漲るような、取り戻すような感覚を感じ、即座にその場から飛びのく。
ヘレーネもエリーの変化に気づいていた。
痙攣が収まり呼吸が安定し、エリーの体がヴァンパイアの特徴を帯びていくのを、興味深いと感じながら観察していた。
「やっぱり吸血鬼でしたのね。どうやって隠していたんですか?」
ヘレーネは問う。
疑問は尽きないしエリーへの興味もわいてくる。
もはやヘレーネは、逃した3人の人間などどうでもよくなっていた。目の前の少女を持ち帰り、今まで調合してきたあらゆる毒で責め苛んでみたい。そう願うほどエリーに執着していた。
しかしエリーは答えない。
エリーには、もうここでヘレーネと戦う理由はなかった。
サマラさんたちは逃げきれたよね? もう逃げてもいいよね?
ヘレーネに与えられた苦痛と死の恐怖によって、エリーの心は折れていた。
ヴァンパイアに近づいた今ならヘレーネに勝てるかもしれない……などとは考えられなかった。
ヘレーネに勝つ、という思考すら生まれないほどに、エリーの心は前向きさを失ってしまった。
「エリーさん? あきらめて私のお家へ来てください。たっぷりの生き血とお薬でおもてなししますわ」
ヘレーネは挑発する。ヴァンパイアの特徴を帯びたエリーが、どのような変化をしたのか興味がわいたからだ。
「ひっ、い、いやぁ」
安心させるよう微笑んだヘレーネに、エリーは恐怖の感情しか抱かなかった。
エリーはヘレーネに背を向け、全力で走った。
砂を大きく巻き上げ、町の東へ、ピュラの町に向かって逃げだした。
「えぇ……」
ヘレーネは、エリーの逃亡に一瞬反応が遅れた。
つい先ほどまで油断なく自分を見つめ、フィジカルの差を技術で埋め合わせ、仲間の逃亡の時間を一人で稼いでいた者が、突然恐怖に顔をゆがませながら逃亡したこと、つまりはエリーの態度の豹変についていけなかった。
「ええと、私の毒でおかしくなっちゃったのでしょうか?」
結局ヘレーネは、逃亡を阻止することも、エリーを捕まえることにも失敗した。
「私の完敗ですわね」
しかし被験体の確保と毒の材料の収集という当初の目的は達していた。
ヘレーネは、興味深い少女をいつか自分の被験体にすると決め、海に背を向けて自宅への帰路についた。
これで港町ルイアでのお話は一段落となります。
あとは事後処理などいろいろとなると思います。